#1:きっかけ。
そう、あれは週末の追い込みの残業を終え、終電間際のプラットホームでの出来事だった。
プラットホームには、俺みたいに週末の仕事を終えた仕事疲れの若いサラリーマンや、何処かで一杯引っかけてきたと思われる赤ら顔のオヤジ、なにやらテンションが高く、騒いでいるチャラチャラした風貌の若い男達、そして目の前にはポツンとひとり、ジャージ姿でスポーツバッグを持った部活帰りと思われる女子高生らしき娘が立っていた。
女子高生がこんな夜遅くまで部活かよ?
なんてボンヤリ後ろから見ていると、ポニーテールにした頭をうつらうつらと時々上下させていた。
立ったまま居眠か? 最近の若いヤツは器用だなぁ。
なんて思っているうちに、視線を右に振ると、ゆっくりと電車がホームに近付いて来ているのが目に入った。
そして、再び前に視線を戻すと、先ほどから時々頭を上下させて居眠りしていた様子の女子高生が、とっさに目が覚めて驚いたのか?前につんのめって危うくプラットホームに転落しそうな姿勢になった。
危ない!と思った次の瞬間、彼女の真後ろにいた俺は右足を踏み出し、
渾身の力で伸ばした右腕で彼女の左肩を思い切り後ろから掴んで引き寄せたつもりだったが…。
その後、俺はいったいどうなってしまったのか? 全く思い出せない。
俺は、薄暗い部屋のベッドの中でボンヤリと目を開けた。今まで夢でも見ていたのだろうか? でも、最後の方は、まるでスローモーション映像でも見てたように鮮明な記憶として残っている。頭の中が霧にでも包まれたように、現実と夢の区別がはっきりしないまま、それ以上深く考えることも無く再び眠りについた。
翌朝、シャーっというカーテンを開ける音、耳元でコツコツと鳴る足音、そしてドアを閉めた音に気付き、俺は浅い眠りから薄らと目を開けた。
目の前に飛び込んで来た真っ白な壁一面と、一瞬消毒液臭い匂いが鼻を付き、ここが病院であること、腕に何かが巻かれていること、頭に少し鈍い痛みがあること、そして、体に何か違和感があることを認識した。
やはり、夢を見ていたのでは無かったようだ。俺はあの時、プラットホームから転落しそうになった女の子を助けようとした。助けるつもりが彼女と縺れ合ってプラットホームで転倒し、頭でも打って意識が無くなったんだろう。そして、この病院に運びこまれたってことか? そういえば、あの女の子は怪我も無く、無事だったのだろうか?
俺は、派遣でシステムエンジニアをやっている緒方裕也。昨日は、仕事の納期を間に合わせる為、依頼のあったプログラムの最終修正作業の追い込みをやって、なんとか終電に間に合い、休みに入るはずだった。
「こりゃあ、まずよいなぁ。もし、長期入院ってことになれば」
思わずひとり事を言ったその瞬間、
「えっ? 俺、今、声がおかしくなった?」
声が妙に上ずっている。そういやぁ、なんか体もふわふわしていて、自分の体じゃないような気がする。なんだか胸の辺りも何かに締め付けられ、圧迫されているような感じで、少し重い。徐々に意識がハッキリしてくると、段々と自分の体が五体満足なものなのか? 急激に不安の嵐が俺の頭の中を駆け巡った。
俺は、恐る恐る腫れものでも触るかのように、布団の中で両手を使って胸をそっと包んでみた。胸は、大きく腫れ上がり、包帯のような物でも巻かれているようだ。胸に大ケガでもしたのだろうか? でも、なんだか胸は少し柔らかい。改めて冷静に考えてみると、これって、やっぱり女の子の胸?なわけ?
「ええっー?」
俺の体はいったいどうなっているんだっー!
思わず、布団を剥ぐようにガバっと上半身を起こしたその直後、パッサっと長い髪の毛が肩や頬に纏わり付く事に初めて気がついた。
「何?これ?この長い髪の毛は?」
毛先を右手で掴み、そして、自分の目で改めて胸を確かめて見た。やはり、女の子の胸のような膨らみが二つあるようにしか見えない。目に飛び込んできた腕も、手も凄く華奢で、俺のものじゃない。それはハッキリと分かる。
まさか!と思い、さっと両手で下半身の男の部分に触れてみたが、そこにあるはずの感触も無い。ここまで来ると、さすがに俺も動揺しだし、心臓がバクバクと鼓動が速くなるのを感じた。
そうだ!鏡、鏡くらいこの病室にもあるだろっ!
ベッドから脚を下ろすと、ここが個室部屋で、目の前に洗面台があるのが見えた。前につんのめりそうな勢いで洗面台に両手を付き、自分の顔を写すと愕然とした。
そこには、パジャマのような患者衣を着た、肩下まで髪の伸びた小柄な美少女の驚いた顔が写っていたのだ。ケガでもしたのか右肘には包帯が巻かれていた。
俺は、鏡に写った全く見覚えの無い、その美少女の頬をそっと両手で優しく包み込み、そして、そのまま両手の人指し指と親指で頬を抓ってみた。
手に伝わるぷにっとした感触、それと同時に頬に痛みを感じる。こんな馬鹿げたことが実際に起こるのだろうか?信じられなかった。でも、目の前ではその信じられない事件が今、正に起こっているのだ! 狐に抓まれたとは正にこの事か。
しかし、この娘はいったい誰なんだ?ひょっとして、昨日俺が助けようとした女の子か? 彼女を見たのは、ほんの僅かな時間で、しかも後ろ姿だった為、ハッキリと顔を見たわけではないが、直観的にそう感じた。
それじゃあ、俺の体はいったいどうなってしまったんだ? そして、いったい俺はこれからどうすれば…。洗面台の前に両手を付いたまま、ガクッと項垂れ、
俺はそのままの姿勢で固まったまま思考が停止した。
暫くしてこのままじゃラチがあかないと思考を再開し、ふと部屋中を見渡すと、テレビが目に入った。
そうだ!テレビニュースで“駅で人身事故”みたいなニュース、やってないか?
テレビを付けて、あちこち、チャンネルを変えていたら、偶然にもそれらしきニュースが流れていた。
目撃談によれば、昨晩、駅のプラットホームで投身自殺を図ろうとした女性と、その女性を止めようとした男性が縺れあったままプラットホーム上で倒れ、
その後、直ぐに病院に運ばれたということだった。そして、その後の両者の安否に関する情報は入っていないとのことだった。
この事件が俺の事なんだろうか? でも何? 投身自殺って… 傍から見れば、投身自殺にでも見えたんだろうか? って、いうことは、事故の相手もこの病院に運ばれて、どこか別の病室で入院しているってこと?
もし、そうだとしたら、今の俺の体の中にある魂はこの体の持ち主の女の子で、俺達の体は事故のショックで入れ替わったってことになるのか???そんな馬鹿なぁー!
この現実を俺は受け入れることができず、まだ夢の続きでも見ているのではないか? そう思いたかった。
しかし、目の前ではそんな俺の思いをかき消すかのように次のニュースが流れていく。そして、突如、アナウンサーが、
≪先ほどお伝えしました昨夜のN駅で起こった人身事故ですが、意識不明状態だった男性が今朝亡くなったとのことです。男性の勇気ある行動に敬意を示すと共に、ご冥福を祈ります≫と伝えた。
「今、何て言った?えっ!俺が死んだのか?この俺が?」
今、姿こそ違うが、俺はここに存在しているのだ。俺が死んだという事実、リアルティが全く感じられない。この訳が分からない状態まま俺の体が死んだとして、真実を何も知らない俺の家族や友人はやはり悲しむのだろうか?
「悲しむ人?う~ん」
暫く頭の中の記憶を辿るが、俺の記憶の中に、家族とか、親しい友人とかいった顔が全く浮かんでこない。それどころか、昨日以前の記憶すら思い出せないぞ。何故だ! いったい、これはどういうことなんだ? 俺は、本当に緒方裕也という男だったのか?
そういえば、自分の顔すら思い出せない。
俺が昨日まで男であったという自信さえも揺らぎ始め、益々頭の中が混乱してきた。そんな事を考えていると、なんだか頭がクラクラしてきて軽い頭痛に襲われた俺は、テレビを消して再びベッドに潜り込み、頭から布団を被った。
暫くすると、急に言いようの無い悔しさと悲しさが入り混じった複雑な感情がどっと津波のように押し寄せ、俺は、思わず掌をキュッと強く握りしめた。どうにかして込み上げてくる感情をこらえようとしたが、その直後には頬に涙が伝っていた。