14 『抱えるもの2』
人気の無い美しい回廊で、覇気のない老人はふらふらと左右に揺られながら前進していた。
この国で最も美しいとされる白星石を削り出して創られた壁には、流麗な紋様が所狭しと刻まれている。
床にも同様の素材が使われているため、この一帯に白以外の色は存在しない。
歩き回る人影が纏う衣服もまた純白であるが、その人影…老人の姿は、この空間において、明らかに異質だった。
「ゲルゼウス、チャールズ、ウェールズ、ミュールズ、ムシャバルン、タナ、ヤウェー、マクシミリアン、チャードン、エレクトニクス、イナヴィッツ、カダヴィス、キルバート、エドワード、シルバリオン、アルベルト…。」
止まることなく紡がれる単語は人名だろうか。それならば、彼にとってどのような存在にある者の名なのだろうか。
土色の顔をした老人は、狂ったように同じ単語を列挙し続ける。
「おお、おお…。アルベルト………ゲルゼウス、チャールズ、ウェールズ、ミュールズ、ムシャバルン、タナ、ヤウェー…。」
その嗄れた声は次第に嗚咽に変わってゆき、遂には激しい呼吸になった。
それでも彼は、何度も同じ言葉を繰り返す。
皴だらけの目元から、途切れることない幾ばくもの涙を流しながら―――。
「リーゼ、ラクトっ!こっちだ、こっち!!」
ベルは大きく手を振って二人を呼び寄せた。
鈍よりとした曇り空の下でも僅かな光を反射するベルの金髪が、レイシュヴィーゼの目に飛び込んでくる。
眩しい。彼女はほんの少し、目を細めた。
この場所に滞在することに決めた昨夜から一夜明けた今日、三人は食糧と水の確保に動き出した。
相変わらずの足場の悪さに四苦八苦しながら傍に寄ってみると、彼の手の中にあったのはアピルの実だった。
「さっき見つけたんだ!この木にいっぱいなってる!」
彼が指差すほうを見てみると、なるほど、熟れた赤い実がたくさんぶら下がっている。
アピルの実は、表面の毒々しい色に反して瑞々しい甘味を持つ果実だ。
味見してみろ、とでも言いたげに突き出された一つにかじりつくと、思いの外甘味は強くなく、程よい酸味がきいていた。
…そう言えば、よく散歩に連れて行ってくれたお父様も、市場では必ずアピルの実を買っていたっけ。
『お父さま、また買ったの?お家に帰ったらいっぱいあるのに…。』
『ん?…あぁ、おまえも食べてみるか?今小さく切ってやるから待ってな。…ほら。』
『………っわ!おいしい!これ、ほんとにアピルなの?』
『お!レイシュヴィーゼもこっちがお気に入りか。味覚は俺に似たんだなぁ。』
『いつも食べてるのとちがうね。』
『母様がなぁ…あまーい方が好きだって言うからさ。甘いのは嫌いか?』
『ううん!嫌いじゃないよ!』
『そうか。じゃあ、家では母様といっしょの食べような。俺が一緒だったら、こっちの酸っぱいのにしよう。』
『はいっ、お父さま!』
お父様…。
「…うっそ!そんなに不味かったか!?ごめんっ!」
え?私、何か言った?
慌てるベルに狼狽えていると、すっと目元を掬われる感触に肩を強張らせた。
「泣いている。」
切なく細められたラクトの漆黒の瞳に惹き付けられる。
確かめるように頬を撫でてみると、確かに一筋の湿りが走っていた。
お父様のことを思い出していたから、無意識に流れ出てしまったのだろうか。
「ちっ違うの!ちょっと、昔を思い出していただけよ…。」
心配そうにしていた二人は、ほんの少しだけ安心したようだ。良かった。
でも…気を抜きすぎた。もうお父様やお母様のことで涙を流すことはしないと固く決めたのに。
気持ちを整理しなきゃいけない、と彼女は胸にそっと手を当てた。
「なあ、リーゼ…。良かったら、その、思い出したことっつうの、教えてくんねぇかな。
…力になれるか分かんないけど、話聞くくらいなら、俺にもできるからさ…。」
ベルは視線をさ迷わせながら遠慮がちに言った。思いやってくれているのが嫌でも分かった。
でも今は、その優しさがひどく痛い。
見くびらないで。馬鹿にしないで。悲しみを打ち明けて共有しようだなんて、同情されるのなんて嫌だ。
私は、そんなに弱くない!
ぎゅっと噛み締めた唇が、ただレイシュヴィーゼ自身を守るためだけに開かれた。
「関係ないでしょう!放っておいてよ!!」
大きく見開かれた青い目が彼女を凝視する。
その視線から逃げるように、レイシュヴィーゼは逃げるようにその場から駆け出す。
咄嗟に引き止めることも、声を出すこともできずに、残されたベルは立ち尽くしていた。
自分をちらっと振り返ってからレイシュヴィーゼを追ったラクトの眼差しには、批判的な色は一切含まれていなかった…気がする。
それでも、自分が彼女を傷つけたのは間違いない。
やってしまった。もっと考えて発言するべきだった。
自己嫌悪に陥ったベルはその場でしゃがみこみ、誰の目からしても美しいと絶賛された金糸を乱暴にかきあげる。
それから暫く微動だにしなかったが、何を思い立ったのか、突然、よじよじと木登りを始めたのだった。
勘、というのは、どうやら相当正確な代物らしい。
それをリスティーユが改めて認識したのは明朝のことであった。
探査しながら進むリスティーユがアカツキの元へ歩き出すと、なんと彼のほうもこちらへ向かって来たのだ。
魔法を使えないアカツキがどうして。という疑問は、再会した彼の第一声で解き明かされた。
「どんぴしゃ!俺の勘、今日も冴えてんなあ!」
人好きのする笑顔を浮かべながら、アカツキは剣を抜く。
剣を抜く!?
リスティーユはこちらに体ごと突っ込んでくる厳つい面の男を凝視した。
風に靡く藍色の髪の間からは、丁度小さな角が見える。
続いて耳元には銀の装飾が施された赤いピアス。
おととい、ビステルに授けられたとばかり思っていたそれは、実は赤い石の部分だけ元々あったものだったのに気づく。
角。そして、赤いピアス。その二つを持つ者を、一般に鬼族という。
鬼族は、そのピアスによって元来の残虐非道な性格を抑制しており、解放されると瞳が黄色く変化すると言われている。
リスティーユの頭に疑問符が浮かぶ。
アカツキの瞳は、いつも黄色ではなかっただろうか―――。
刃が近づいているというのに、リスティーユの思考は巡りめぐっていた。文献で一度だけ読んだ、東の果ての種族の概要を思い出せるほどに。
降り下ろされようとしている剣に映る自分の顔は、予想外にも切羽詰まるものではない。
近づく剣が風を切る音を聞きながら、彼は反射的に瞼を下ろした。