12 『恋心と運命』
ファウスト。
六年にも及ぶ学院生活の半分以上を過ごすことになる宿舎の前で、レイシュヴィーゼは珍しく大人びた態度を崩して目を爛々と輝かせていた。絵本に出てきそうなワインレッドの屋根のレンガ造りの屋敷に、彼女はほんの一瞬で心を射止められたのであった。
暫くの間、誰に咎められることなく飽きもせずに見つめ続けていたわけだが、ミラに苦笑混じりに促されてから、彼女は渋々、木製のドアのなかへ吸い込まれていった。
玄関を抜けてから、今後の家事の役割分担について話し合うために六人はぞろぞろと廊下を進む。
その途中でもレイシュヴィーゼは壁に掛けられた可愛らしい装飾に意識を奪われがちであったが、すぐ後ろのベルがその度に咳払いをして彼女を現実に引き戻す。
先頭のアカツキはそんな後ろの様子に構うことなく居間に続く扉を開け放った。
意表を突いて目に飛び込んできたのは、常磐色のソファセットで寛ぐ麗人。
あまりに突然のことで立ち止まったアカツキを不審に思ったラクトが肩ごしに覗き見ると、そこにいるのを歓迎会で助けに入った男であると確認し、彼とレイシュヴィーゼの関係をビステルから聞いていたラクトは、彼女に手招きした。
「ウィグル!あなた、どうしてここにいるの?」
「ビステルさんから聞いていませんか?今日から学院の臨時講師として、ファウストの監督をさせていただくことになったのですが…。」
肝心なことを言い忘れて去ったビステルの後ろ姿を思い出しながら、アカツキは小さく会釈してソファの一つに腰かけた。
それに続くように全員が席についた瞬間、ミラは弾かれたように瞳をきらきらと輝かせ、両手を胸の前で組んだ。
そんな彼女の様子に嫌な予感がした一同だったが、唯一それに気づかないレイシュヴィーゼ以外はミラを止める術を知らなかった。
「リーゼの従者さんとお聞きしてたのに、どうして急に講師になったんですかあー?ていうか何でメルト家の従者に?」
よく考えたら答えを渋りそうな質問をずばずば繰り出すミラを前に、ウィグルは終始穏やかな表情を崩さなかった。
見れば見るほど整った顔立ちに、ベルは面白くなさそうに顔を逸らせる。
その拍子にレイシュヴィーゼの横顔が映り、胸が大きく高鳴る。
可愛い。
頬と耳に集まる熱は、ベルの仄かな恋心と呼応するように高まっていく。
しかし、じっと見つめていられたのもつかの間だった。長い睫に縁取られたアーモンド色の瞳のなかは、未だミラの猛アピールを受け流す男で占められている。
彼女はひどく切なそうにビステルを見つめていた。
十歳とはいえ、人の表情を読み取れないわけがない。
彼女の横顔の意味を瞬時に理解したベルは、今度は睨み付けるようにウィグルを直視する。目が合った。
ミラの質問をかわしている最中であると思っていた彼は、ただ縹色の瞳を優雅に細めた。
そんなやり取りを知るよしもないアカツキは、どうにかしてミラの口を封じる方法を模索していた。
このまま喋らせておいたら最後、卒業まで喋り倒されるような気がする。…いや、さすがに現実的にはありえないことだが。
しかし、見た目とは裏腹に根っからの真面目鬼である彼の心配はそれほどに深刻なものであった。
そんな彼の元に、ミラを止める意志を持つ勇気ある助け船が突如としてやってきた。
「あの時は、ありがとうございました。…もしかして、結界を無理やり破った保護者っていうのは、ウィグルさんのことですか?」
「礼には及ばないよ。大きな怪我が無くて何よりだ。それよりアカツキ、家事分担を決めなくてはね。」
「そうそう!それだよ!」
内心ではミラのトークに割り込んだラクト、然り気無く話題を振ってくれたウィグルと肩を組んでガッツポーズしたかったアカツキが、嬉々として名乗りを挙げた。
共同部分の掃除、洗濯、食事の係をローテーションで回す。
役割が三つあるため二人組になれば丁度良いことと、洗濯が入るから男女のペアが必要と言うことを付け加えた。
不満顔なミラを視界に入れまいと、アカツキはてきぱきと段取りを告げ、おもむろに巾着袋を取り出した。
「クジの代わりに石が入ってる。一人ずつ引きな。」
巾着は隣のミラから順に巡り、アカツキの手元に戻ってきた時には黄色い石しか残っていなかった。
クジ引きの結果は、ラクト・リスティーユ、ミラ・アカツキ、そしてレイシュヴィーゼ・ベルだった。
ラクトは無言で自ら選んだ青色の石を睨み付ける。
対するベルは、白い石を投げ上げては掴むことを嬉しそうに繰り返していた。
対称的すぎるその光景に、なんとなく二人の気持ちの在処に気づいたミラはこっそりとウィグルに耳打ちした。
「リーゼったら、もう取り合われちゃってますよーっ?」
「………お嬢様がお選びになることだ。私はお嬢様に従うまでさ。」
妙に機嫌の良いベルと普段通りのレイシュヴィーゼは、箒を片手にせっせと床を掃いていた。
魔法使いであるレイシュヴィーゼらは、手間をとらずに作業を終えられるのだが、それでは剣の道を行く三人とフェアでないということで、極力自力で家事を行うことになっていた。
「こんなもんでいいんじゃね?」
「そうね。他のみんなの所に行ってみる?」
「…なっなあ、リーゼ。………その、悪かったな。いきなり斬りかかったりして…。」
照れ隠しのようにそっぽを向くベルは、この時やっと初対面で見せた常軌を逸した行動を詫びた。
彼とて、もっと早くそうしたかったのだが、歓迎会の最中はそれどころではなかったし、ウィグルという鉄壁を貫くにはまだまだ彼は若すぎたのだ。
「いいのよ。でも、何かあったの?とても苛立っていたでしょう?」
そう。ベルは苛立っていた。
そして、どこに放てばいいか分からない戸惑いと不安を、偶然遭遇したレイシュヴィーゼに全力でぶつけてしまったのだ。
後に残ったのは強烈な後悔と、彼女に嫌われてしまったのではないかという恐怖だけだった。
「いや、何でもなかったんだ!…あー、そういう訳でもないんだけど、何つうか、…悪かった。」
「良いってば。ラクトのおかげで怪我だってしていないわ。…それに、あなたは私を助けてくれた。それで、おあいこよ。」
魔獣に止めを刺したことを指して微笑むレイシュヴィーゼに、ラクトの名と共に胸の痛みを感じたベルもつられたように柔らかく笑んだ。
こうして笑ったのは初めてかもしれない。ただ在ることが幸せだと穏やかに受け入れるような気持ち。
レイシュヴィーゼの隣は居心地が良すぎて堪らない。もっと多くの表情を見てみたい。鈴のような声をいつまでも聴いていたい。いつか彼女の瞳に宿れる唯一の存在になりたい。
「ありがとな、リーゼ。」
ベルが抱いた淡い思い。
ただ一人の女の子を好きになるという自然な感情の芽生えが、後に大いなる悲しみの母へ変貌を遂げることを知る者はまだ誰も居なかった。