人懐っこい愛され元気系デカわんこ女子が病み上がりに目元涼しげハスキーボイスダウナービジュ神激メロ爆イケ女形態で登校してしまい友人らの情緒が破壊される百合
大槻 小春。
一言で表すならば“デカわんこ”である。
飛び抜けた長身と、それに見合う凹凸に富んだ体型。そんな威圧感を与えかねない特徴に反して、表情はいつもコロコロと明るい。
ブリーチされたウルフカットも、素直な言動が合わさればまさしく人懐っこい飼い犬そのもの。
ゆえにこそ指し示す言葉はやはり、“大型犬”ではなく“デカわんこ”であった。
「おはよーっ、あれ夏美ネイル変わってるーやばーかわヨっ!」
「はよってかはやっ気付くの!」
登校すれば即座に友人のもとに駆け寄ってワンワン。
「千冬ー次の授業の課題さぁーやってはきたけど全然分かんない助けてーっ」
「は、はい……えと、じゃあ一緒に見直してみますか……?」
休み時間には前の席の友人に泣きついてクゥーンクゥーン。
「ちょっと秋穂そのピャッキー新味じゃん! いいなっいいなっ」
「はいはい、一本だけね………………………………もう一本欲しい?」
昼休みには友人から餌付けされてキャインキャイン。
自他ともに認めるデカわんこ。耳や尻尾まで幻視してしまうほどに、その振る舞いは紛れもなく。
大きな体で目一杯に感情を表すさまは友人らにとって癒やしであり、可愛がり甲斐のある少女であった。
──そんな小春が風邪を引いたとき、誰よりも驚いたのは彼女自身だった。
バカな。
バカは風邪を引かないのではなかったのか。
学力は下から数えたほうが早く、地頭も、良いなどと自分ではとても思えない。デカい体ゆえの頑丈さこそが取り柄。そんな自分がまさか風邪などと。
「けほ、こほ……うぅ……」
昨日の放課後、夏美と秋穂と三人でカラオケに行った帰り道。不意に降り出した強いにわか雨のなか、持ち歩いていた折りたたみ傘を友人二人に押し付けて、自分は雨に濡れぴょんぴょこはしゃいでいた小春には、なにが原因なのかなどさっぱり分からなかった。
「ずび……さみし……」
さておきバカがかかるほどの風邪である。感染力は侮れず、ゆえに友人たちからの「見舞いに行く」というメッセージを小春はすべて断っていた。泣く泣く。元来寂しがりな気質、風邪でぼんやりと、音も遠く聞こえる頭には自室の静寂も耐え難く。
学校生活で撮りためたみんなとの動画なんかを垂れ流しながら、鼻水もずびずび垂れ流しながら、小春はデカい体を小さく縮こめて毛布にくるまっていた。
なんとしても、一刻も早く症状を治め、登校するために。
◆ ◆ ◆
かくして翌朝。
小春はたしかに平熱を取り戻した。人恋しくてたまらず、それゆえに、ひたすら大人しく養生し、一晩で見事に症状を抑え込んでみせた。
「……行ける。学校、行ける」
いつもの起床時間よりも早い夜明け頃。のそりと起き上がった小春は体の調子を確かめ、体温も測り、それから部屋の姿見の前に立つ。
「ふぁ」
小さなあくびを漏らしながら見る自身の姿は、寝起きということを差し引いてもなお、普段の大槻 小春からはかけ離れていた。有り体に言えば病み上がりである。
そのまま部屋を出て、まだ寝ている両親に少しばかり気を使いつつ、浴室へ向かう小春。手早くシャワーを浴びている最中にも、その後に登校の準備をしているあいだにも、彼女は少しだけ考えていた。
「うーん、目つき……いやでも、だいじょぶ……だよね……?」
小春自身も理解してはいるのだ。自身の外見が、ともすれば他者を怖がらせてしまうことを。小さなころからタッパばかり高く、実のところ素の目つきは切れ長で鋭い。黙って突っ立っているだけでは、むやみに周囲を怯えさせてしまうばかり。
小春は人が好きだ。誰かに甘え、可愛がってもらうのが大好きだ。だからその気持ちを全面に出し、明るく振る舞い、目つきだってメイクと表情でまぁるく天真爛漫に見せる。それを苦だとは思わない。やりたくてやっている。
その甲斐あって今では、友人たちに可愛がられる毎日。駆け寄っては顎をくすぐられ、お座りしては頭を撫でられ、休み時間には餌付けをされる、そんな幸せ学校生活が小春は大好きだ。
だから行く。行かねばならぬ。
「うおぉぉわたしは行くぞわたしは行くぞ」
発熱と頭痛と鼻水と咳を一日で抑え込み、それでも一晩では体力の戻りきらなかった長身で、学校へ向かうのだ。
いつものように元気いっぱいには振る舞えずとも、アイメイクもなんだかイマイチ決まらずとも、念のためマスクで口元を覆い隠してでも。寂しさと人恋しさに耐えかねて、両親に力こぶを作って見せ、小春は通学路を歩むのだ。
たとえ、道行く同校の女生徒たちがなにやらこちらを盗み見ていたのだとしても。
その視線に気付く余裕もないのだとしても。
◆ ◆ ◆
「──おはよー」
「おーおは、よッ?!」
ハスキーボイス長身グラマーウルフカット気怠げ激メロ爆イケ女が、教室に姿を現した。
小春である。
「ぅぇ、あ、もう大丈夫なん、こは、る?」
とくに仲の良い友人のうちの一人──夏美が、動揺もあらわに小春の名を呼ぶ。
基本的に名前を呼ばれるだけで嬉しくなってしまう小春は、マスクの下でへにゃりと笑いながら夏美のもとへ向かった。いつもの、チャカチャカと音が聞こえてきそうなデカわんこステップとは違う、ごく静かな足取り。
夏美の動揺は増していくばかり。暗すぎないブラウンのセミロングヘアも、彼女の心境を示すように揺れ動いていた。
「一日ぶりだね夏美ぃ。寂しかったよー」
「んぎゅ……ッ!?」
台詞だけを見れば、いかにも小春の口にしそうな言葉である。しかしそのトーンはいつもの元気デカわんこっぽさは完全に鳴りを潜めたローテンション、しかししかしそれでいて、親愛と喜色の滲んだ声音。それは夏美の口から変な音も出てしまうというもの。
いつものまぁるい雰囲気とは180度異なるほっそりとした眼差しは、しかしキツさ怖さなどまるでない、良い意味で気怠げなそれ。
まるで孤高のダウナービジュ良女が自分にだけデレているかのような、そう錯覚させられる独特の温度感。そういったものを浴びせかけられ、夏美の胸はドキドキと早鐘を打っていた。
──夏美はこのクラスでも随一の陽キャの中の陽キャ。顔良しノリ良し中身良しの、自他ともに認めるキラキラした女子高生。男子に言い寄られたことも、それをきっぱりと振り払ってきたことも数知れず。そんな自分が、まるで恋する乙女のように翻弄されている?
混乱する内心でそう考える夏美には、目の前の女が今までに近寄ってきたどんな相手よりも格好良く見えていた。
「夏美? どしたの?」
身長差から、近くで話すときには小さく屈んでこちらの顔を見てくる。普段であれば飼い主に構って欲しがるわんこにしか見えない挙動すらも、今日の小春がやれば夏美へとクリティカルヒットする。
やはりいつもとは異なる涼しげな視線が、夏美の心臓を射抜く。そこに、いつもと同じ人懐っこさが見え隠れしているものだから、なおのこと。
「ぃ、ぃぃいいや、どしたのはこっちの台詞というか……ぇっと、その……大丈夫? まだ調子悪い? いや、あたしが言うなって話なんだけどさ……」
「? なんで? 夏美なにかしたっけ?」
小首を傾げるその仕草すらも、普段とは違う気配をまとっている。どこか気怠げで、けれども尖りのない、独特の雰囲気を。
自身の声が上擦ってしまうのを、分かっていて夏美は抑えきれなかった。
「ぃ、いやだって、小春が風邪引いたの、あたしが傘借りちゃったせいだと思うし……」
対する小春、言われてようやく気付く。あそっか、ずぶ濡れではしゃぎ回ってたから風邪なんか引いたのか、と。気付いたのであればなおのこと、自分の行動に後悔などはなく。
「ううん、全然。夏美が風邪引かなくてよかった」
いつもの小春であれば「夏美が無事ならそれでいいんだよー!!」などと大げさに、飛びつかんばかりの勢いで返していたところだが。さしものデカわんこも病み上がりなれば、そこまで派手にやる元気はまだなかった。
だからこそ、普段の小春からは想像もつかないほど大人びた、穏やかな声がマスク越しに発せられる。切れ長な眼差しも、生来の人懐っこさが混じり柔らかくたわむ。
「はぅあッ……!」
当然、夏美の心臓はもう幾度目か撃ち抜かれる。
胸を抑えうずくまる陽キャの中の陽キャ。近くで動向を見守っていたクラスメイトたちも、余波を受けのけぞっていた。友人の突然の奇行に焦るデカわんこが一匹。
「え、え、どしたの、だいじょぶ……?」
その様相、さながら主人を慮るシベリアンハスキーか。
格好良い顔立ちの女が静かに、けれども間違いなく憂慮と親愛を滲ませながら、膝を折ってこちらの顔を覗き込んでくる。実のところ普段から(あほデカわんこっぽいけどめっちゃビジュ良いよな小春……)とか自分だけは小春の良さを知っているつもりだった夏美にしてみれば、到底耐えられるものではなく。
「はぁーっ……はぁーっ……♡」
「わ、わぁーっ夏美、夏美……っ?」
しゃがみ込んでいた夏美はそのまま、控えめに騒ぐ小春の胸に顔面から倒れ込み。
「具合悪い? 保健室行くっ?」
「……し、しばらく、ぅ、このままで……っ♡」
触れ合わんばかりの至近距離でアンニュイ爆イケ女フェイスを浴びて、完全に腰が砕けてしまった。
◆ ◆ ◆
──千冬というクラスメイトと自分には、不思議な縁がある。そんなふうに小春は考えている。
同じクラスになって以来、何度席替えをしても必ず、小春と千冬は前後に並ぶ。千冬が前で小春が後ろ。何度くじを引いても、教室のどこに配置されても、絶対に変わらない位置関係。これを縁と言わずしてなんというのか、と。
千冬は大人しく思慮深そうな、いかにも文学少女然とした佇まいの女生徒である。少々気の弱いところはあるがしかし、見た目に違わず真面目で、学業成績は優秀。
そんな人物が前の席にいるともなれば当然、小春は頼る。甘える。助けを求める。高い背を丸め、幻の犬耳すらぺたりと倒し、いっそ清々しいほどに情けない顔で。
先の授業のアレを書き留めそこねた、次の授業のコレが分からない、そんな弱みを臆せず晒し助力を請う、小春にとって千冬とは、そんな頼れる友人なのだ。
そしてそれは当然ながら、丸一日授業をスキップしてしまった今日この瞬間にも。
「千冬ぅ……」
二限も終わり、三限とのあいだの僅かな休み時間。
やはりいつもより低いトーンで、小春は前の席の黒髪も艷やかなおさげ少女に声をかけた。次の現代文、昨日受けられなかった分を少しでも取り戻そうと。
小春当人にとってはまあ正直、いつもの「助けてーっ!」とさほども変わらない。ただ病み上がりでいつもの声量がでないから、いつも以上に情けない声が出てしまったという程度の認識だった。
しかし他方。
自身を頼る気怠げハスキーウィスパーボイスを真後ろから浴びた千冬のほうはといえば。
「……っ」
背筋を撫でる言いようのない感触に、硬く身を強張らせていた。
「助けてぇ……」
続く言葉は短く、されども千冬の耳朶をしっとりと擽る。
小春の考える不思議な縁、勿論それは千冬も常々思い馳せている良縁である。
元気なデカわんこが、自分にだけ助けを求めてくれる。不肖ながらも助力を果たせば、やっぱり人懐っこい色を浮かべて「ありがとー!」と笑いかけてくれる。そんな毎日が千冬は好きだった。そんな毎日だからこそ、気付けることもあった。
いつだって感情豊かでよく通る小春の声。けれどもそれは決して甲高いものではなく、むしろ地声はやや低め。席が近く、なにより困りトーンの小春と話す機会の多い千冬は、そのことに気付いていた。自分だけは小春の声の良さを知っているのだと、密かに思っていた。
「千冬ぅー……」
「ぁ、ひ……」
低く小さくアンニュイな、けれどもやはり不思議とよく通る、そんな声が背後から迫る。
千冬の口から、悲鳴とも喘ぎともつかない音が漏れる。
朝の小春と夏美の一幕を、千冬はしっかりと見ていた。
千冬の知る限り、夏美という女生徒はこのクラスでも、いやこの学校でも随一の陽キャである。青春の体現のような美少女。フレンドリーだが下卑た接近は確りと断つ、触れられるようで触れられない、誰にも好かれそして誰にも靡かない、ある種の聖域とも呼べる女。
そんな夏美が完全にメスの表情を浮かべながら、小春の胸に埋もれていた。それがどれだけ恐ろしいことか、キラキラ陽キャとは程遠い自負のある千冬だからこそ分かってしまう。
今日の小春は危険だ。朝、遠くから見ているだけでもドギマギとさせられた。ホームルームギリギリで席についた彼女と、千冬はまだろくに視線も合わせられていない。彼女の中の小動物めいた部分が、ずっと警鐘を鳴らしている。
……だというのに。
「千冬っ、ちふゆぅー……」
「ぅ、ぁ……♡」
そんな、まるで飄々とした長身気怠げハスキーボイス美人が自分にだけ甘えてくるかのような声を出されてしまえば。
「……ちふゆ、たすけて?」
身を乗り出し、耳元で柔く囁かれてしまえば。
マスクすらもエフェクターのように作用して、千冬の脳を蕩かせる。鼓膜を通って脳幹へ、そこから脊椎を甘く撫でくだり、腰骨までジンジンと疼きだす。
「こ、こはる、さ、あの……」
「助けてくれる?」
「ぁ、ひゃ、ひゃい……♡」
「わーい、ありがとぉっ。千冬すきー」
「ぉ゙ひっ♡」
「おわっ、だいじょぶ千冬?」
ビクリと背を反らせた千冬の表情は、とても文学少女がして良いものではなかった。
◆ ◆ ◆
「秋穂ー」
昼休み。
コンビニ袋を持って、小春は秋穂の席へと近づいていく。少しずつ調子も戻ってきたのか、朝と比べれば軽やかな足取りで、そう遠くもない友人のもとへ。とはいってもいつものチャカチャカステップにはまだ遠い、てこてこ、くらいのものであったが。
夏美は委員会の集まりだとかで早々に(そして泣く泣く)教室を出てしまったため、今日は秋穂と二人で昼食を囲む。千冬などは一見して自分の席で一人静々と弁当の包みを開いているが、その実いつも(そして今日は一段と)小春の声に耳を傾けている……というのは、千冬本人のみぞ知るところであった。
そんな友人二人の常ならぬ内心を知ってか知らずか、わんこはどこか呑気な調子。
「見て見て、今日はコンビニ弁当」
いつもは母が弁当を用意してくれるものだが……さしもの両親もまさか二日と我慢できずに登校するなどとは思っていなかったようで、小春にとっては随分と久しぶりの、コンビニ弁当ランチであった。
見ている側の秋穂としては、どうしても“いつもと違うおやつを咥えて寄ってくる犬”というフレーズが脳裏をよぎってしまう。
近くの空いた席から椅子を引っ張ってくる小春の様子は、やはりまだ普段と比べれば随分大人しい。クールというほど鋭くはないが、なにか泰然自若とした気怠げな雰囲気が、ある種のフェロモンのように漂っている。
そんな女がゆるりと目元を綻ばせながら寄ってくるというのだから、それは確かに、普段とのギャップも併せて夏美がメス顔晒し腰砕け女になるのも無理からぬことか。
そこまで考えて、しかし秋穂の表情はそれこそいつも通りの、無表情に近いもの。
「…………」
クールというならば、まさしくそれは秋穂を指す言葉である。
白い肌に派手な金髪に鋭い目つきに、おまけに声も冷たく、お喋りなほうではないが口をついて出る言葉は基本的に容赦がない。ここまで揃えばもう誰からも異論など出ない、初見で怖がられるタイプのギャルであった。
「お母さんの弁当ももちろん美味しいけど、たまにはこういうのもねー」
そんな秋穂が、シャケ弁を取り出す小春を見てついに、僅か眉間にシワを寄せた。鋭く切れ味の良い声音で、朝からずっと思っていたことを告げる。
「……アンタ、そんな普通にしててほんとに大丈夫なの?」
「んぇ?」
小春の首がこてりと小さく傾いた。
マスクを外そうとしていた手も止まり、片側のゴム紐を指で引っ張った中途半端な状態のまま静止。そして、一拍置いてはっと気付く。
「っ! そ、そうだよね。まだ風邪菌残ってるかもだし、うつったりしたらヤだよね……」
本人的にはもう風邪の症状などは完全に引っ込んでおり、あくまで病み上がりで体力が回復しきっていないという程度なのだが。なにせバカが引くほどの風邪である。ここからでもうつされる可能性を秋穂が考えてしまうのも当然のことだ、と。
そう思い至り、ずれたマスクを直す小春。秋穂がその仕草に妙な色気を感じ目を細めるあいだにも、目尻をしゅんと下げながら言葉を続ける。
「ごめんね……今日は念のため、一人で食べるね」
“飼い主に構ってもらえなかった犬”。そんなフレーズが秋穂の脳内を埋め尽くす。真意をうまく伝えられない自分の口下手を、秋穂は爆速で悔いた。
「いや、そうじゃなくて」
眉間の皺はそのままに、距離を取るどころかむしろ僅か前のめりになりながら、早口に言葉を続ける。
「その、ほら。体調とか、無理してないのかなってさ……」
「…………」
「……………………なにその顔」
一昨日の放課後の一幕、小春から押し付けられた傘の下には、夏美と秋穂がいた。だからこそ秋穂も心配と罪悪感とが胸に残っており。
それを読み取った小春の表情が、また一層やわらかく彩られる。
「秋穂ぉ〜っ」
「…………まあ、大丈夫そうか。いつも通りとまではいかないけど」
「うん、だいじょぶっ」
いつも通りというならば、まさしくそれは秋穂を指す言葉である。
表情はいつも通り、言動もまたいつも通り。つまり秋穂はクールぶっているがその実、病み上がりがどうとか関係なく常に小春にダダ甘な女であった。
初見で怖がられるタイプのギャルではあるが、しかし1ミリも怖がらずに“あそんであそんでっ!”と寄ってきたデカわんこに籠絡されていったさまを知るクラスメイトたちからは、もう随分と前から少しも恐れられていない。小春にもっとも頻繁に餌付けをしているのは、なにを隠そう秋穂である。
「心配してもらえるのって、申し訳ないけどやっぱ嬉しいねぇ」
そんな秋穂に微笑みかける小春の、低音ながら喜びが過分に塗布された声音からは、万全であれば机越しに抱きつきに行っていただろうとすらうかがえた。
しかしやはりまだ本調子ではないわけで、つまり今日の小春はただ手を出すのみに留めた。机の上から目一杯腕を伸ばし、秋穂の両手を自分のそれで包み込む。
案ずるなかれ、アルコール消毒はすでに済ませている。
「っ、ちょ………………………………………………もう」
挟まった長い沈黙のあいだに、秋穂の心身には様々な感覚が去来していた。
「ぇへへー」
これで実際のところ小春は、スキンケアやヘアケアなども怠らないタイプである。ついでに言うと餌付けをする際に垣間見える歯も白く綺麗で健康的、その上下のあいだから見え隠れする舌も赤くほどよく湿っている。唇など言わずもがな瑞々しく柔らかい。お菓子越しに触れただけでもよく分かる。
そういったことを、秋穂は普段のやり取りの最中によく考えていた。ちょっとアホっぽいわんこの女の子らしいところ、それを自分だけは知っているという気持ちを常日頃から抱いていた。
だからこそ、このそっと包み込むような手指の感触に心乱される。
アルコール消毒をした直後だからか小春の肌はさらりとしていて、汗ばんでいる様子もなく、なんなら少し涼しげですらある。普段の少し暑苦しいくらいの(イヤとは言っていない)体温とスキンシップとは真逆の触れ合い。
どこか庇護対象のように思っていた相手が、こんなにも予想外な一面を見せるなんて。
激メロい。
などと口に出すことはどうにか堪えてみせた秋穂。こんな状況にあっても頭の片隅で(ほんとに熱とかはもう大丈夫そうだな……)などと考える自分自身に、どこか滑稽さすら感じていた。
「へへ」
「…………なに」
そんな秋穂の、なんのかんのと言ってスキンシップを拒まない(いつもそうなのだが)様子に、小春もますます気を良くする。そうなればついついもう一言二言、彼女の口から飛び出してしまうというもの。
「まー、昨日一日寂しかったのはホントだけど」
きゅっと、重なった両手に少しだけ力が入った。
「っ、ぅ、くっ……………………♡」
少しおどけた声音と表情、僅かな指の動きにすらも、静かな親愛がこもっている。
実際のところは例によって病み上がりゆえの出力不足に過ぎないのだが……しかし食らったほうにしてみれば、それはまるで気怠げで底の読めない女がふとした冗談に交えてこちらへの執着や愛情を垣間見せてきたかのような、そんなシチュであり。当然、秋穂の心臓もきゅっとなっていた。
「……、っ……………………♡♡」
流石にもう、いつも通りではいられない。むしろ自分のほうが手汗が滲んでいないか、指の先まで火照ってしまってはいないか。
そんな乙女チックな焦燥にかられて、秋穂は思わず手を引っ込めてしまう。触れるもののなくなった小春の十指が、名残惜しげに蠢いて。その様子すらもまた、秋穂の心をざわつかせた。
「あぁー」
「…………元気ならほら、さっさと食べる」
「へへ、はーいっ」
動揺を悟られぬようにと秋穂は努めて平坦な声で促し、それでようやく女二人のランチタイムが始まった。
クラスメイトたちの言によると、本日の餌付け頻度は普段と比しておよそ五割増しであったという。
◆ ◆ ◆
「── 完全復活! パーフェクト小春様だぜ!!」
そして翌日。
朝の教室で両腕をワキワキとうごめかせ、小春は目一杯に復調をアピールしていた。いつも通りの人懐っこい、ぶっちゃけちょっとアホっぽい言動に、周囲も安堵混じりの苦笑を浮かべている。
結局、昨日一日の小春:目元涼しげハスキーボイスダウナービジュ神激メロ爆イケ女形態は夏美、千冬、秋穂の三人に限らず、クラスの女子の多くを衝撃と動悸不順の渦に叩き落とした。
そんな罪深き女が翌朝にはいつものデカわんこ状態に戻ってワンワンキャンキャンはしゃいでいるのだから、みないっそ、恨めしげな熱視線の一つも向けてしまうというもの。
「んー……?」
そんな周囲の、これまでとは明らかに違う空気に小春は────気付く。
小春は決して、人心に疎い女ではない。素の自分が周りを怖がらせてしまうことも、それを立ち振る舞いや表情やメイクで覆すことができるのも理解している。
だからこそ昨日の自分に対する友人らの反応が、決して悪感情からくるものではないことも──流石にリアルタイムでは気付けなかったが──万全な状態に戻った今なら理解できてしまう。
「…………ふーむ」
ここまで仲が良い関係であれば。普段の自分の、人懐っこい性格を知ってくれている相手であれば。
少しくらい素の声や目つきが見えてしまっても怖がられない。むしろ好意的に受け止めてくれる。
それは小春にとってこの上なく嬉しいことで、だからこそもっともっと甘えてしまいたくなるのだ。
だからこそなんの悪意もなく、やらかしてしまえるのだ。
「さてはみんな──」
昨日の自分をトレースするかのように声を低く落とし、眼差しをすっと細めて。今日はマスクもつけていないわけだから当然、いたずらっぽい微笑みまで惜しげもなく曝けだして。
「──こういうわたしも、可愛がってくれるんだ?」
気怠げな けれどもどこか 嬉しげな
ビジュ神わんこの いたずらな笑み
季語は“わんこ”である。
「んぎゅっ♡」
「っ、……………………っ♡」
「ぁ、ひっ……♡」
小春と話していた夏美も秋穂も、前の席で盗み聞いていた千冬も、もちろんクラスメイトたちもみな、最早なかったことにはできないほどに、このデカわんこに狂わされていた。
我慢できずに一首詠んでしまいました。申し訳ありません。