第9話 7月1日(土)
・朝5時45分 中央公園への道
田中老人は、毎朝5時45分に家を出る。 ラジオ体操に間に合うように、いつも同じ時刻。
でも今朝は違う。 近所の山田さんも、ちょうど同じタイミングで家から出てきた。 「おはようございます」 「あ、おはようございます」
角を曲がると、また別の住民。 そしてまた別の角で、さらに二人。 みんな、同じ歩調で公園に向かっている。
「今日は多いですね」 誰かが言う。 でも、なぜみんな同じ時刻に家を出たのか、誰も疑問に思わない。
朝6時 中央公園でのラジオ体操
いつもなら20人程度の参加者が、今朝は32名。 全員が、5時59分から6時の間に到着。
「おはようございます」 挨拶の声が重なる。 32人の声が、まるで一人の声のように揃っている。
体操が始まる前、参加者たちは自然に円形に並んだ。 誰も指示していないのに、等間隔で。 そして全員が、一度北東の方向を見た。 ほんの一瞬。でも確かに全員が。
「なんだか今日は調子がいいですね」 音頭を取る人が言う。 参加者全員が、同じタイミングで頷く。 その頷き方も、角度も速度も同じ。
・朝6時5分 ラジオ体操中
第一体操、腕を振る運動。 腕の上がる高さが全員同じ。肩から指先までの角度も一致。 まるで見えない定規で測ったかのよう。
「いち、に、さん、し」 カウントに合わせて動く32人。 その動きは美しいほどに揃っている。
首を回す運動。 右回り、左回り。 そして前後。 前に倒す時、全員の視線が地面の同じ点を見る。 後ろに倒す時、全員が空の同じ場所を見上げる。
「今日はみなさん、息が合ってますね」 音頭取りが感心する。 でも、それは息が合っているという次元を超えている。 まるで、32人が一つの生き物のように動いている。
・午後2時50分 海老原水産の前
土曜の午後、魚屋の前に人が集まり始める。 一人、また一人と。 特に約束したわけでもないのに。
「あら、山田さんも」 「佐藤さんも魚を買いに?」 「ええ、なんだか急に食べたくなって」
3時の開店を待つ人々。 みんな、同じような表情をしている。 期待と、少しの困惑が混じった表情。
午後3時 海老原水産店内
「いらっしゃいませ」 海老原が店を開けると、客が順番に入ってくる。
「アジを3尾ください」 最初の客。
「アジを3尾お願いします」 二人目も同じ注文。
「私もアジを3尾で」 三人目も。
海老原は違和感を覚える。 みんな、なぜアジなのか。なぜ3尾なのか。
レジでの支払いも奇妙だった。 全員が千円札3枚を出す。 財布から出す手つきも似ている。 お釣りを受け取る仕草も同じ。
「ありがとうございました」 客たちは同じタイミングで頭を下げ、店を出る。
・午後3時15分 海老原の観察
4人目の客も「アジを3尾」 5人目も同じ。
海老原は、客の様子をよく観察し始めた。 入店する時の足の運び。 商品を見る視線の動き。 注文する時の声のトーン。 すべてが似通っている。
「今日は満月ですか?」 ふと、6人目の客に聞いてみた。 「いえ、新月です」 客は答える。 「でも、月を感じますね」 そう付け加えた。
海老原も窓の外を見る。 昼間の空。月は見えない。 でも確かに、何かを感じる。