第7話 市立祢古小学校の記録
「三番目の棚の下」
祖母の言葉を思い出し、悠真は膝をついた。
そこにあった。段ボール箱が。
『市立祢古小学校 関係資料 開封厳禁』
赤いマジックで書かれた文字。日付は『2023年12月25日』。
箱の横に、震える文字で書かれたメモ。
『この資料を見つけた者へ。私たちは手遅れだった。読めば、あなたも呼ばれる。でも、読まなければ真実は永遠に闇の中。選択は、あなたに委ねる』
悠真は、倉庫の奥にある小さな机に箱を運んだ。
机の上には、すでに読み終えた者たちの痕跡があった。爪痕、毛、そして判読不能になっていく文字の羅列。
封を開けると、中から獣のような、しかし懐かしい匂いが立ち上った。
月の匂い。故郷の匂い。千年前の記憶の匂い。
一番上に、青い表紙の作文集。
『市立祢古小学校の記録』
悠真は椅子に座り、最初のページを開いた。
『これを読むあなたへ
私は市立祢古小学校の教諭、吉田美智子です。いえ、でした。今はもう、名前も思い出せなくなりつつあります。
でも、それでいいのです。名前なんて、人間が個体を識別するための記号に過ぎません。私たちは、もっと大きな何かの一部なのですから。
この記録集は、私たちの変容の記録です。2023年7月から12月にかけて、私たちがどのように本来の姿を取り戻していったか。子供たちの純粋な言葉で綴られています。
読めば、あなたも変わります。いえ、正確には、あなたの中に眠っていた本来の姿が目覚めます。
恐れないでください。これは病気でも呪いでもありません。
帰郷です。
千年の時を経た、真の故郷への。』
悠真は、ページをめくった。
もう、止まることはできない。
読み始めると、時間の感覚が消えた。
7月の微かな違和感。 8月の静かな変化。 9月の作文に現れる奇妙な繰り返し。 10月の集団化。 11月の言葉の崩壊。 12月の完全なる変容。
ページをめくるたびに、悠真の中で何かが共鳴し始めた。
血が、細胞が、魂の奥底が「そうだ、これだ」と叫んでいる。
いつの間にか、黒猫が隣に座っていた。他の猫たちも、倉庫の入り口に集まっている。皆、じっと悠真を見つめている。
いや、見守っている。新しい仲間の誕生を。
最後のページを読み終えた時、悠真は理解した。
なぜ祖母が「残る者」だったのか。 なぜ自分がここに導かれたのか。 なぜ猫たちが待っていたのか。
そして、なぜ@ruins_seekerたちが戻ってこなかったのか。
いや、戻ってこなかったのではない。 戻りたくなかったのだ。 戻る必要がなかったのだ。
だって、向こうが本当の世界なのだから。
悠真は立ち上がった。
体の奥から、変化の兆しを感じる。 月への憧憬。 群れへの帰属欲求。 そして、名前という牢獄からの解放願望。
「選べ」
黒猫が、いや、もはや猫とも人ともつかない美しい存在が語りかけた。
「最後の人間として、記録を守り、次の世代に伝えるか。それとも...」
悠真は窓の外を見た。
境内に、人影が現れ始めていた。
いや、人ではない。かつて人だったもの。 銀色の毛並み、しなやかな四肢、金色の瞳。 美しく、自由で、幸福そうな存在たち。
その中に、見覚えのある顔があった。
@ruins_seeker? いや、もう名前はない。 でも、確かに彼だった。 そして、彼は微笑んでいた。これ以上ない幸福の表情で。
「にゃー」
彼が鳴いた。それは「おいで」という意味だった。
悠真は、深く息を吸った。
選択の時だ。
祖母のように「残る者」となり、孤独な人生を送るか。 それとも、真実を知った今、本来の姿へ還るか。
答えは、もう決まっていた。
最初から決まっていた。
血が決めていた。千年前から流れる、月の民の血が。
「私は...」
悠真の声は、微かに震えていた。 いや、震えているのではない。 変化が始まっているのだ。
声帯が、少しずつ、本来の形を思い出し始めている。
「還ります」
その瞬間、倉庫中に歓喜の「にゃー」が響き渡った。
仲間たちの歓迎の声。千年ぶりの再会を喜ぶ声。
悠真は、最後の人間としての記録を、机の上に残した。
『2024年3月28日 私は選びました。 これを読む次の者へ。 恐れないでください。 これは終わりではありません。 始まりです。 より自由な、より真実の存在への。
もうすぐ満月です。 その時、私たちは完全に還ります。 もしあなたも月の血を引く者なら、 いつか必ずここに辿り着くでしょう。
その時は、私たちが待っています。 永遠に。
篠田悠真
にゃー』
そして、悠真は倉庫を出た。
月はまだ昼間の空に薄く見えているだけだったが、それで十分だった。
体の変化は、もう始まっている。
視界が変わる。色彩が変わる。すべてが月光を帯びて見える。 聴覚が広がる。仲間たちの声が、思考が、直接伝わってくる。 嗅覚が開く。千年前の記憶が、匂いとともに蘇る。
そして、手足が...
仲間たちが待っている。 永遠の仲間たちが。
最後に振り返ると、倉庫の扉がゆっくりと閉まっていった。 次の「呼ばれた者」を待つように。
篠田悠真という名前を持った最後の瞬間、彼は思った。
もう、個である必要はない。 みんなで一つ。 永遠に、一緒に。
そして、最初の「にゃー」が、彼の喉から漏れた。
それは、千年ぶりの帰郷の挨拶だった。
音無神社に、静寂が戻った。
ただ、境内から森の奥へと続く無数の足跡だけが、ここで何があったかを物語っていた。
人間の靴跡から始まり、 裸足になり、 そして最後は、 四つ足の美しい獣の足跡へと変化しながら。
月が、静かに昇り始めていた。