第5話 音無神社へ
悠真は校舎を出た。
猫たちは、今度は石段の方へ歩き始めた。
その石段を登った先に、音無神社があることを、悠真は知っていた。祖母の地図にも記されている場所。
しかし、今、その石段が違って見えた。
陽の光の中でも、石段はうっすらと青白く光っているように見える。まるで、月光を宿しているかのように。
これが「月の階段」か。
一段、また一段。
登るたびに、空気が変わっていく。濃密になり、甘い獣の匂いが強くなる。
そして、体の感覚も変化していく。
視界が鮮明になる。遠くの葉っぱの一枚一枚が見える。 聴覚が研ぎ澄まされる。虫の羽音、風に揺れる枝の音。 嗅覚が広がる。土の匂い、苔の匂い、そして仲間の匂い。
仲間?
そう、この猫たちは仲間だ。いつからそう感じていたのだろう。
黒猫が振り返り、小さく鳴いた。
「にゃー」
それは「もうすぐだよ」と聞こえた。
いや、聞こえたのではない。理解したのだ。言葉を超えた次元で。
石段は108段あった。煩悩の数。人間の迷いの数。
それを登り切った時、人間から解放されるということか。
最後の段に足をかける。
もう、戻れないと知りながら。
いや、戻る必要などないと、心の奥底で理解しながら。
一歩を踏み出した。
音無神社にて
2024年3月28日 午前10時15分
篠田悠真は、108段の石段を登り切った。
足元の石段は、登るたびに数が変わる不思議な感覚を残したまま、ついに頂上へ。人間としての最後の階段だったのかもしれない。
朽ち果てた鳥居が目の前に立っている。「音無神社」の扁額は半分欠け落ち、その下に「猫返し神社」の古い文字が微かに読み取れた。
しかし、その名前は正確ではない。これは猫が返る神社ではない。人が本来の姿に還る神社なのだ。
猫たちは、鳥居の前で立ち止まった。
黒猫が振り返り、悠真を見つめる。その瞳は完全に人間のように丸く、知性の光を宿していた。
「ようこそ」
声ではない。しかし、確実に伝わってきた。
「私たちは、あなたを待っていました」
三毛猫も振り返る。先ほど見た首輪の「田中みお」という名前が、今度ははっきりと見えた。
「私も最初は怖かった。でも、今は幸せです」
悠真は鳥居をくぐった。
瞬間、世界が変わった。
空気が濃密になり、甘い獣の匂いが鼻腔を満たす。それは不快ではなく、むしろ懐かしい。忘れていた故郷の匂いのような。
いや、これこそが故郷の匂いなのだ。千年前、月から来た時の記憶が、血の中で目覚め始めている。
境内は予想以上に広かった。石灯籠が等間隔に並んでいるが、多くは倒れ、苔むしている。しかし、その配置には意味があった。月の満ち欠けを表す、古代の暦。
本殿は屋根が崩れ、壁は蔦に覆われていた。しかし、それは朽ちているのではない。自然と一体化し、より大きな何かの一部になっているのだ。
本殿の軒下に、奇妙な奉納品が並んでいた。猫の耳を模した古い木彫り。人間の頭に猫耳をつけたような、不気味な偶像。中には、人間が四つ足になっていく過程を表したような連作の木彫りも。最初は二足で立つ人間、次第に前傾し、最後は完全な猫の姿。台座には「月読猫神」という文字が、かすかに読み取れた。
その隣には、石造りの小さな祠。中を覗くと、無数の牙と爪が奉納されていた。人間の歯にしては鋭く、獣の牙にしては整っている。変化の途中で抜け落ちたものか。
そして、悠真の目を引いたのは、本殿裏の倉庫だった。