第2話 昇降口
昇降口のガラス扉は割れていた。いや、内側から何かが突き破ったような割れ方だ。ガラスの破片は外側に散らばっている。
破片の中に、布の切れ端があった。祢古小学校の体操服。そして、その布地には毛が絡みついていた。銀色の、柔らかそうな毛が。
中に入ると、独特の匂いが鼻を突いた。
学校特有の上履きと給食の匂い...ではない。もっと原始的な、獣の匂い。しかし、不快ではない。むしろ懐かしい。子供の頃に抱いていたぬいぐるみのような。
いや、もっと深い。まるで、遺伝子レベルで記憶している匂いのような。
下駄箱には靴が残されていた。きれいに並んでいる。しかし、どの靴も内側から破れていた。まるで、持ち主の足が急激に形を変えたかのように。
一つの下駄箱の中に、ノートが押し込まれていた。表紙には「観察日記 5年1組 栗田周平」と書かれている。
開いてみると、7月21日から始まる記録があった。
『7月21日 晴れ 猫の観察を始めた。朝6時、中央公園に15匹。みんな北東を向いて座っていた。』
ページをめくるごとに、文字が変化していく。
『8月15日 晴れ 猫たちとはなせるようになった。いや、はなすんじゃない。わかるんだ。』
『9月1日 がっこうがはじまった。みんなもわかるみたい。』
『10月 もじがかきにくい つめがじゃま』
『11月 にゃー』
最後のページは、ただ爪痕が残されているだけだった。
廊下を進む
廊下を進む。壁には無数の引っ掻き傷。床には泥の足跡。そして、ところどころに毛が落ちている。猫の毛にしては太く、人間の髪にしては柔らかすぎる。
廊下の掲示板には、子供たちの作品が貼られていた。しかし、どれも奇妙だった。
『なつやすみのおもいで』と題された作文は、同じ文章が繰り返されている。 「つきをみました。つきをみました。つきをみました。」
図工の作品は、すべて同じモチーフ。月と猫。しかし、制作者が違うはずなのに、筆致が驚くほど似ている。
1年1組の教室
1年1組の教室を覗く。
机と椅子がすべて窓側を向いていた。きれいに整列して。まるで、全員で外の何かを見ていたかのように。
床には、小さな手形が円形に並んでいた。最初は普通の子供の手形。しかし、円の中心に近づくにつれ、指が短くなり、手のひらが丸くなり、最後は完全な肉球の跡になっていた。
黒板には、震える字で何かが書かれていた。
『もう にんげん じゃ ない でも しあわせ』
その下に、無数の「にゃー」の文字。最初は丁寧に書かれているが、次第に崩れ、最後は引っ掻いたような線になっている。
教卓の上に、一冊の絵日記があった。『なつやすみのえにっき 1ねん1くみ ねぎしかおり』
開くと、7月の日記は普通の子供の絵。家族でスイカを食べる絵、セミを捕る絵。
しかし、8月に入ると変化が始まる。月の絵が増え、人物の目が少しずつ縦長から丸くなっていく。
9月の絵は、もはや人間には見えない。銀色の毛に覆われた生き物たちが、月の下で円を作っている絵。
最後のページ、12月25日の絵は、金色の光だけだった。
2年1組、3年1組
2年1組、3年1組...どの教室も同じような状態だった。机は窓向き、黒板には判読困難な文字。そして、床には毛と爪痕。
3年1組では、ロッカーの中から大量の服が見つかった。きれいに畳まれて、まるで大切に保管されていたかのように。しかし、もう必要なくなったのだろう。
服の中に、名札が残っていた。『3年1組 やまだたける』
その隣のロッカーには、脱皮した蛇の皮のようなものが入っていた。よく見ると、それは人間の皮膚のようでもあり、薄い毛で覆われているようでもあった。
音楽室
音楽室のピアノの鍵盤には、泥の足跡。四つ足で鍵盤の上を歩いた跡。
しかし、ただ歩いただけではない。ある種のリズムがあった。譜面台には楽譜が置かれていたが、五線譜ではなく、奇妙な図形の連続。月の満ち欠けを表しているようにも見える。
試しに、その図形に従って鍵盤を押してみる。
不協和音のようで、どこか懐かしいメロディ。聞いているうちに、体の奥底から何かが呼応するような感覚。
悠真は慌てて手を止めた。これ以上弾いたら、何かが始まってしまう予感がした。
理科室
理科室の実験台の上には、顕微鏡が並んでいた。一つを覗いてみる。
スライドグラスには、毛髪のサンプル。しかし、これは普通の髪の毛ではない。根元は確かに人間の毛髪だが、先端に行くにつれて構造が変化し、最後は明らかに猫の毛になっていた。
別の顕微鏡には、血液サンプル。赤血球の形が、通常の円盤状ではなく、楕円形に変化しているものが混じっている。
実験ノートが開かれていた。
『観察記録 11月15日 サンプル提供者:吉田美智子(教諭) 赤血球の変形率:45% 白血球に異常な活性化 体温:37.5度(ヒトとネコの中間)』
ページをめくると、日付が進むにつれて変形率が上がっていく。最後の記録は12月20日。変形率は95%に達していた。
職員室
職員室に入る。
机の上には、開かれたままの出席簿。9月、10月、11月までは記録があるが、12月は空白。いや、よく見ると何か書かれている。
『みんな いっしょ みんな ひとつ』
読めるのはそれだけだった。
職員会議の記録ファイルがあった。議事録を読むと、9月まではきちんとした文章。しかし、10月から異変が始まる。
『10月6日 職員会議 議題:児童の集団行動について ・全員の動きがシンクロしている ・給食の好みが統一化(魚類のみ) ・月への異常な関心 →要観察』
『11月6日 しょくいんかいぎ みんな おなじ これで いい もう こべつ いらない つき が よんでる』
『12月 にゃー』
引き出しの中から、一通の手紙が見つかった。震える文字で書かれている。
『この記録を見つけた方へ
私は市立祢古小学校教諭の宮田理恵です。東京から赴任して、この現象を観察してきました。
もう手遅れです。私も変わり始めています。でも、怖くありません。むしろ、これが正しい姿なのだと感じています。
子供たちは8月から変化が始まりました。大人は10月から。12月25日、満月の夜、全員が完全に変容しました。
地下に入口があります。体育館の床が溶けて、穴が開いています。そこから、私たちは還りました。
本当の故郷へ。
名前はもうありません。個体である必要もありません。みんなで一つ。それが本来の姿。
あなたも、もし血が呼ぶなら、恐れずに来てください。
にゃー』