第1話 この町のネコ、やっぱりおかしい
2024年3月28日 午前9時15分
祢古町は、静かすぎた。
篠田悠真は、駅前のロータリーに立ち、その異様な静寂に耳を澄ました。平日の朝、地方の小さな町とはいえ、人の気配がまったくない。商店街のシャッターは降りたまま。信号は正常に動いているが、道路を行き交う車は一台もない。
風が吹いた。桜の花びらが舞い上がる。満開の桜並木は美しかったが、それを愛でる人間は一人もいなかった。
27歳のフリーランス編集者として、廃墟や都市伝説を扱うWebメディア「ミステリアス・ジャパン」に記事を書いている。今回も、いつもの取材のはずだった。
しかし、リュックの中に入っている祖母の手紙が、この取材を特別なものにしていた。
発端は、SNSで話題になっていた廃墟探索系インフルエンサーたちの失踪だった。
@ruins_seeker(フォロワー8万人)が2月15日を最後に更新停止。最後の投稿は「祢古町なう。この町のネコ、やっぱりおかしい」
添付された写真には、整然と並んで座る十数匹の猫が写っていた。全員が同じ方向を向き、その瞳は不自然なほど丸く、金色の光を宿していた。
@urban_explore_jp(フォロワー12万人)も2月28日の「祢古小学校、ヤバい」というツイートを最後に音信不通。
彼の最後の動画は途中で途切れていた。廊下を歩く足音、そして突然カメラが床に落ち、画面いっぱいに黒い影が横切った後、「にゃー」という声とも鳴き声ともつかない音が録音されていた。
他にも、3名の探索者が祢古町で消息を絶っていた。
@lost_places_hunter(フォロワー5万人):「音無神社の倉庫で見つけた資料、これは...」 @abandoned_jp(フォロワー6万人):「祢古小学校の地下に何かいる」 @haikyo_walker(フォロワー4万人):「もう戻れない、でも怖くない」
警察は「単なる失踪」として処理したが、ネット上では様々な憶測が飛び交っていた。カルト教団説、政府の陰謀説、宇宙人説...どれも荒唐無稽だが、5人も続けて同じ場所で失踪するのは異常だ。
そして3日前、祖母の一周忌で実家に帰った際、遺品整理で見つけた手紙。
封筒には震える文字で「悠真へ この手紙は、祢古町に呼ばれた時に開けなさい」と書かれていた。
手紙の内容は衝撃的だった。
『悠真へ
あなたがこの手紙を読んでいるということは、ついにその時が来たのでしょう。
私たちの家系には、百年に一度、選ばれる者がいます。私の祖母、つまりあなたの曽祖母もその一人でした。
1923年、曽祖母は祢古町で「変容」を目撃しました。しかし、彼女は還らなかった。留まることを選び、記録者となったのです。
音無神社の倉庫に、すべての真実があります。市立祢古小学校の地下に、入口があります。月の階段を登り、猫たちに導かれなさい。
でも、覚悟しなさい。真実を知れば、もう人間には戻れません。
それでも行くのなら、せめて記録を残してください。次の百年のために。
愛する孫へ 篠田千代』
偶然にしては出来すぎている。まるで、祖母が悠真をこの町に導いたかのように。
駅から町の中心部へ向かって歩く。アスファルトの上に、無数の足跡が残されていた。靴跡に混じって、裸足の跡、そして...四つ足の動物の足跡。それらは同じ方向へ向かっていた。
人影はないが、生活の痕跡は新しい。洗濯物が干しっぱなしの家、開けっ放しの窓、玄関先に置かれた朝刊。まるで、つい先ほどまで人がいたかのよう。
コンビニエンスストアのドアは開いていた。中に入ると、商品はそのまま。レジには金銭も残されている。ただ、魚の缶詰とキャットフードの棚だけが、きれいに空になっていた。
レジカウンターの上に、走り書きのメモがあった。
『もう必要ない みんな一緒に 月の下へ』
文字は次第に乱れ、最後は判読不能な線になっていた。まるで、書いている途中で手の形が変わったかのように。
しかし、人だけがいない。
いや、人では「ない」ものならいた。
角を曲がると、猫がいた。黒猫、三毛猫、トラ猫...少なくとも10匹以上。皆、同じ方向を向いて座っている。悠真が近づいても逃げない。むしろ、じっと観察するような眼差しで見つめ返してくる。
その瞳は、普通の猫とは違った。縦長の瞳孔ではなく、人間のように丸い。そして、その奥に知性の光が宿っている。
一匹の三毛猫が首輪をしていた。プレートには「ミケ 田中家」と刻まれている。しかし、その猫の額には、別の名前が浮かび上がっているように見えた。「田中みお」と。
「案内...してくれるのか?」
悠真がつぶやくと、黒猫が立ち上がった。そして、ゆっくりと歩き始める。他の猫たちも続く。
その歩き方は、猫にしては妙だった。前足と後ろ足のリズムが微妙にずれている。まるで、二足歩行に慣れていた者が、四つ足で歩くことを思い出そうとしているかのように。
導かれるまま後を追うと、見覚えのある建物が見えてきた。
市立祢古小学校
@urban_explore_jpが最後に訪れた場所。
校門は開け放たれていた。門扉が内側から押し破られたように歪んでいる。表札は錆びつき、「市立祢古小学校」の文字がかろうじて読める。その下に、爪で引っ掻いたような跡で「かえるばしょ」と刻まれていた。
校庭は荒れ果て...いや、違う。よく見ると、地面に無数の足跡がある。新しい足跡が。
ただし、それは人間の足跡ではなかった。
四つ足の、小さな足跡が、幾重にも重なり合っている。そして、その足跡は校舎に向かって収束していた。中央には、直径10メートルほどの円形の跡。まるで、何かの儀式を行ったかのように。
猫たちは校門の前で立ち止まり、悠真を振り返った。
「入れ、ということか」
黒猫が小さく鳴いた。「にゃー」というより、「はい」と聞こえた。
いや、本当に「はい」と言ったのかもしれない。声帯の構造が、まだ完全には変化していないのだろうか。
悠真は息を呑み、校門をくぐった。