☆邪神が見る夢①
お読みいただきありがとうございます。
『神様に嫌われた神官でしたが、高位神に愛されました』の本編を読んでいただいていることが前提の内容となっていますので、ご了承ください。
末の邪神とフルードが初めて会った時の話です。
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『うわぁ、すごい。真っ白。ツヤツヤ、スベスベ』
『とても、とっても、綺麗』
花が綻ぶような笑顔と共に、そっと手渡されたあの子の言葉を、自分は永劫に忘れることはない。
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下界にいる者は、誰もかれもが自分を……ラミルファを見て恐怖し、叫び、卒倒する。当然だ。骨だけの骸に無数の蛆虫を這わせ、腐食して粘ついた黒炎を纏う姿は、神話に見える悪神そのもの。その反応が面白く、愉快だった。
だが、あの子は――フルードは違った。
『……おやオや』
ある時期のある日のある時間。戯れに地上を眺めていたラミルファは、帝都にそびえる山の一点を見て呟いた。
『咲ク時期を間違エた花が凍えていルじゃなイか。アれは薄黄木犀かナ』
現在は真冬。凍てつく雪景色の中、開花時期でもないのに花を満開にしている木がある。銀木犀の亜種、薄黄木犀だ。
『どレ、酔狂な花ヲ見に行っテやろう』
そうして、何の気無しに一時のみ単発降臨した地上で、フルードと邂逅した。やせ細った体は同年代の子より一回り小さく、体も心も満身創痍の状態だった。両親から熾烈な虐待を受け、売り飛ばされた貴族ガルーン・シャルディからも拷問級の扱いを受けて酷使されていた。
空気さえも眠る真夜中にも関わらず、外を歩いていたのは、粗相をしたことで電撃を帯びた鞭で激しく打たれ、罰として薬草を採って来るよう命じられたからだ。
だが、霜が降りるこの季節、草など雪の下に埋もれてしまっている。ガルーンはそれを承知の上で、一晩で薬草を集めて来るよう厳命した。フルードよりも背が高く、ずっしりと重い鉄の大籠いっぱいに。
集められなければさらに酷い罰を与えると言われ、凍て付いた山の中をツギハギだらけの薄衣一枚でさ迷っていたフルードは、狂い咲く薄黄木犀の木の下で、戯れに降臨したラミルファと出会った。
『……何ダ貴様は』
最初に目にした時は、大きなボロ雑巾が歩いているのかと思った。ボロボロの衣、ボロボロの体、ボロボロの心、そしてボロボロの未来。芥子粒ほどの希望すら抱く余地もないほどの絶望に捕らわれた姿。
世界中に沈殿した不幸という不幸をすくい集めて背負わされたような人間だ。
そう思っていると、こちらに気付いたフルードは碧眼を見開いた。帯電する鞭でしたたか打ち据えられた顔は火傷と共に腫れ上がっていたが、それでもなお隠せない、どこまでも透き通った瞳。この状況でも曇りを見せない、信じがたいほど透明な優しい青。
その気を見た瞬間、心胆寒からしめるほどの嫌悪感が全身を駆け巡った。一般的な神であれば何と清らかなのかと感嘆する魂は、しかし、悪神であるラミルファからすれば醜悪な汚穢そのものでしかない。
何という嫌なものを見てしまったのか。本当にとんでもないものを見た。
ああ気分が悪い。腹いせに地上でひと暴れしてやろうか。コイツはもちろん即殺だ。この自分を不愉快にさせたのだから、神罰牢に堕としてもいいかもしれない。
それ以前に、このボロい塊はどうせすぐに悲鳴を上げて逃げようとする。自分のこの形を見れば。そう思っていたが、予想は見事に外れた。
『あなたは……神様のお使いですか?』
紡がれた弱々しい声。消え入りそうな声量だが、周囲の全てが静まり返った時刻なので、思いのほか大きく響いた。
『違ウよ。何故ソう思う?』
自分を見ても逃げ出さないことを意外に思い、反射的に問いかけていた。その弾みでまた汚い――悪神の基準でだ――気が視界に入り、不快感で吐きそうになる。
人間の感覚で例えれば、風呂に入ってさっぱりしたところで、排泄物と吐瀉物と腐敗した生ゴミを全て一緒くたにして煮詰めた上に大量のゴキブリを投入したプールに全身を浸けられたようなものだ。
やはり腹立ち紛れに暴れようと思っていると、そんなことを知らないフルードは言った。
『白くて綺麗な体をしているから……でも、違ったのですね。ごめんなさい』
俯いた拍子に、パサついて枝毛だらけの髪が揺れた。元は綺麗な金色なのだろうが、汚れが酷くくすんだネズミ色になっている。そこだけを見れば、悪神基準では綺麗と言える。
だが、この時はそんなことを考えはしなかった。今の返答で、ほんの一瞬、壮絶な不快感も忘れるほどの驚きが込み上がったからだ。
『綺麗ダって? 僕のコの形ガ? ――あア、君ハ視力が弱いノだな。目を殴らレでもしタのかイ』
憐れむように言うと、フルードはふらつく体でこちらに近付いて来た。やせ細った手足は棒のようだ。嫌悪感が一瞬で蘇る。寄るな汚物が、という罵声が喉まで出かかった時。
フルードが笑った。世の中にはびこる悪意と辛苦を一身に受けながら笑った。
『雪みたい。ううん、雪より綺麗』
思いもかけない言葉に声が止まる。その間に、フルードはヒョコヒョコとやって来た。舌打ちしたい気分を堪え、冷ややかに言い放つ。
『ソの貧弱な目でよク見るガ良い。こノ身を這ウ蟲を。おぞマしいだろウ。分かッたならば疾く下がレ……』
だがフルードは、この体を――骨を見てにっこりと微笑んだ。
『うわぁ、すごい。真っ白。ツヤツヤ、スベスベ』
完全に想定外の言葉。こちらの魂の最奥まで刺し貫くほどの純粋無垢な笑み。それらを同時に食らい、思考が止まる。
『とても、とっても、綺麗』
『…………』
抱いていた嫌悪感と不快感、忌避感が全て消えていく。フルードの口から紡がれる言葉は、向けられる笑みは、もはや美醜を超えた奇跡の領域にあった。
全身に渦巻いていた負の感情が消え、空っぽになったところに、新たに生まれた別の想いが流れ込む。
〝この子が欲しい〟
悪神すら魅了する透明な魂への愛しさが満ちていく。降り積もった雪に草木の匂いが吸い取られる中、薄黄木犀の芳香だけがフワリと漂う。
『……本当ニそう思うカい?』
『はい』
『ソうか。――僕の正体ヲ教えてアげよう。僕ハ神の使いデはない。神自身ダ』
『神様……?』
体を這い回る蛆虫を消し、パチパチと瞬きするフルードに腕を伸ばす。真っ白な骨が剥き出しになった指で、腫れ上がった頰を撫でてやる。
この時のラミルファはまだ、フルードが受けている虐待の仔細を知らなかった。だがそれでも、このズタボロの姿を見れば、まともな環境にいないことは推測できる。
『酷イ怪我だ。まるデ不幸の貯蔵庫ダな。かワいソうな君ヲ助けテあげよウ』
フルードを自身の愛し子にしようと思った。生き餌ではない。通常の神の寵児と同じ――つまりは奇跡の愛し子だ。己の庇護の下で悠久に愛でていよう。
だが、奇跡の愛し子は久しく誕生していない。寵を与えるにしても、天界に最低限の根回しはしておいた方がいい。
『モう少し待ッているガ良い。……だが、念のたメに印ハ付けてオこう。君ノ名前ハ何という?』
神の眼で視れば、本名などすぐに分かる。だが、本人の口から聞きたかった。
『ぼ、僕はフルード・レシス……いえ、神様相手ではフルネームじゃないと失礼なんですよね。神様、僕はフルード・セイン・レシスと申します』
『ではフルード・セイン・レシス。僕ハ君を選ビ、近く迎えニ行く。それヲ受け入レてくレるかイ?』
『僕を迎えに……?』
希望を抱くことすら諦めていたような瞳に、一縷の光が宿った。
『そうダよ』
『神様が僕を……は、はい。受け入れます』
ありがとうございました。