秘石
その日も、汗が噴き出るほどの熱帯夜だった。
昼間の太陽でいぶされた、鉄とコンクリートが熱く滾り、アスファルトは溶け出してユラユラと陽炎が立ち籠めている。
智達の部屋に、クーラーはない。彼らには覿面な灼熱地獄だ。
そんな庶民、いや貧民に取っての娯楽は、酒で現実から逃れること。
現実から逃避行し、ネット世界の住人になることくらいだった。
「はぁー明日香ちゃん、可愛いです」
智が酒の力も手伝ってか、ハーッと息を吐き出した。
目の前では俊平が、パソコン相手にネットの世界を往来してる。
「……なあ、訊いてるのかよ?」
咄嗟に言い放った。
「……聞いてる。バイト先の明日香ちゃんだろ?」
視線も向けずに言い放つ俊平。
その淡白な態度は、智の怒りを呼び覚ますに充分だ。
「……あのなぁ、俊平。俺が彼女に惚れた訳はだな」
「……知ってるよ。……バイトの最中、客に因縁付けられてたお前を、彼女が身を呈して阻止したって奴だろ? ……耳タコだよ」
怒り心頭気味な智の台詞を、俊平が遮った。
こうなると彼は、返す言葉もない。
……実際そうだからだ。智が密かに思う異性は、鳴門明日香、二十歳。
智のバイト先の、手前の携帯電話ショップで勤務する可憐な女性だ。
運命の出会いは数ヶ月前。バイトする居酒屋で、智が酔った客に因縁つけられた時だ。
実際、あの時はホトホト困り果てていた。
酔った中年の客が、『このから揚げ、まずいぞ!』と因縁つけてきたのだ。
全国展開する大手居酒屋チェーンなんだから、マニュアル通りにマズイ料理を作ってるんだ。そんな風に感じる智。
もっともバイトの智は、口が裂けてもそんな台詞は言えない。ペコペコと、頭を下げるのが関の山だった。
だがその智の対応に、客は益々横暴になっていく。
『この店員はやる気がない』『さっき便所行って、手を洗ってなかった』とか、あることないこと言いまくりはじめたのだ。今流行りの"モラハラ"ってやつだ。
その時だ。彼女がその場に介入してきたのは、
『おっさん、こんな安い店で、料理に難癖付けるのは、おっさんの力量を疑うぞ? ……まずくても、この店に入ったのは、あんただ。納得行かなきゃ、銀座あたりの高級そうな店でも行けってもんだろ?』
冷静に、それでも場の雰囲気を損ねぬように言い放った。
季節は初夏、淡い紅色のシャツが愛らしい。後ろで結わえた黒髪が、凛とした様相を放っていた。
辺りでは多くの客が、そうだと言わんばかりに視線を向けている。流石のクレーマーも、渋々従うしかなかったのだ。
『……明日香姫……』
その姿に見とれ、咄嗟に呟く智。
『……はっ?』
明日香の目付きが変わった。
怪訝そうに、じろじろと、舐め回すような視線を向ける。
智は明日香のことを、昔から知っていた。
この居酒屋の、通りを挟んだ向うの携帯ショップが、彼女の勤め先だから。
『い……いや、キミ、ここの目の前のケータイショップで働いてる子でしょ? ……俺、客で一度行ったことあるから……』
目の前にスマホをかざして、咄嗟に答えた。
その台詞を理解したようで、明日香の表情が変わる。
『……成る程お客さんな訳だ。だけど名前は知っててもかまわねーけどさ、なんで姫なんだ?』
それでも困惑気味に、智を横目で窺った。
その魅力的な視線に、流石の智も返答に困る。
『あ、それはさ……あははは』
笑ってごまかすしかなかったのだ。
それが明日香との、初めての会話だった。
男である智が、女である明日香に、逆に助けられた最悪の出会い。
しかも、影で姫と呼んでいたことまで知られてしまう。
それでも明日香は、それからも普通に接してくれた。
むろん、恋人同士の付き合という訳ではない。それでも智にとっては、至福の時間の始まりだった。
「可愛いとか、優しいっても、所詮は客と、店員の関係。いつも愚痴を聞いて、それで終わりの関係だろ?」
しかし俊平の情け容赦ない台詞が、智を現実世界に引き戻す。
「いいじゃんよ、俺はそれで満足してるんだから」
「満足って、それじゃただの現実逃避だろ?」
「そりゃーそうだけどさ。……いつかは恋人同士、ってことだってあるじゃんよ?」
「ないね」
即答する俊平。
夢のない言い方だ。
どんな出会い方だって、ないよりはマシ、ゼロってことじゃない。たった1%だって、可能性はあるんだ。
そう考える智を余所に、俊平は相変わらずパソコンとにらめっこ。
「……そういうお前は、なんの仮想空間で遊んでるのさ?」
ムカつき加減に訊ねた。
「"ロストワールド"の話だよ」
「ロストワールド?」
「つまり"失われた世界"って意味だ、超古代の話。現代文明が栄える、もっと前の話さ」
意外だった。金もなく、いつもなら出会い系サイトなんかで、暇を潰している筈の俊平が、そんなサイトを見ていること自体がだ。
「昔々、この世界は魔力で繁栄していて、魔法を使う奴もいたんだってさ」
俊平の台詞は漠然としたものだ。
「へーぇ、お前そんな話に興味があったんだ」
その智の台詞に、俊平が振り返る。
「……馬鹿だな、そんな話、信じる筈ねーだろ? 俺が興味あるのは、そこで募集してるプレゼントのことだよ」
その台詞で智は納得した。やはり俊平は、そんなオカルト話を信じてはいなかった。
「ふーん。……で、なにをプレゼントしている訳?」
「秘石って奴だよ」
「秘石?」
「秘石ってのは、神秘の宝石のことらしい。それを数個限定で、プレゼントしてるのさ。『ネクストワールドキャンペーン』、来たるべき世界の、キャンペーンだってさ」
「へー。……それでお前も、そのプレゼントを狙って、応募してるって訳か」
呆れた感情が充満していた。
多分俊平は、それをタダで手に入れ、どこかに売り込む算段をしているのだ。
「メンドくさいんだろ? そんなのに応募するのって」
「そうでもないぜ。ただ単に、いくつかの質問に答えるだけらしいからさ。だけどこれが、世界規模なんだよ。応募者の数が半端じゃない。だから当選者が、中々決まらないのさ」
俊平が画面の端をクリックした。そこに映し出されたのは、応募総数と現在の当選者の数。
数億の応募総数に対し、当選者は二十数人だ。
「へーっ、世界規模とは、中々の狭き門だな。お前は送ったのか?」
「送ったけどダメだった。当選者には、二日くらいで発送するらしいけど、来ないってことは落選さ」
そう言って俊平は、深いため息を吐いた。
ついていない奴は、どこまでいってもついていない。
所詮世の中、そんなもんだ。持てる者達が全てを手に入れ、持たざる者にはなにも転がってこない。
智はそんな、漠然とした感情の中にあった。
ただ画面に映る秘石の輝きが、彼の心に妖しく輝いていた。
……明日香ちゃんにプレゼントすれば、少しは喜んでもらえるのかな。
そんな想いだけが、心に渦巻いていたのだ。