覚醒する者たち
時代は過ぎ去って現代。
夜の光景は優しく、海原はさざ波がたちこめ、岸壁にうたれて、しぶきとなって消える。
その切り立つ岸壁の上に、一件の古めかしい洋館があった。
その一階部ロビーは、観葉植物が置かれた空間となっていた。
色鮮やかな鳥や、様々な小動物が自由気ままに動いている。
そしてその中央部のソファーには、白い衣を纏った人物が座っている。長い黒髪の、妖艶な女性だ。
左の耳たぶに飾られた、透き通る宝石の輝きが、一際妖しさを押し上げていた。
そのすぐ傍では、大きなライオンが寝転がり、女の足元に顔を摺り寄せている。
その恍惚の眼差しは、百獣の王とは思えぬ程だ。
「失礼します、"マーキュリー様"。一ツ橋グループの橋本会長が、お見えになりました」
その空間に、執事と思われる男が入室してきた。
恰幅のいい男を、後ろに引き連れている。
恰幅のいい男は、その胸元に一匹の猫を抱いている。
女の足元のライオンを見つめ、戸惑うような素振りを見せていた。
「怖がることはありません。この子は我らと同じ、地球で生きる仲間です。あなたがそう感じてくれれば、この子は攻撃などしないのですから」
風にそよぐような、優しい声だった。
その声に、男の戸惑いも薄れていく。
「流石は噂に高いマーキュリー殿、慈愛の女神にそぐわぬ台詞ですな」
そして言った。
しかし既に女の興味は男にはない、真っ直ぐに猫を見つめている。
猫はまあるい瞳で見つめていた。『ニャーニャー』とか細く鳴いている。
「……その子、名前はサクラちゃん。……最近元気がないようですね」
そして伝える。
その台詞には、流石の男も戸惑い気味だ。
何故なら彼らは初対面。猫の名も、直近の様子も、教えていないからだ。
「サクラちゃん、口の右側にとげが刺さっているようですね。それが原因で、食欲が湧かない。元気が出ない」
女はまるで、その猫の声が理解出来るように言い放つ。
「確かにその通りです。少し前までは、元気に跳ね回っていたというのに」
執事と共に、猫の口の中を探る男。
「……あった。こんな小さなとげが……」
やがて驚愕するように言い放った。
「人間にしてみれば、小さな事かもしれません。ですが小さな存在にとっては、それは大いなる脅威。世界に共存する者として、それは忘れてはいけないことなのですよ」
♢♢♢
燦然と輝く街並み。幾多の人で溢れ、様々な音に満ちている。
それを眼下に臨む、高層マンションの一室。
その広いロビーで、幼い少年がしゃがみ込み、画用紙に絵を画いていた。
「おやおや坊ちゃん、絵がはみ出していますぞ。リビングまでクレヨンが」
執事らしき老人が投げ掛けた。
「いい、好きなようにやらせなさい」
その後方から誰かが言った。
「ですがだんな様」
執事が後方を振り返る。
その視線の先、ソファーに座り込むのは四十歳程の男だ。
少年を見守るように見つめる様子から、この少年の父親らしい。
「私はうれしいんだよ。少し前まで脳に障害があって、少し前の記憶さえ忘れていたこの子が、今ではこんな絵まで画ける。全てはあの方のお陰なんだ」
しみじみと呟き、ソファーを立ち上がる。
「確かに奇跡です。私は神など信じたことはありませんでしたが、今では信じています。信じれば、奇跡は必ず起こるのだと」
呼応して執事も目を細めた。
少年の首には、乳白色の宝石が掲げられている。
「神秘の秘石か」
父親が、漠然と呟いた。
この世に奇跡などあるのだろうか?
運命は神の手に委ねられて、趣くままに操られている。
それでも奇跡は起こるのだ。ごく希に、希望の象徴として。
その瞬間、人は神の存在を感じるだろう。見えざる力が生じたんだと。
だがそれは偶然ではないのだ。
最初から必然的に起こった出来事。
……事実その先に展開されることこそが、奇跡の始まりなのだから。
「パパ、うまいでしょ」
絵を画き終えた少年が、嬉しそうにその絵を見せる。
「おお、うまいなー。おいしそうな、"ぶどう"だ」
つられて父親も、和やかに笑った。
♢♢♢
古めかしいアパートの一室。
電気もつけないその室内で、四十歳ほどの男が、パソコンの画面に視線を向けていた。
「"冥王"?」
ボソッと聞こえる男の声。酷くくぐもっていて、抑揚ない声だ。
『そうさ、冥府の王。罪人の処刑を執行出来る、最強の戦士』
別の声が響く。
しかし室内に他人の姿はない。電話している様子もない。
どうやらパソコンと会話しているようだ。
「なぜ俺が、そんな力を?」
『理由は簡単だ。お前が選ばれたから、お前なら、その力を引き出せると確信したからだ』
「しかし殺人は犯罪だ。正義に背く行為」
『お前は本気でそんなことを、思ってはいない筈だ。正義に熱く、誰よりも悪を嫌うお前なら。……その証拠に、最近じゃ、砂をかむような思いばかりなんだろ? 感情を押し殺し、意思なきデク人形と化した人生だ』
それは確かにこの世の不条理だ。
この世に決められた法律がある限り、正義を振りかざしても、悪に挫かれることもある。
それに味をしめた輩は、法のギリギリで存在する。こずるいやり方をして、法の加護の下、ぬくぬくと生きている。まさに負の連鎖だろう。
「デク人形だって? 俺は俺だ、俺は悪を許すつもりは微塵もない」
やがて男が、怒りを顕わにするように、拳を握り締めた。
『そうだ許すな、この世の悪を。所詮法律など、決められた人間の作った、都合のいい存在。その秘石を手に取り、我らと共に新しい世界を創るのだ』