第8話:不穏な連絡
魔王軍での生活にも少しずつ慣れてきた。訓練は相変わらず厳しく、リーナの無慈悲な指導には何度も体が悲鳴を上げたが、それでも俺は生き残っていた。イリスの励ましや仲間たちの存在が、俺の支えになっているのは間違いない。
それでも、心のどこかで、スパイとしての任務を忘れることはできなかった。人間界から送り込まれた俺は、魔王軍の内部情報を探り、その結果を報告するためにここにいる。しかし、日が経つにつれて、その使命に疑問を抱き始めていた。
「魔王軍も人間界も、そんなに違うわけじゃないんじゃないか……」
魔王軍の仲間たちは、もちろん異形の者たちもいるが、彼らもまた生きるために戦っている。彼らを裏切ることが本当に正しいのか、俺はその答えをまだ見つけられずにいた。
そんなある日、俺に不穏な知らせが届いた。
その日も、いつものように訓練を終えた後、俺はイリスと共に食堂で食事を取っていた。魔族の食事にも徐々に慣れてきたとはいえ、やはり人間界の料理が恋しくなることもある。フィスラトの肉や香辛料たっぷりのスープを口にしながら、ふと懐かしい味が頭をよぎる。
「今日も疲れたな……」
俺が呟くと、隣に座っていたイリスが笑いながら返事をした。
「お前、最初の頃に比べたら随分強くなったじゃないか。最初は肉一口で倒れそうだったけどな。」
「それを言うなよ……」
俺は苦笑いしながら、スープを飲み干した。イリスは本当に明るい性格で、彼女と一緒にいると、訓練の疲れも少し和らぐ気がする。
そんな時、俺の耳に聞き慣れた声が届いた。
「直也、ちょっと来い。」
振り返ると、そこにはリーナが立っていた。彼女はいつものように無表情で、俺に用があることを伝えるために来たのだろう。
「なんだ、また訓練か?」
俺が冗談めかして尋ねると、リーナは小さく首を横に振った。
「訓練ではない。重要な連絡がある。ついてこい。」
リーナの声には、いつも以上に緊張感が感じられた。俺は食事を中断し、急いで彼女の後を追った。
リーナに連れられて向かった先は、拠点内の暗い廊下を抜けた奥まった部屋だった。部屋の中は簡素な作りで、机といくつかの椅子が置かれているだけだったが、何よりも目を引いたのはその部屋にいた人物だった。
「お前が、黒木直也か。」
低い声で語りかけてきたのは、魔王軍の将官の一人、ガルドス将軍だった。彼は屈強な体躯を持ち、戦場では無類の強さを誇ることで知られている。その鋭い目が俺をじっと見つめていた。
「ガルドス将軍……俺に何か用ですか?」
俺は少し緊張しながら尋ねた。彼は魔王軍の中でも高い地位にあり、俺のような新人に直接会うのは異例だ。
「そうだ。実はお前に確認したいことがある。」
ガルドス将軍は机の上に一枚の地図を広げた。それは、魔王軍と人間界の国境地帯を示すものだった。俺がその地図を見つめると、彼は鋭い目でこう言った。
「最近、人間界で不審な動きがある。お前も気づいているかもしれんが、戦争の兆候だ。」
「……戦争?」
俺の心臓が一瞬跳ね上がった。その言葉に、俺は自然と身構えてしまった。戦争が起きるということは、俺の任務にも直接関わってくるからだ。
「そうだ。お前はかつて人間界にいた者だ。何か心当たりはないか?」
ガルドス将軍の問いに、俺は即答できなかった。実際に俺はスパイとして魔王軍に潜入しているが、人間界の動向に関する情報はまだ完全には掴めていない。
「正直に言うと、今はまだはっきりとは分かりません。ですが、何か動いているという感じはしています。」
俺は慎重に言葉を選びながら答えた。ガルドス将軍はしばらく俺の言葉を吟味するように考え込み、やがて頷いた。
「そうか……だが、こちらもそれを確かめなければならない。そこで、お前にはある任務を与える。」
「任務……?」
ガルドス将軍が何を求めているのか理解できず、俺は少し戸惑った。彼は地図の一箇所を指差しながら説明を始めた。
「この場所で、我々の偵察隊が行方不明になった。それを調査し、できれば原因を突き止めてほしい。」
彼が指差した場所は、人間界と魔王軍の国境付近にある森だった。以前にも、同じような任務で森に入ったことがあるが、今回はさらに危険な任務のように思えた。
「わかりました……。ですが、その森で何が起きているんですか?」
「今は何も分からん。ただ、影の魔物が現れたという情報もある。」
影の魔物——それは先日俺たちが戦った、あの不気味な黒い影のことだった。もしそれが関係しているとすれば、この任務は想像以上に危険なものかもしれない。
「リーナ、お前も直也に同行しろ。」
ガルドス将軍はそう命じた。リーナは頷き、俺に視線を向けた。
「準備をしろ。すぐに出発する。」
リーナの冷静な声に促され、俺はすぐに装備を整えるために部屋を出た。
その後、俺はリーナと共に再び国境の森へと向かうことになった。今回の任務は、以前とは比べ物にならないほど危険な香りが漂っていた。影の魔物が再び現れるかもしれないという不安が頭をよぎる。
「直也、心配するな。俺たちは前回も影の魔物を倒した。今回もきっとやれるさ。」
イリスが元気づけるように言ってくれたが、彼女自身も緊張しているのが分かった。影の魔物は普通の魔物とは違い、攻撃が効きづらい相手だ。しかも、今回はその数が不明だというのがさらに厄介だった。
「油断はできないな……」
俺は剣を握りしめながら、リーナの後ろを歩いていた。彼女はいつものように無表情で、感情をほとんど見せないが、その目は鋭く周囲を警戒している。
「……お前、何か考え込んでいるな。」
リーナが突然そう言った。俺は少し驚きながら答えた。
「いや、ただ……この戦争が本当に起きるのかどうかって、少し考えてただけだ。」
リーナは黙って聞いていたが、やがて口を開いた。
「戦争は避けられないだろう。両者が互いに譲歩することはない。だが、お前はどうしたい?」
その質問に、俺は言葉を詰まらせた。俺がどうしたいのか——それが今の俺にとって最も難しい問いだった。
「俺は……」
その答えを探す間もなく、突然、森の中から不気味な音が響いてきた。周囲の空気が一気に張り詰め、リーナが剣を構える。
「来るぞ……!」
彼女が言った瞬間、暗闇の中から再び影の魔物が現れた。数体の黒い影が、不規則に動きながらこちらに迫ってくる。
「今度は複数か……!」
俺も剣を構え、リーナと共に防御の体勢を取った。影の魔物たちは一斉に突進してきたが、その動きはあまりにも素早く、目で追うのがやっとだった。
「くそっ、またか!」
俺は剣を振り下ろし、影の一体を狙ったが、その瞬間、影は煙のように消えてしまった。リーナも同様に影と戦っていたが、彼女も苦戦している様子だった。
「どうすれば……」
俺は焦りながらも、冷静に状況を見極めようとした。影の動きは異常に速く、物理的な攻撃が通用しない。しかし、俺たちは前回も同じような相手に勝利している。何か、突破口があるはずだ。
「直也、魔力を使え!」
リーナの声が響いた。そうだ、前回も俺の魔力が影に効果を発揮した。今度もそれを試すべきだ。
「行くぞ……!」
俺は全身に魔力を集め、剣に力を宿した。その瞬間、剣が淡く光り始め、影の魔物に向かって一閃を放った。
「はあっ!」
剣が影を貫いた瞬間、黒い煙が立ち上り、影の一体が消滅した。だが、まだ他の影が残っている。リーナも魔力を使いながら戦っているが、敵の数は多い。
「全力で行くしかない……!」
俺は再び魔力を集め、次々と影の魔物に向かって攻撃を仕掛けた。彼らの動きは速いが、魔力を使えば確実にダメージを与えることができる。やがて、最後の影も消え去り、森に静寂が戻った。
「なんとか……倒せたな……」
俺は息を整えながら、リーナの方を見た。彼女も少し疲れた表情を浮かべていたが、その目は依然として鋭かった。
「だが、これは始まりに過ぎない。」
リーナが静かに呟いたその言葉に、俺は背筋が寒くなる思いを感じた。影の魔物が再び現れたということは、何か大きな陰謀が動き始めている証拠だ。そして、その裏には何者かの強大な意志が働いている。
「戦争……本当に起きるのか?」
俺は再び自問した。答えはまだ見つからないが、確実に世界は動き始めている。