第2話:スパイとしての第一歩
「魔王軍にスパイとして潜入し、人間界を救う——」
クロウ・ガルシアの言葉は、未だに現実感が湧かない。それでも、俺はこの異世界に存在している。地球での生活は終わり、ここで新しい人生が始まったという事実だけは否応なく受け入れざるを得なかった。
「……本当に、俺にそんなことができるのか?」
不安を抱えたまま、俺はクロウに尋ねた。大学受験にすら失敗し続けた俺が、異世界で魔王軍に潜入し、スパイとして活動するなんて非現実的すぎる。
「心配するな。お前には特別な力が与えられている。この世界で生き残るためには、それが必要だからな。」
「特別な力……?」
クロウは右手をかざし、何か呪文のような言葉を口にした。その瞬間、俺の体に一筋の光が降り注ぎ、熱が体の中に広がった。
「これは……」
身体が軽くなったような感覚と共に、全身に力が漲る。確かに、何かが変わった。俺は普通の人間ではなくなったのかもしれない。異世界の法則に従った特別な力——そうとしか思えなかった。
「その力を使って魔王軍に潜入し、彼らの中で生き残れ。そして、人間界を救うために必要な情報を手に入れろ。」
クロウの言葉には一切の躊躇がない。俺にとってはまだ受け入れ難い現実だったが、今さら引き返す道もない。地球には戻れないのだ。覚悟を決めるしかなかった。
「分かった。俺にやれることをやってみるよ。」
俺はそう言って、心の中で自分を奮い立たせた。たとえ望んだ形での新しい人生でなくても、ここで俺は何かを成し遂げることができるかもしれない。そう思わなければ、やっていけなかった。
クロウとの別れを告げられた後、俺は彼に手渡されたローブを身にまとい、指定された場所へ向かった。そこは、魔王軍の新兵が集まる訓練キャンプだった。まさに、俺が潜入すべき場所だ。
「ここが……魔王軍か。」
キャンプに足を踏み入れると、あちこちで魔族たちが訓練をしている光景が目に入った。中には巨大な体を持つ者や、見たこともない異形の姿をした者までいる。彼らは皆、何らかの特異な能力を持っているようだった。
「お前が新人か?」
いきなり背後から冷たい声が聞こえた。振り返ると、そこには黒い鎧を着た女性が立っていた。整った顔立ちと鋭い眼差し。戦士として鍛えられた体つきが印象的だった。
「……そうだが、君は?」
俺が問い返すと、彼女は無表情のまま答えた。
「私はリーナ。この訓練キャンプの指導役だ。新人の監視と教育を任されている。」
リーナ。クロウから聞かされたわけではなかったが、どうやらこの世界でも重要な人物であることは明らかだった。彼女の目は冷たく、俺を警戒しているようにも見える。
「新人としての訓練はすぐに始まる。だが、その前に一つ忠告しておく。……ここでは、誰も信用しないことだ。」
「誰も、信用しない……?」
リーナはその言葉を強調するように言った。その冷たい表情には、何か重い過去が隠されているように思えた。だが、俺にはそれを聞く権利もなければ、聞くつもりもない。今は、スパイとして生き延びることだけが重要だ。
「分かった。忠告、ありがとう。」
「……口だけなら誰にでも言える。」
そう言い残して、リーナは去っていった。彼女の後ろ姿を見ながら、俺はこの異世界での厳しい現実に再び向き合わされた。魔王軍の中で生き残るためには、強くならなければならない。力を持った異形の者たちが集うこの場所で、普通の人間である俺がどうやってやっていけるのか……。
だが、すぐに答えは出ることになる。
訓練初日、俺は魔王軍の「現実」を目の当たりにすることになった。
「……っ!」
俺は息を荒げながら、地面に倒れこんでいた。全身が痛みで悲鳴を上げている。何度も何度も叩きのめされ、俺は何度も立ち上がることを強いられた。
「次、立て。」
冷たい声が響く。振り返ると、そこにはリーナが無表情のまま立っていた。彼女は手加減を一切しない。俺が人間だろうが関係ない。ここでは、強者だけが生き残るのだ。
「……くそっ……」
俺は唇を噛みしめながら、どうにかして身体を持ち上げる。だが、痛みと疲労が限界に達している。立ち上がることすら、今は難しかった。
「もう、無理だ……」
そう呟いた瞬間、リーナが俺の目の前に立った。そして、冷たく言い放つ。
「お前はこれで諦めるのか?」
その言葉が、俺の胸に鋭く突き刺さった。ここで倒れ込んでしまえば、何も変わらない。だが、立ち上がり続ければ、何かが変わるかもしれない。魔王軍で生き残り、スパイとして任務を果たすためには、今この瞬間を乗り越えなければならないのだ。
「……俺は、諦めない!」
力を振り絞って、俺は立ち上がった。その瞬間、リーナの表情がわずかに動いたように見えた。ほんの一瞬、彼女の冷たい瞳に何か別の感情が宿った気がしたが、すぐにそれは消え去った。
「ふん……少しは根性があるようだな。」
リーナはそう言い残して、再び俺を鍛え上げるための訓練を再開した。俺の体力が尽きるまで、終わりはない。
その日が終わる頃には、俺の身体はボロボロだった。それでも、俺はリーナの言葉を胸に刻んでいた。諦めないことが、俺にとっての唯一の武器だった。
「ふぅ……今日もきつかったな……」
夜、訓練が終わり、俺はキャンプの片隅で一人座っていた。体中が痛み、疲労は限界だが、それでも俺はここにいる。何とか生き残っているのだ。
「お前、頑張ってるな。」
突然、声が聞こえた。顔を上げると、そこにはイリスが立っていた。彼女は訓練隊の隊長であり、俺たち新人の中でも最も尊敬されている存在だった。戦闘能力も圧倒的で、何より仲間思いだという評判がある。
「イリスか……どうしてここに?」
俺が尋ねると、イリスは微笑んで言った。
「お前がどんな奴か気になってな。あれだけの訓練を受けても、まだこうして座ってるなんてなかなか見どころがある。」
彼女の言葉に、俺は少しだけ胸が温かくなった。誰も信用するなと言われたが、こうして仲間が声をかけてくれることが、少しだけ心強かった。
「……ありがとう。俺、何とかやっていこうと思ってるよ。」
イリスは軽く頷くと、俺の隣に腰を下ろした。
「強くなりたいか?」
「……強くなりたいさ。俺には、やらなきゃいけないことがあるからな。」
俺が答えると、イリスは静かに微笑んだ。
「いい覚悟だな。だったら、私が手伝ってやるよ。お前を鍛えて、もっと強くしてやる。」
その言葉に、俺は驚きと喜びが入り混じった感情を抱いた。イリスは強いだけでなく、こうして俺を助けようとしてくれる。彼女の存在が、これからの俺にとって重要なものになりそうだ。
こうして俺の魔王軍での生活は、過酷な訓練と仲間たちとの絆を通じて、少しずつ形を成していった。リーナの冷徹な指導と、イリスの温かい支え——この異世界で、俺はスパイとして、そして戦士として生き延びるために、成長していくのだった。