第九十二話
初めて聞く娘の決意、初めて見る娘の強い瞳に、ケイジェルはたじろぐ。
だがすぐに我に帰り、フリーダの手を掴もうと再び歩み寄った。
「フリーダ……? どうしたんだ、急に…」
「ボクはっ…ボクは、アニィさん達と一緒に行くんだ。行くって決めた!」
突然の決別の宣言に、ケイジェルは困惑する。
しかしすぐに落ち着きを取り戻し、フリーダの手首を再び掴んだ。
「こんな時に我儘をいうんじゃない! アニィ君達が困っているだろう!」
「わがままじゃない! ボクはもう決めたって言ったじゃないか!!」
「―――フリーダさん…!」
抵抗するフリーダの意外に強い力に苦戦しつつ、ケイジェルはフリーダを説き伏せようとする。
アニィとパルが間に入り、2人を引き離して一時つかみ合いを止めさせた。
フリーダの腕力で下手に振り回せば、掴んだケイジェルの腕の方が千切れかねない。
距離を取った二人は、しかし視線を合わせることは無かった。
うつむきながら必死に声を絞り出すフリーダに対し、ケイジェルの視線にはどこか軽蔑が混ざっている。
「大体、お前に何ができるんだ…一般魔術だって人並程度、転移の魔術は危険だ。
アニィ君達を死なせてしまったら、それこそおしまいだ」
「ボクにはこれがあるし、クラウだっている…アニィさん達の力になれる…!」
フリーダは、ポケットからペンダントを取り出して父に見せた。
輝ける鋼のペンダントトップの中央に、顕現石の球が埋まっている。
周囲にびっしりと彫り込まれているのは、魔法陣であった。
つまり魔法を用いた道具…これが、フリーダが言っていた道具だと、アニィには直感的に判った。
それはケイジェルも同じだったらしい。だが彼は、それを見せられて尚、呆れた顔でフリーダを問い詰める。
「それだって、安全に使えると実証できたわけではないだろう。
ぶっつけ本番で使って、ちゃんと使えるという保障があるのか?」
「っぐっ……」
ケイジェルの詰問は、理屈としては全くの正論でもあった。
余りに強大な彼女の魔力では、魔法合成魔法を掛けられた相手の魔力が消滅してしまう…
アニィ達相手に成功するかどうかも判らない。
つまり、フリーダの魔法理論を実証する手段は、事実上存在しない。
それを知っているからこそ、ケイジェルはフリーダを止めようとしている。
「…フリーダ、私達にできることはないんだ。彼女達に任せるしか無いんだよ」
黙り込んだフリーダの手を掴み、ケイジェルは連れて行こうとする。
ここでフリーダを諦めさせるわけにはいかないと、アニィは止めようとしたが、フリーダの意思を確認できないために、手を放しかける。
「いくぞ、フリーダ。ここが破壊されるのも、時間の問題…」
「うるさぁああああい!!」
しかし自らを連れて行こうとした父を、フリーダは力いっぱい突き飛ばした。
床に倒れ込んだケイジェルが再び立ち上がるのに対し、フリーダはついに泣きだし、その場に座り込んだ。
どれだけの間、彼女は父への怒りと屈辱をこらえていたのか…とめどなく溢れる涙が、拭う自らの手を濡らした。
「もうやだ、やだよ! ―――もう、父さんと一緒にいるのはいやだ!
父さんなんかと、一緒にいたら、ボクは、やりたいことをっ、一生できないっ…!」
対するケイジェルは、フリーダが何故泣いているのか、どうやら本当に理解していないらしく、激しく困惑していた。
「何を言ってるんだ…本当にどうしたんだ、フリーダ!?」
「ボクはボクだけの魔法を使いたいんだ…それでいっぱい、素敵なことをしたい…
それがボクの夢なんだ。だからずっと、研究を続けてる…」
涙にぬれた怒りの瞳が、混乱する父を睨みつける…
だが相対する親子の感情は、こんな時にまで全くかみ合っていなかった。
全身全霊を籠めて怒りを叩き付けるフリーダに対し、普段から彼女を軽く見ているケイジェルは、戸惑っている。
そんな事などお構いなしとばかり、フリーダは叫び続けた。
「今まではずっとできなかった。諦めてた…でも、アニィさん達となら、きっとできる!」
「だがお前、実証はできないと今言ったじゃないか。
それにアニィ君達は旅の途中なんだぞ。試しにやらせてもらって失敗したら」
「ここで逃げて、父さんとまた暮らしたりなんかしたら、そんな機会さえ2度と来ない―――
今しかないんだ! ボクにはもう、今しかないんだ!」
それはフリーダの、まさに血を吐くような叫びであった。
夢をかなえる手段をことごとく奪われ、最早諦めようとしていた彼女が、最後に手にした機会。
縋りついたそれは、昨日出会ったばかりのアニィ達だった。
息を荒げるフリーダの様相に、ケイジェルもさすがに何か思うところがあるのか、悲し気な顔をする。
彼は立ち上がり、フリーダに歩み寄った。
「……わかった」
「父さん…」
フリーダは期待した。ケイジェルが自身の言葉を理解してくれるのではないかと。
アニィ達は、あくまでケイジェルがフリーダの意思を理解してくれればと思い、口を出さぬようにしていた。
そしてケイジェルの顔は、冗談で娘の努力も才覚も見下していた時と異なる、真剣な表情ではあった。
果たして、彼はフリーダの言葉に答えたのだが。
「後でちゃんと話し合おう。父さんが悪いなら謝る。
だからほら、後はアニィ君達に全部任せて。私達は逃げよう。な?」
ケイジェルは、優しく笑いながらそう言った。
ケイジェルの笑顔は、いつもと同じ。
フリーダを軽んじ、蔑ろにして、悪意無く心を踏みにじる、いつもの父の顔だった。
彼は、娘の全てを懸けた訴えすら、笑って聞き流したのだ。
―――フリーダの期待は砕かれた。事ここに至り、ついにフリーダは父に失望した。
失望はアニィ達にも伝わった。最早、娘と父の断絶は決定的になったのである。
(フリーダさん… ―――ああ……もう、駄目だ…)
アニィの目から、一筋の涙がこぼれた。
自分のような事態は避けて欲しいというアニィの祈りもまた、砕かれたのであった。
その頭をプリスが優しく撫でる。見上げると、プリスの瞳が無言で語った。
後はもう、フリーダを父から…そしてここから連れ出すしか無いと。
アニィは涙をぬぐい、パルとヒナ、パッフとクロガネ、そしてクラウに目配せをした。
意思は全員同じだ。フリーダを父のそばにいさせては、絶対にいけない。
アニィ達にしてみれば、初めて訪れた施設の、同い年の係員くらいの関係でしかない。
だが彼女は、アニィ達…とりわけアニィのために、父に隠し続けていた魔法を施してくれた。
現状を変えようとする彼女の勇気が、アニィ達の心を動かした。
外からは爆発音がいくつも聞こえた。既に邪星獣の大群が攻撃を始めている。
図書館に激突するだけではなく、恐らく地上へも向かっているだろう。
早く外に出て迎撃しなければ、街が壊滅してしまう。
だが、フリーダを放っておくことなど、アニィ達にはできなかった。
訥々と語るフリーダを、クラウが抱き寄せ、優しく撫でている。
視線で感謝を示すフリーダ。最早怒りを吐き出す気力さえ失せ、うつろに笑っていた。
「……いつもそうだ。父さんは優しい顔で、いつもボクのやることなすことバカにする。
そういう人だったね、父さんは。…母さんもか。二人そろってさ。
今だって、今朝だって、ボクは真面目に話してるのに。
父さんは子供のわがままとしか思ってくれない…!」
すっかりフリーダを連れ出す気でいたケイジェルは、訝し気に娘を見下ろした。
娘が失望した瞬間を目にしてまで、彼はまだフリーダが自分の言葉を聞くと信じているのだ。
だが差し出した手は握られず、空を切る。彼は眉を顰め、ため息をついた。
「フリーダ、父さんは聞き分けの無い子は嫌いだ。いい加減にしたらどうだ」
「……ボクの心を最初に滅茶苦茶にしたのは、父さんです」
そして、既にフリーダは父の言葉に耳を傾けてはいなかった。
彼女が語り聞かせているのは、むしろ周囲のアニィ達であった。
「よく憶えてる。クラウに出会って、初めて転移の魔術を使った時。
この世に2つと無いボクだけの魔術を見て、父さんは―――
『そんなことをしてる暇があったら、普通の魔術を勉強しなさい』って、言った」
これが彼女の、負の原点であった。
娘の魔術の特異性を支えられるはずの父親の、最初のアドバイス。
彼自身も優れた魔法の才覚を持っており、アニィには通じこそしなかったが、一般人の治療ならできる程だ。
そんな人間に、新たな魔術の発見を蔑ろにされ、当時のフリーダがどれだけ落胆したか。
尊敬していた筈の父への恨み言が、堰を切ったかの如くフリーダの口からあふれた。
「倒れる程勉強して、指輪の補助で使えるようになったら『早く指輪なしで使えるといいな』
血を吐くほど勉強して、道具無しに使えても『やればできるんじゃないか』
魔法合成魔法の研究を始めたって言ったら『何でそんなものを研究するのやら』
討伐演習チームの魔力を消したら『しかたない、お前が悪いんだ』」
「フリーダ」
「…そしてここに連れてきた、ボクが事情を話す前に。
父さんは何一つ、ボクの意思も努力も才能も言い訳さえも、認めようとしなかった。
厳しかったんじゃない。ただボクを見下して、ここに閉じ込めようとしただけだ」
乾ききった声と虚ろな視線が、フリーダの心を示していた。
「そうだったのか…お前にはずっと、そう聞えてしまっていたんだな…
すまない、父さんが悪かった」
ケイジェルはしゃがみこみ、フリーダの肩に手を置いて語り掛ける。
しかしフリーダ…そしてアニィ達にとって、最早心にもない、上っ面だけの空虚な言葉であった。
「父さんはな、お前に普通に暮らしていて欲しかったんだ。
お前を愛しているからこそだよ、フリーダ…お前が傷ついてしまわないように」
それが望まぬ願いであることは、フリーダが何の反応も示さない事で、ケイジェルにも判る筈だった。
だが彼は説得を続けようとする。届かぬ言葉での、あまりにむなしい説得。
子供にはごく常識的に、健やかに育ってほしいだけ…ささやかな幸せを願う、親としてごく普通の、自らの子への愛情が籠った願いだ。実際、彼の瞳には愛情が満ちている。
だからこそ、常識に当てはまらない魔術を行使するフリーダを、彼は無理やり矯正しようとしたのだが。
「お前の魔術を笑う奴はたくさんいる。聞いてしまったら、お前は傷つくだろう。
ならいっそ、諦めさせてしまった方がいいんだ」
「………」
「普通の魔術が使えればいいじゃないか、フリーダ。何が不満なんだ?
それに転移の魔術の危険さは、母さんの話を聞いてよく憶えているだろう」
「憶えてる。たくさんの人の目の前で、母さんはばらばらの肉片になったんだ。―――見ていたよ」
その時、フリーダの口元に乾いた笑みが浮かんだのを、アニィ達は見た。
何か言おうとしていたケイジェルの口元が引きつった。
「2人でボクの研究ノートを丸写ししたんだよね。しかも実験段階ですらなかった頃のを。
学者の筈の母さんも、魔法の天才の筈の父さんも、そんな事すらわからずに」




