第九十一話
奮い起そうとした勇気は、悲しいことに殆ど折れてしまったようだ。
アニィ達に伝えようとしたことさえ、彼女は自分の胸の内に閉じ込めてしまった。
「…仕事、行ってきますね」
「ばうぅぅ…」
「フリーダさん…!」
呼び止めるアニィの声も聞かず、フリーダとクラウは頼りない足取りで司書室に向かった。
小さく硬く縮こまった背中に、かける言葉を失い、アニィは悄然と佇んでそれを見送った。
プリス達も沈痛な面持ちを見せる。
何故こうまでフリーダの心が踏みにじられなければならないのかと、パルとパッフは怒りすら見せていた。
「…何あれ。あれが親の言葉!?」
「クルルっ!」
怒りもあらわにまなじりを吊り上げるパッフ。
対して、向かいに座るヒナとクロガネは、冷静に分析していた。
「…愛情は、無いわけではないんだ、多分」
「ゴウゥ…」
「どういうこと? あれで!?」
「愛情はある。だが、あの声は…
フリーダ殿に対して、あまりに理解が無い…」
周辺の気配に気配に鋭敏なヒナは、人の声のトーンからある程度内心を見抜くこともできる。
そしてヒナは冷静ながら、声には確かな怒りが籠っている。
分析こそ冷静だが、内心はパルと同じ、怒りを抱いているのだ。
パルもそれに気づき、食い下がるのはやめた。
「…戻ろう。フリーダさんが来るまで待とう」
アニィが言う。やむなく全員が客室に戻り、それぞれの時間を過ごすこととした。
アニィはプリスと共に『創世と歴史』を読む。
パルとパッフ、ヒナとクロガネはバルコニーに出て、短剣と刀で軽い組手を行っていた。
組手の合間に、ヒナは上空を見上げている。
ヒナは、重力異常を起こした天体とは別に、マウハイランドで感じた巨大な魔力もまた感知していた。
これまでの所、とくにその魔力に動きは無かった。いつ襲い掛かってきてもおかしくないにも関わらず。
何かを狙いすましているのか。
アニィ達もヒナが感知していることは理解していたが、それでも動きが無いのを不審に思い、警戒は解かずにいた。
「ヒナ。その雨の奴、近くにいるの?」
「うむ…上空だからだろうな。山脈の時より、殺気を強く感じる」
パルとパッフも不安を感じていた。アニィとプリスも、本を読みつつ時折空を見る。
パルは一旦短剣を鞘に納め、室内にいるアニィに声をかけた。
「…ねえアニィ、何か心配だよ。いつ来てもおかしくないのに、今になっても来ないなんて…
フリーダの所に行かない? すぐ連れて、避難できるようにさ」
「うん…」
ぱたりと本を閉じ、アニィは立ち上がった。
「そうだね…フリーダさん達にも知らせに行こう」
《いつでも出られるように、全員武器を持っていきましょう》
プリスに言われ、それぞれの武器とマント等を身に着けると、アニィ達は司書室に向かうべく、客室を出た。
その瞬間、図書館全体がわずかに日陰になった。同時に、全員が邪星獣特有の気配を感じる。
邪悪な視線、悪意、敵意、殺意に射貫かれ、アニィ達は寒気すら感じた。
ついに来たかと、アニィ達は相棒のドラゴンの背に乗り、司書室へと急ごうとした。
図書館全体が翳るほどの巨大な編隊を組んでいる…凄まじい数で襲い掛かってきたのだろうと、予測する。
だがそれは全くの外れであった。
轟音と共に図書館が揺れる。プリス達ドラゴンでも横転してしまうほどの、強烈な震動だった。
《うおっ!? 何ですか、何か激突でもしたんですか!?》
大部隊がぶつかって来たかと、起き上がって全員が警戒し、窓から屋外を見る。
浮遊島を魔力防壁ごと揺るがす大部隊となれば、さぞ凄まじい数で組まれているだろう…
だが何もいない。代わりに、廊下に影が差した。思わず、アニィ達は天窓を見上げた。
そこにいたのは、あまりにも巨大な邪星獣であった。
姿形自体はいつも通り、扁平な頭部に3対6個の眼球、口の乱杭歯、ドラゴンに似た体形。
だが、サイズが尋常ではなかった。
頭部の幅だけで9ドラゼン(135メートル)、全長は目測で80ドラゼン(約1.2キロメートル)もある。
そんな巨大な邪星獣が、魔力防壁にしがみつき、天窓から図書館の中を覗き込んでいるのだ。
さすがのプリスも目を見開いた。目の見えぬヒナにも、巨大な気配はわかるらしく、呆然としていた。
「な……に、あれ…」
呆然と口にするパル。その声が聞こえたのかどうか、邪星獣は答えた。
明確な言語で。しかもヴァン=グァドで遭遇したガ=ヴェイジより、遥かに流暢であった。
『―――オレノ名ハ! "ゾ=ディーゴン"!!
キサマラ、皆殺シダァアアア!!』
「…こいつだ。こいつがマウハイランドで、雨を降らせた奴だ!」
ヒナの言葉で全員が納得した。巨大な邪星獣ゾ=ディーゴンは、体格に比例して魔力量も巨大だ。
異常気象を起こし、山脈全体に豪雨を降らせる魔力を、彼は確実に持っている。
そしてその魔力で何を起こしているか、アニィ達はついにここで目撃した。
ゾ=ディーゴンが右の前足に魔力を集め、拳を振りかぶった。
握られた巨大な拳の周囲に、突然氷の破片が生まれた。
『ヌハァアアアア!!』
分厚く強固な氷を纏った拳で、ゾ=ディーゴンは魔力防壁を殴りつけた。
再び図書館全体が揺れる。上空の魔力防壁が変形し、へこみ、ゆがむのが見えた。
ゾ=ディーゴンの魔術は、極低温を操るものだ。
マウハイランドでは、魔術の応用で冷たい空気を上空に集めて雲を作り、豪雨を降らせたというわけである。
天候そのものを操る魔術ではないが、低温かつ超広範囲の豪雨は、充分な脅威であった。
そしてこちらでは、巨大で分厚い氷の塊を武器として、物理的に魔力防壁を破ろうとしている。
1撃目こそ防がれたが、桁外れの腕力はいずれ防壁を破壊するだろう。
「フリーダ達を避難させよう!」
《私達の荷物はどうするんです?》
「持っていく!」
パルの言葉に、アニィ達は客室に駆け込み、荷物を入れたバッグを抱えた。
旅に必要な物ばかりだが、幸いあまり大きな荷物は無い。
アニィの手紙用文房具、火起こし棒や鉄板などの調理用具、大小の水筒くらいだ。
と、その時。客室の前を駆け抜ける足音が聞こえた。
「フリーダさん…!?」
客室から顔を出したアニィが見たのは、全力で走り、自室に飛び込むフリーダとクラウの後ろ姿だった。
時間は少しさかのぼる。フリーダは司書室で父の報告を聞いていた。
調査した自分の名前が一切出ず、まるでケイジェルの成果であるかのような説明に、言いようのないくやしさを覚える。
報告を終え、通話用の鉱石板の映像を切り、ケイジェルは資料をクリップでまとめて棚にしまった。
うつむいて佇むフリーダの姿にそこでやっと気づき、立ち上がって声をかけた。
「フリーダ、さっきからどうしたんだ。嫌なことでもあったのか?」
問いかけるが、フリーダからの答えは無かった。ただ首を振るのみ。
ケイジェルはため息をつき、再び机の方を向き、作業を始めようとした。
まさにその時、ゾ=ディーゴンが魔力防壁に激突、顔を覗かせたのである。
凄まじい震動にフリーダは転倒。起き上がるとクラウにしがみつき、天窓を見上げた。
流暢な声で自ら名乗る巨大な邪星獣に、ケイジェルは椅子から転げ落ち、おののいた。
「な、ななんな何だあれは…!?」
震える父に対し、学園での討伐演習で既に邪星獣を知っていたフリーダとクラウは、驚愕こそしていたが恐怖してはいなかった。
「……邪星獣…! あんなに大きいの、初めて見た!!」
「ばうばうばうっ!!」
ゾ=ディーゴンが、氷で覆った拳を防壁にたたきつける。
真上から降ってくる巨大な質量に、フリーダたちは思わず目を閉じ顔を逸らす。
防壁に阻まれたことで天窓に被害は無かったが、それでも防壁がゆがむ破壊力に、フリーダは戦慄した。
図書館が破壊される―――あの腕力では時間の問題だと、フリーダは悟った。
そうなれば、ここに住むことはできなくなる。選択肢は二つ。地上に逃げるか、それとも。
「大丈夫だ、防壁があるからな、しばらくはもつ。その間に…フリーダ?」
必死に娘を宥めようとする父。だがフリーダはその話を聞かず、胸元で拳を握りしめ、唇を噛みしめている。
固く閉ざされた目、粗い呼吸…恐怖に硬直したかとケイジェルは思ったが、それは誤りであった。
フリーダは目をカッと見開き、クラウを見つめた。
「…今しか…もう、今しかないっ…! ―――クラウ!!」
「ばう!!」
クラウを伴い、フリーダは司書室を飛びだし、自室に向かって走り出した。
一瞬呆気にとられ、ケイジェルは何が起こったか理解すると、自身も立ち上がって追いかける。
「フリーダ、どこに行くんだ! フリーダ!!」
背後から迫る父の声を無視し、フリーダとクラウは部屋に飛び込んだ。
アニィの声が聞こえた気がしたが、こちらも無視して棚や机の引き出しをあさる。
クラウと共に、棚に置かれたランタン、何冊かの書物、通話用の鉱石板をバッグに放り込んだ。
次いで引き出しから取り出した『厄介事引受人協会』会員証を首に掛ける。
更にいくつものペンダントをポケットに突っ込み、指輪を左手に3個、右手に1個嵌める。
左手の指輪にはそれぞれ赤・緑・黄、右手の方には一際大きく透明な鉱石が留められていた。
最後に分厚いマントを羽織る。輝ける鋼のプロテクターと顕現石の飾りボタンが光った。
「…よし……! もう、今しか…今しかない、クラウ!」
「ばうっ!」
決意に満ちた瞳で、フリーダは先刻と同じ言葉をつぶやき、クラウと見つめ合う。
その直後、客室との間の通用口から、アニィ達がフリーダの部屋になだれ込んできた。
「フリーダさん!」
《フリーダ、クラウ、怪我はありませんか!?》
既にアニィ達は脱出の準備を整えている。やはり邪星獣との戦闘に慣れているだけあり、準備が早い。
そしてアニィは、フリーダの格好を見て、一瞬呆気にとられた。
脱出の準備―――に、見えなくも無い。だがそんな時に指輪など嵌めるものだろうか。
指輪に埋め込まれた鉱石は、顕現石であった。
魔法を使うフリーダが、顕現石の指輪を、このタイミングで装備する…
まさか、とアニィ達が思った瞬間、フリーダが意を決して口を開く。
「皆さん、ボクを…ボクを、一緒に―――」
「フリーダ!」
だが、そこにケイジェルが飛び込んできて、フリーダの手首を握った。
丁度その瞬間、ゾ=ディーゴンが再び防壁を殴りつけた。
再びの轟音と震動。天井から埃が降り注ぎ、棚が揺れてフリーダの制作した道具が床に散らばった。
天窓から上空を見上げたアニィは、空間に広がる白いヒビに気付いた。
(―――防壁が、破られる…!)
アニィが、そしてフリーダが思った通り、防壁どころか図書館が破壊されるのも、時間の問題であった。
「何をしているんだフリーダ、逃げるぞ! お前のドラゴンに乗って、地上に逃げるんだ。
アニィ君達、あの怪物は任せていいかね!?」
「その、それは、構いませんけど…」
「済まない…では、頼む! 行くぞ、フリーダ!」
ケイジェルはフリーダの手を引き、この図書館から脱出しようとする。
数歩だけ引きずられるフリーダ。だが、その瞬間にアニィ達と目が合い、クラウの声が聞こえた。
「ばう! ばうばうっ!」
(クラウ―――アニィさん―――…… ボクに、勇気を…!)
「…………………嫌だっ…」
昨夜の会話を思い出す。勇気を振り絞って、父とアニィ達に意思を伝えると、決意した筈だ。
フリーダは立ち止まり、父の手を払った。
「いやだっ!!」
意外なことに、ケイジェルの手は簡単に振りほどくことができた。
怪力というほどではないにせよ、成人男性以上の腕力が、突然発揮できたのである。
「ばうばう!」
クラウを中心に、フリーダをかばうように、アニィ達が集まった。
状況を理解できないケイジェルは、苛立ちながらも困惑していた。
「フリーダ…!?」
「ボク…父さん、ボクは…
ボクはっ! アニィさん達と一緒に、闘う! 邪星皇を、やっつけにいく!!」
フリーダは、ついに決意を父に告げた。




