第八十六話
プリスの回答の後、長い沈黙が訪れた。アニィは呆然と、その意味を反芻した。
だが、衝撃の大きさに理解が追い付かない。
聞き慣れていながら聞き慣れない、そんな奇妙な認識で知っていた言葉だった。
愛している。
生まれてから何度も聞き、しかし自分には向けられることが無かった言葉。
姉がゲイスに囁いていたのを、何度も聞いている。
自身の家族…父と母が、はたまた両親と姉が。村で逢瀬を重ねる男女が。
時には親子、特に母から子へと伝えられた言葉だった。
いずれも、アニィ以外の人物が交わす言葉だった。
「愛……」
自ら呟き、しっかりと反芻した。だが―――受け止めきれない。許容が追い付かない。
余りにも幸福なその言葉を、ずっと無関係でいたその言葉を、どう受け止めればいいのか。
アニィには判らなかった。
「………どっ…どう、答えれば、いい、のかな…わからない…
わたし、パルとチャムには、友達だって言ってもらってたけど…」
《まあ、想像がつきます。私も自分の感情が理解できてませんし。
答えは気長に待ちますよ。ただ、必ず答えを出してください》
「うん…ごめんね」
《いいえ。ところで》
プリスはドアの方を見た。そこには誰もいない…ように見えて、窓から差す陽光で影が出来ていた。
《フリーダ。もう話は済みましたから、入ってきていいですよ》
「は、はいぃ~…」
ぎこちない動作で、顔を真っ赤にしたフリーダ、そしてばつの悪そうな顔のクラウが入ってきた。
パル達を昇降部屋に案内した後、アニィ達の会話を邪魔せぬよう、2人は入り口で待っていたようだ。
そしてバッチリとプリスの告白を聞いてしまったらしい。
無論、愛の告白という物に縁の無かったアニィ達には、フリーダの赤面の理由は今一つわからない。
「フリーダさん、具合良くないの…?」
「いえ、そんなことは全く! むしろ元気モフモフです! 人類の尊厳!!」
「ばうばう!」
《何ですかそりゃ。まあ良いです、図書室に行きましょう》
プリスが言うと、フリーダとクラウが先頭に立ち、アニィとプリスを図書室に連れていった。
居住スペースから降りて廊下を歩き、フリーダがドア横の魔力押印プレートに触れ、巨大な扉を開けて入室する。
ドラゴンが歩くに充分な広さ、そして天井まで届く巨大な書架が、いくつも並んでいた。呆然と見上げるアニィ。
プリスはと言えば、さすがに巨大なこの浮遊島で驚いた後だからか、軽く見上げるのみにとどまっていた。
「それで、プリスさんはどういう本をお探しですか?」
壁にかかった室内案内図を指し、フリーダが尋ねる。
案内図には書架の位置と番号、そして納められた書籍のジャンルが書かれていた。
フリーダが差したのは、人類が読むには巨大な…ドラゴン用の案内図だった。
何しろドラゴンは人類の約10倍の大きさなので、人類用の案内図では、ドラゴンが読むには小さすぎるのだ。
いかに人類の言語を理解していたとて、そもそもが読めなければ図の意味をなさない。
逆に言えば、この図書館には高い知能を持つドラゴンも訪れる、というわけだ。
勿論クラウも文字を読める。
《ありました。歴史、文明のコーナーです》
「ふむふむ…この棚…ですね。ついてきてください。
…見たことの無い棚だなあ……」
並ぶ書架の間を、フリーダとクラウは器用に歩いていく。
一方、アニィとプリスはぶつかるまいと注意しながら、ゆっくり歩いてついていった。
書架と書架の間は、ドラゴンでも充分に通れる幅がある。
だが、プリスはそもそもそんな状況を歩いたことが無い。
過剰に注意深くなるのも、むべなるかなと言ったところである。
目的の棚に辿り着くと、今度はアニィがプリスの背に乗って、必要な書籍を探す。
残念ながら、書籍は人間用のサイズしか無い。ドラゴンが手に取るには小さすぎるのである。
「『創世と歴史』でいいの?」
《ええ。フリーダが言っていた魔術の由来、それは恐らくこの間の説明の続きと関係しています。
ドラゴンは星から生まれるという話。憶えてます?》
「うん。シーベイに行く途中で話してくれたことだね…あった、これかな」
背表紙のタイトル『創世と歴史』を発見し、アニィは書架から取り出した。
プリスの背から降りて、フリーダに書籍のタイトルと内容を確認する。
受付カウンターの引き出しから蔵書のリストを取り出し、タイトルを見比べ、リストに貸出しのチェックを入れる。
確認を終えると、アニィは何ページかめくって中身を軽く読む。
「プリス、これに何が書いてあるの?」
《あくまで推測ですが、我々の住む世界の起源が》
「起源ですか…ボクも初めて見る本です。気になりますね」
「ばうばう」
アニィ達はフリーダの部屋に戻るため、図書室を出ようとする。
その時、フリーダの父ケイジェルの声が聞こえた。何がしかの資料でも探しに来たのだろうか。
「フリーダ。どうした、貸出か?」
父の声に立ち止まるフリーダ。その表情がわずかに曇ったのを、アニィは見た。
その後すぐ、先刻と変わらない笑顔で答える。
ちらちらと下がる視線は、胸に抱いた本のタイトルが見えていないか気にしているようだった。
「…うん。アニィさん達が、見たい本があるって」
「そうか。所でお前、皆さんに迷惑はかけていないだろうね?」
「……―――大丈夫だよ」
フリーダの声に混ざったわずかな苛立ちを、ケイジェルは気づいたのか否か受け流した。
「それならいいのだがな。アニィ君、もしうちの娘に何かされたら、遠慮なく言いなさい」
「どういうことですか? フリーダさんが、何かしたんですか…?」
「まあ、大したことではないのだがね…妙な魔術でも使って、皆さんを驚かせでもしてはいないかと」
《妙な魔術?》
「うむ。この子は魔法学園で様々な魔術を学んでね、すぐ自慢したがるから」
アニィとプリスは、唇を硬く引き結ぶフリーダの表情を見た。
奇妙な空気だった。父であるケイジェルは、苦笑しつつもにこやかに話している。
『うちの子、ちょっとダメだけどそこが可愛いんですよ』―――そう言いたそうだ。
一見すると、来客の前での親子の会話としては、ごく普通の光景だ。
だが、ケイジェルは冗談でも娘のことを見下すことを言い、フリーダは父の言葉を冗談と受け流さずにいる。
そしてその背後では、クラウがケイジェルのことを睨んでいた。ケイジェルはこちらも無視している。
親子の会話でありながら、不自然に刺々しい…否、悪意、憎悪…とかく、暗く攻撃的な何かが両者の間にあった。
妙に思いつつ、アニィはうつむいたフリーダに尋ねる。
「様々? フリーダさん、どんな魔術を使えるの?」
「あー……まあ… そうですね。火、風、雷の3種類です」
「え、すごい! それって、普通は出来ない事なんでしょう!?」
答えを聞いた途端、アニィは驚きに目を丸くした。
本来、魔術は1人につき1種類しか使えない。それを、フリーダは3種も使えるという。
つまり不可能を可能にしたのである。学園長には天才と呼ばれていたが、才覚に奢らぬ努力家でもあるのだ。
しかも、先刻アニィに施した魔力制御の魔法を、父を大きく上回るレベルで使える。
天才にして稀代の努力家というわけだ。アニィには、フリーダが天上の存在にも思えた。
だが、フリーダの笑みはぎこちなかった。自慢にもならぬことと、拗ねているのだろうか。
そこへ追い打ちをかけるように、ケイジェルが付け足す。
「まだまだ、やっと一人前という所だよ。数ネブリス前まで、普通の魔術すら使えなかったのだから。
使えるようになったのは、ちょうどそこの、ドラゴンに出会った時期かな」
《…ほう》
「ばうぅっ……」
ケイジェルは、クラウの事を名前では呼ばなかった。存在を認めないとでも言いたげに。
フリーダが眉をひそめたのを無視して、ケイジェルは話を続ける。
「それと、転移の魔術だったな。フリーダ」
「転移?」
聞いたことの無い魔術だ。何の魔術かと、アニィはフリーダに尋ねる。
しかし、フリーダは硬く口を閉ざした。答える気は無いようだ。嫌な思い出でもあるのか。
代わって答えたのは、やはりケイジェルだった。
「物体を一度この世界から消滅させ、一瞬で別の場所に移動させる…という魔術だよ」
消滅と瞬間移動。状況を瞬時に想像できず、アニィは首をかしげる。
ケイジェルが身振りを交えたことで、ある程度イメージを掴むと、途端にその凄さが判った。
距離も遮蔽物の存在も関係なく、物体を全く異なる地点に移動できる…ということだ。
それが学園での努力と研究の末に使えるようになったのなら、魔法というものに革命を起こしうる出来事だ。
「それ、すごい事じゃないですか…!?」
「いやいや、聞けば確かにすごいことだがね。危険すぎるんだ」
《……はあ、なるほど》
ケイジェルは、アニィの驚きに首を横に振って、否と答える。
詳細を言われる前に、プリスはその危険に気づいた。
《転移した先に、他の物質があってはならない…と》
「ご明察。……妻は、それが原因で亡くなってね。
安全に使えるように、私達夫婦が改良したのだが…やはり常に危険が」
「父さん!」
説明を始めようとするケイジェル。それを遮ったのは、フリーダであった。
「父さん―――ボクたち、部屋に戻るね」
「お、すまんすまん。話が長引いてしまったな。私も仕事に戻らねば。
じゃあフリーダ、アニィ君達に迷惑をかけるなよ」
それだけ言い、ケイジェルは書架から何冊かの本を取り出すと、両手で抱えて図書室を後にした。
残されたアニィ達は、フリーダの顔を覗き込む…暗く落ち込んだ顔を。
原因が先刻の会話であることは明らかだ。
フリーダが傷ついたことは想像に難くない。だが、やはり父の方に悪意は無いらしい。
アニィが声をかけようとすると、フリーダはぎこちなく微笑んで顔を上げた。
「…戻って、パルさん達を待ちましょう」
そう言い、落ち込んだ顔を見られまいと背中を向け、フリーダは図書室から出ていく。
追いかけるクラウ、それについていくアニィとプリス。
一度顔を見合わせると、2人そろってフリーダの背中を見つめた。
抱えた本を強く抱きしめた彼女の背中は、硬く小さく縮こまっていた。
―――何か、この親子の間には何かがある。親子の間にあってはならないものが。
アニィと家族の間にあるものに似て、少し違う何かがある。
(フリーダさん…)
クラウがフリーダの隣に寄り添う。フリーダは軽くクラウの肩に触れ、力なく微笑んだ。
「大丈夫だよ、クラウ。ボクは平気」
「ばうぅ…」
クラウの表情も悲しげだ。自身が無視された事より、相棒が父に罵倒されたことを悲しんでいる。
自室に戻って本をテーブルに置くと、フリーダは奥の簡易キッチンで湯を沸かし始めた。
ソファに座って居住まいを正し、アニィはフリーダの背中を見つめる。




