第八十五話
泣き止んだアニィに、施術に入ることを確認し、客室に連れて行く。
仲間達が注目する中、アニィはマントを外してブーツを脱ぎ、ベッドに横たわった。
「では、始めます。痛みなどは無い筈ですけど、嫌な感じがしたら、すぐに言ってくださいね」
「ん……」
うなずいたところで、フリーダは両手をアニィの上にかざした。
アニィを囲み、青く輝く魔法陣が出現した。
直径はアニィの身長より少し大きい程度。父ケイジェルのそれより遥かに大きい。
そして、アニィは自身の内側で、魔力の動きが沈静化するのを確かに感じた。
奇妙な話だが、濁流が広い川へと変じるような感覚が、確かに体の中に生まれたのである。
「…フリーダさん、この感じ」
「ね。本来ならそうならなくてはいけなかったんです。
ボクは、これを『魔力整流』って呼んでます」
笑ってうなずくフリーダ。パル達は興味深げに覗き込み、目の見えぬヒナは魔力の動きに関心を示している。
アニィは目を閉じ、フリーダの魔法に身をゆだねる。
これはアニィの魔力をフリーダの魔力で直接包み込む魔法である。
魔力で防壁を作る魔法を加工し、他者の魔力を密閉する法則を与えたものだ。
リラックスした状態のアニィの魔力をこれで密封し、矯正するわけである。
父ケイジェルも同じことをしようとしたのだが、余りにアニィの魔力が巨大で、全く効果を及ぼさなかったのだ。
《これを繰り返せば、アニィの精神疾患発症は避けられるんですか?》
プリスが問う。それは質問と言うより、希望的観測に縋るような言い方だ。
だがそれに対し、フリーダは無情にも首を横に振った。
「根治は不可能です」
《……どういうことです!?》
職務放棄する気かと噛みつかんばかりのプリスに対し、フリーダは困ったように言う。
「正確に言うと、ボクの魔法だけでは不可能っていうことです。
アニィさん自身が立ち直らないと。あくまでボクのは、それまでの応急処置です」
「そっか…アニィが村での事を完璧に振り切らない限り、いつでも暴走し得るわけか」
「はい。それにアニィさんの魔力は強大です。
処置を繰り返しても、破られてしまう可能性があります」
パルのつぶやきにフリーダがそう答えたところで、アニィを囲んでいた魔法陣が消えた。
自身の体に触れ、魔力の流れが『整った』のを、アニィは感じた。
「具合、どうですか?」
「……何だか、頭がすっきりした感じ…」
「それは良かった! これを1ディブリスに1度、あと何回かかければ、しばらく落ち着くはずです」
起き上がったアニィに、フリーダは先刻調合した丸薬を1粒手渡した。
よく似た匂いの丸薬を作ったヒナに一度手渡すと、ヒナは自分が作った丸薬を一粒取り出し、フリーダの物と匂いを比べる。
「あとは、1ディブリスで1粒…朝かお昼のごはんの後に、これを飲んでください。メディスリ草で作った丸薬です」
「この薬…これならこの間、マウハイランドで作ったな。
だが栽培でもしていない限り、メディスリ草は簡単に手に入るものでは無いし…」
ヒナが、言うと、フリーダは机の上から紙袋を一つ手に取り、ヒナに手渡した。
「一袋あるので、お譲りします。ちょっと父さんが買いすぎちゃって」
協会に置いてある物と同型の押印台で、小さな紙に材料表を印字し、こちらはパルに手渡す。
特に調合は難しくなさそうで、説明を受ければヒナ以外でも作れそうだった。
「助かる。材料は多い方がいいしな」
《まあそれは有難いんですが…我々は、一応旅の途中です。いずれ発たなければならない。
そうしたら今しがたの魔法、どうするんです?》
「それは…」
旅に連れて行くのでもない限り、定期的にアニィに先刻の魔法を施すのは不可能だ。
プリスの問に、フリーダは答えあぐね、しばし考え込む仕草を見せた。
どうやら考えていなかったらしいと、とくにプリスは呆れた。
だが、ヒナだけはどこか違う反応を見せた。フリーダの言葉に、明らかに何かを考え込む様子だ。
フリーダはそれに気づいたのかどうか、苦笑して答えた。
「すみません、何も考えてませんでした…てへ」
《ヤレヤレ。まあいいです、今は中断してここにいるわけですからね。
アニィが完治するまではいますから、今の質問は無視してください》
そう言いつつ、プリスはヒナの方を見る。視線を感じ、ヒナは小さくうなずいた。
プリスもまた、フリーダの声のトーンから何かを感じたらしい。ヒナへの確認であった。
プリスはそこで話を変える。
《―――ところで、図書室の本を借りても?》
「いいですよ。ただ、ボクか父さんの同伴が必要ですけど…」
プリスは数ブリスの間思案する。
フリーダの顔を覗き込み、しばし目を合わせて観察。その後すぐに顔を離し、司書室の方向に目を向ける。
その後数回、フリーダの顔と司書室の方向、交互に目を向けて思案した。
フリーダとケイジェルのどちらを同伴させるか、考えているのである。
彼女が一行のメンバーに説明しようとしていることに対し、どちらに聴かせるのが適切か…
プリスはまだ、フリーダのことを信頼しきったわけではない。
とはいえ、診察時のアニィに対する対応の真摯さ、そしてアニィ達へのあこがれという点から、すでに結論は出ていた。
《フリーダ、あなたが同伴しなさい。あなたの方が信用できます》
「……信用」
プリスが言った途端、フリーダの頬が紅潮した。
憧れの人に信頼していると言われたのなら、そうなってしまうのも仕方ない。
《アニィも来なさい。私の体格じゃ、本を取るだけで棚を倒しかねませんからね。
パル達は荷物をお願いします。フリーダ、昇降部屋に案内を。図書室はその後で》
「…はいっ! じゃあパルさん達、ついてきてください!」
「うん。―――アニィ、プリス、行ってくるね」
「しっかり休んでいろよ、アニィ殿」
フリーダとクラウに連れられたパル達を見送り、残ったアニィはプリスによりかかった。
申し訳なさそうな、それでいてどこか憑き物が落ちたような顔だ。
プリスは爪の先端でアニィの髪を優しく撫でる。
心地よさに身を任せ、アニィは目を閉じた。
「…つらいって思ったら、つらいって、ちゃんと言っていいんだね」
《ええ、むやみに我慢しないでください…心は何が原因でどれだけ傷ついているか、わかりにくいんです。
心の痛みは自覚したうちに何とかしないと。消えない憎悪は、あらぬ方向に向いてしまいます》
アニィは小さくうなずく。
学園で向けられた悪意は、邪星獣のそれと比べ、極めて小さなものだった。
それに対し、アニィ自身は困惑しただけだった筈だが、一瞬にして怒りが爆発、殺意にまで達した。
しかもその直後、それが無かったかの如く消失し、恐怖さえしていた。
怒りの感情だけが、心から乖離したかのように。
思い返せば、初めてプリスに会った日から、闘うことにただの一度も躊躇したことは無かった。
あの時、既に怒りの感情の暴走は始まっていたのだろう。
初めてプリスと会った時、既に心が自覚なく壊れかけていた…
それほど追い詰められているのを、アニィはここで初めて自覚した。
「プリスが気づいてくれなかったら、自分でも判らなかったと思う…
ありがとうプリス、ちゃんと見ててくれて」
《どういたしまして。…これからもちゃんと見ておきますからね》
ここ最近よく聞く、プリスの優しい声であった。
愛おし気に撫でる爪と穏やかな声に、アニィは自分の胸の内が温まるのを感じる。
仲間達、特にプリスは自分を見ていてくれる。願いを聞き入れ、共にいてくれる。その安心感だ。
虐待が常態化した自分が受け入れるには、あまりに大きく温かな、安らぎ。
自分に向けられる、絶対の肯定。
同時に、先日の疑問が再び頭をもたげた。
プリスがあまりに優しすぎる。それが本当にプリスの意思なのか、アニィがドラゴンラヴァーだからなのか。
マウハイランド山間の集落では確かな答えを聞けなかったが、今なら聞けるのではないか…
根拠のない推測が、アニィの決意を推し進める。
自分のことを見てくれていると言った今なら、きっとその答えが聞ける。
内心で自らに言い聞かせ、アニィはプリスを見上げた。
「プリス……プリス、は…」
《ん?》
「…この前も訊いたけど…プリス、最近優しすぎる…怖いくらい。
それは、本当にプリスの意思なの…?
わたしがプリスの『ドラゴンラヴァー』だから、優しくしてやってるとか、ではないの…?」
プリスとの出会いから、時間にして10ディブリスも経過していない。
そんな短期間でこうまで優しくするのは、何か理由や考えあってのことではないか…という、僅かな疑い。
ましてアニィは、自身が優しくされるのにふさわしい人物だと思っていない。
どうしてもプリスの行いに、理解できない部分があった。
尋ねた直後、アニィは再びうつむいてしまった。
プリスを不快にさせてしまったかと、後悔するアニィ。
だがプリスは笑った。嘲笑でもなく失笑でもなく、穏やかにほほ笑んだ。
《そうですね、あなたが気にするのも当然です。きちんと説明が必要でしょう》
「…教えてくれる……?」
《ええ、答えが判りましたから。なかなか実感できないんですけどね。
―――私はね、アニィ》
《私は、あなたを愛している―――らしいんです》




