第八十二話
司書室の前に辿り着くと、フリーダは打って変わってシャキッと背を伸ばし、ドアをノックした。
中から落ち着いた男性の声が答えた。フリーダの父親であろう。
アニィ達を連れてきたことを報告して、フリーダが手招く。
フリーダに従って、アニィ達は司書室のドアをくぐった。
やや白髪の多い、しかし穏やかな眼差しの男性が、椅子に座って待っていた。
「こんにちは。私が『天空図書館』管理司書、ケイジェル・ハイライズです」
差し出された手をアニィは握った。これまで出会った大人の男性達と比べ、だいぶ穏やかな物腰だ。
目元はにこやかで、掌はやや硬く、少し冷たかった。
「アニィ・リムです…よろしく、お願いします」
診察用の背もたれの無い椅子にアニィは座った。パルがアニィのマントを預かる。
ケイジェルは問診票とペンを手に取り、質問をし始めた。
「魔力の影響で感情の制御が困難…と、そんな症状だったね」
「はい」
「何か、原因らしい原因は思い出せるかな?」
「…………」
胸の内に渦巻く無軌道な怒りと憎悪は、村にいた頃に植え付けられたものだ。
人生の大半を占めるそれを、今更になって制御するなど、とても無理というものだ。
問題は、それが徐々に強くなってきていることだ。
戦闘によって魔力が増幅でもしているのか、それとも本性が現れたとでもいうのか。
ちょっとした悪意に対してもすぐ殺意を抱き、一度怒り出すと感情が押さえられなくなっている…
沸点が低くなった、あるいは癇癪を起しやすくなったのではない。
アニィ自身が戸惑いや困惑を憶えている中でも、怒りの感情だけが勝手に湧き上がるのだ。
アニィは首を横に振り、判らない旨を答えた。
ケイジェルはアニィの答えを問診票に書く。
「ふむ…では、原因は後で探るしかないか。では、怒りが暴走しているときの感覚は?
頭が痛むとか、目の前がチカチカするとか?」
「それは…ええと…視界と頭の中が、真っ赤になる感じ…です」
ケイジェルが問診票に書く間も、アニィはたどたどしく説明を続けた。
ケイジェルの横に立ったフリーダも、心配そうにアニィを見ていた。
「頭の中で…怒りとか、憎しみとか、殺意とか、そう言うのが全部ぐちゃぐちゃに混ざって…
爆発というか、煮えたぎってるみたいで、頭の中が熱くなるんです」
《それと、目から魔力の光が漏れてるんです。小さな稲妻のように》
プリスがその時のアニィの様子を説明する。
「なるほど。けど、君自身はそこまで怒っているわけではないと」
「はい…その、説明が難しいですけど。怒っても、そこまで怒る気は無いっていうか…」
その後もいくつか質問し、アニィからの回答を問診票に書き終え、ケイジェルは眉をひそめて唸った。
その深刻な表情から、相当重い症状ではないかとアニィは不安になったが、帰ってきた答えは全く逆であった。
「聞いた限りだと、むしろ典型的な魔力コントロール不全だね。
稀にだが、魔力を自覚した幼少期に発症することがある。魔力を押さえられず、苛立ってしまうんだ」
「よ……」
愕然として、アニィは目を見開いた。ケイジェルはそれに気づかず、説明を続ける。
「ただ君の場合、かなり大規模な魔術が使えるというから、魔力量が規格外なのだろうね。
目から魔力の光が漏れるのもその証左だ。体内にあるはずの魔力が、魔術以外で外部に出ている…」
ケイジェルは問診票を机に置くと、掌をアニィの額にかざした。
アニィの額とケイジェルの掌の間に、円形に並んだ文字列が浮かぶ。
園長室前でゴリアテが見せたものに似ていた。
魔法を行使する者は、これを『魔法陣』と呼んでいる。
魔術に与える法則を文字列に変換し、円陣型に配列した紋章である。
これを通過させることで、人間が本来行使する魔術に、様々な特殊効果を付与することができる。
魔紙に書いた魔法陣をまとめた『魔法書』という書籍もあるが、熟達した者は魔力の光で空間にこれを描く。
ケイジェルが用いているのは、アニィの魔力量を計測する魔法だ。
魔力を光線状にしてしてアニィの額から進入させ、体内にある魔力に触れて最大容量を計る魔法だ。
と言っても具体的な数値に表すものでは無く、あくまで自身の魔力との比較となる。
要するに『自分の魔力と比べてどれだけ大きいか』、つまり相対的な量の違いの計測だ。
「これほどの魔力とは…その年齢までコントロールできなかったとなると、苦労したのではないかね?」
そう言われ、アニィはぐっと唇を噛みしめた。
正直に答えるべきか迷う。正直に答えれば、村にいた頃のように馬鹿にされるのではないか…
ためらうアニィ。しかし健康のことを考え、正直に答えることとした。
「…魔術、使えるようになったの…最近……なんです」
「そ―――………ん、そう、なのか」
彼がどう思ったのか、真意は判らない…だが、その口調には無意識ながら、確かな失笑が混ざっていた。
アニィの傷つきやすい心は、鋭敏にそれを感じ取った。
途端、アニィの周囲に銀色の光がほとばしった。
魔力の光はケイジェルの魔法陣をかき消し、手を弾き飛ばす。
光はさらに周辺に広がり、床を切り裂き、机を割り、書類をまとめて何十枚も引き裂いた。
《アニィ!》
一瞬の事であった。プリスは見逃さず、すぐさま駆け寄って、アニィを背後から抱きしめる。
光のほとばしりは収まり、破壊された室内に煙が上がる。
顔を青白くしたアニィの息は荒く、自身の体を掻き抱いて震えている。額からは大量の汗が流れていた。
恐怖に見開かれた虚ろな目を、背後から首を伸ばしたプリスが覗き込んだ。
「ごめんなさい―――ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…」
《アニィ》
「ごめ―――あ……プリス…」
我を取り戻し、アニィはプリスの目を見つめ返した。
プリスに停められたことで、アニィはどうにか理性を取り戻せた。
アニィが周囲を見回すと、突然のことにパル達もさすがに驚き、壁際に避難していた。
「ごめん…プリス、みんな…また…」
《……司書。失言ですよ、今の》
アニィの謝罪を遮り、プリスはケイジェルを睨みつけた。
ケイジェルは額の汗を拭きつつ、アニィに謝罪する。罪悪感というより、プリスへの畏怖からだろう。
「う、うむ…すまなかった。申し訳ない」
「だいぶ重症ですね…大変だったでしょう、アニィさん」
フリーダがアニィの汗をハンカチで拭いた。
プリスの腕の中で、アニィは深呼吸を何度か繰り返し、やっと冷静になった。
それでも自身の暴力的な感情への恐怖は消えず、震えはまだ収まらない。
一方、破壊された室内を見回しながら、ケイジェルは深いため息を吐く。
「…典型的な症状とは言ったが、これほど重いのは見たことが無い。
治療には時間がかかるな…しばらくここにいてもらった方が良いだろう」
「え……」
アニィはケイジェルの言葉に、半ば愕然とした。
今は邪星皇を斃すための旅の途中だ。
先日の体調不良でスケジュール変更が余儀なくされたため、これ以上寄り道は出来ないと考えている。
だが、アニィ以外はケイジェルの考えに賛同しているようだ。
それこそプリスなど、先日も言っていた通り、アニィの治療のためなら旅を中断することも視野に入れていた。
「フリーダ、部屋を用意してきなさい。あと、薬の用意も頼む」
「うん」
父に言われ、フリーダは司書室を出て、どこかへと駆けていった。
その間、アニィはケイジェルに言われ、診察台に横になった。
横たわったアニィの額の上にケイジェルが手をかざす。
「これから、君の魔力を少しだけ鎮める。
1回での完治はできないから、何回か施す必要がある」
先刻の物と異なる魔法陣が、ケイジェルの手に浮かんだ。
魔法陣からあふれた緑色の光が、アニィの額から全身に伝わる。
外皮から浸透した魔力が、自身の体内で魔力に直接干渉するのをアニィは感じた。
感じた、だが…
「うむ…まずはこれで良いだろう」
ケイジェルはそう言って魔法を中断する。魔力の暴走を鎮静化できたと判断したようだ。
だが、自身の体に触れても、アニィにはすぐにそれと実感できなかった。
とはいえ、事前の説明でも聞かされた通り、複数回の処置が必要になるのだから、当然と言えた。
「今日から2、3ディブリスほど、ここで生活したまえ。
食事は…申し訳ないが、自前で用意してもらえるかな。ここには私とフリーダの分しか用意していないから」
「わかりました…ありがとうございます」
ケイジェルに礼を言うと、アニィは診察台から降りた。
プリス達が近寄り、アニィの目を覗き込んだり、手足に触れたりして無事を確かめる。
ただ、全員がどこか納得できないような顔だ。
「あんまり収まった感じしないなあ…アニィは自分でどう思う?」
パルに尋ねられ、アニィは戸惑いながらも素直に答えた。
「わたしも、自分ではわからないっていうか…実感はない、かも…」
「まだ1回目だからね。何度か施さないと、判りづらいと思うよ」
ケイジェルは笑いながら言う。
医学に関して素人であるアニィ達は、それで納得せざるを得なかった。




