第七十三話
年明けと同時の新章開始につき3が日連続投稿。
ヒマ正月のヒマつぶしにでも読んでもらえれば幸いです。
アニィ達がアグリミノルを出た日の、昼下がりのヘクティ村。
即席の塀で学校と隔たれた精肉工場、その最奥…
道具入れの棚を外に出し、狭いスペースを古びたカーテンで仕切られている。
そこにはアニィの姉であるジャスタ・リムが一人陣取っていた。
年若い女として、プライバシーを侵害されないための最低限の防護だ。
父のオンリ・リムは同じ工場内の物置を拠点にしている。
拠点とはいっても、両脚を断たれた彼は、最早出歩くこともできない。
ブツブツとつぶやきながら、妻アンティラ・リムがたまにきて置いていく食事を食らうだけだ。
愚痴をこぼすのはいつも下の娘…ジャスタにしてみれば名を呼ぶのも忌まわしい、アニィのことだった。
そして現在、ジャスタの専用スペースには、共にゲイスがいた。
工場の横を偶然通りかかった時、ジャスタに話があると呼ばれたのであった。
両者の間にはわずかに距離があり、ゲイスはそれを詰めようとしなかった。
恋人であるはずの彼女に対し、物理的にも、そして精神的にも、ゲイスは距離を取っていた。
邪星獣に襲われた日から、彼はジャスタを避け続けていた。
その理由は単純だった。布でくるまれたジャスタの顔の付近に蠅がたかっている。
彼女の顔面の傷が悪化している…襟元にはこぼれた膿が染みついている。
彼女の顔面は、邪星獣に酸をかけられて以降、ろくに治療を施していない。
治癒の魔術を持つ者達が、体力が必要だからと真っ先に肉を食らい、そして倒れたのだ。
彼らが食べた肉は、既に腐りかけていた。管理があまりにもずさんで、保存の起源を何ディブリスも過ぎていたのだ。
これ以降、精肉工場に集まった村人たちは、棚の肉を食う際は注意して臭いを嗅いでいた。
大きな肉は分け合った。これは一人で保存して腐らせないためで、決して善意で分け合っていたのではない。
ともあれ、ジャスタの顔は皮膚が剥けて鼻や唇が崩れ落ち、ほぼ全面的に化膿していた。
それをさらけ出せるほど、彼女は自身に無頓着ではなかった。
彼女は、村でも一番とすら言われる美しい顔立ちを自慢にしていた。
それがある日、突如破壊されたのだから、ショックは大きい。
そこへ更に、常に見下している妹が、凄まじい魔術で怪物を皆殺しにし、挙句村を放り出して旅に出た。
いつもウジウジしていたアニィがゲイスを吹き飛ばし、一部を除く村人を魔術で痛めつけた末、逃げ出した…
父も母も、そして自身も、そのことを常にぐちぐちとこぼしている。
そんなことをしても何にもならないと、気づきもせずに。
「……ねえ、ゲイス」
そしてジャスタは今、向かいに座っているゲイスをねめつけていた。
喉が焼け、唇も崩れ落ちたことで、名を呼ぶ声はしわがれ、発音はふがふがと不明瞭になった。
向かいに座ったゲイスは、自身を呼ぶ声に答える代わり、目を逸らした。
布の間から睨みつけられ、すっかり憶えてしまっている。
「……な、なんだよ…」
「…アンタとやらなくなってから、魔術が弱くなってんのよ。
どんだけ全力でやっても、ちょろっと息を吐くのと同じ程度しか、出ないのよ」
ジャスタは風の魔術を扱う。風を半円の刃物の形で打ち出すのが得意だ。
怪物を狩る時、気に入らない奴を叩きのめす時など、いつも得意な「風の刃」を用いていた。
それが今、刃物型を成型するどころか、そもそもの風が吐息くらいの強さでしか出せないという。
かざした掌に、近くに落ちていたボロボロの紙片を乗せ、ジャスタは魔術を行使した。
ふわっ…と紙片がわずかに浮き、床に落ちた。それで終わりだ。
「どういうことなのよ、ゲイス…ねえ。またアンタとやれば、元に戻るんじゃあないの?」
「し、知らねえよ…」
ジャスタが這いずり、ゲイスに近寄った。ゲイスは後退って逃げようとする。
距離を詰めたことで、より鮮明にジャスタの顔が見えた。覆い隠す布の奥、皮膚がずる剥けた顔。
ところどころがはれ上がり、ひび割れた皮膚の間から膿がこぼれ落ちる。
傷口には蛆が湧き、酸で焼けただれた両目は白濁していた。
バサバサと荒れ放題の髪の間、鼻は崩れ落ち、盾に細長い鼻腔が正面を向いている。
ただれた皮膚の間に、眼球、鼻腔、歯列が覗く―――
「うっぐふ、うぶっ、ぅぇ…」
「ねえ、ヤろうよゲイスぅ…アタシ、ずっと我慢してんだからさぁ…」
煽情的に腰をくねらせ、ジャスタが迫る。
恋人を気取る腐肉のかたまりの姿に、ゲイスの嫌悪感と嘔吐感が頂点に達した。
「わ、わるい、俺用事があるから! じゃな!!」
ジャスタを蹴飛ばし、ゲイスは精肉工場から逃げ出した。
乱暴に扉を開け、荒れ果てた村を走り、無事であったアンティラと共に住む隠れ家…
邪星獣による破壊を免れた掘っ立て小屋に、どうにか辿り着く。
辿り着いた途端、とうとう我慢が出来なくなり、彼はうずくまって盛大に嘔吐した。
「おろろろぉぉええええええ」
先日何とか手に入れた新鮮な肉を食ったばかりなのに、すっかり戻してしまった。
くそったれめ、とゲイスは内心でジャスタを罵った。
彼女があの時襲われさえしなければ。バケモノをちゃんと殺していれば。
あんな醜い顔にはならなかったのに…と、自らが犯されかけたことを棚に上げて、内心で悪口を垂れ流す。
ゲイス自身、当時折られた歯は欠けたままだ。
だが彼は、それを邪星獣との実力差のせいではなく、『葬星の竜』プリスが手に入らなかったせいだと考えている。
あのドラゴンさえいれば勝てたのだと。そしてそれ故、彼はアニィを憎悪していた。
嘔吐し終えて立ち上がった所に、アンティラが駆け寄ってきた。
食料が不足しているにもかかわらず、彼女の腹は以前と変わらず、でっぷりと肥え太り、揺れていた。
彼女もまたアニィの怒りの魔術で痛めつけられ、今なお全身が引きつるように痛むらしい。
「ゲイス君!」
ふらつくゲイスに肩を貸し、アンティラは避難先の掘っ立て小屋へと導く。
入り口に二人そろって腰を下ろし、一息つくと、アンティラがゲイスにすり寄って尋ねた。
邪星獣襲来の時、家族を置いて一人逃げた臆病者の彼女は、生き延びるためにゲイスに縋りついていた。
「どうだったんだい? 荷札はあったのかい?」
「あ、ああ、あったぜ。今度のはヴァン=グァドだ…多分、北に向かってるんだ」
アンティラに見せた荷札には、厄介事引受人協会ヴァン=グァド支部の住所が書かれていた。
子どもたちが畑仕事をしている間に学校に忍び込み、盗み出した物だ。
どこからかくすねてきた地図を広げ、照らし合わせてゲイスはアニィ達の旅のルートを推測する。
ただ、まだシーベイとヴァン=グァドの2か所しか判明していない。
せめて後2か所判れば、どの方角に向かっているか推測しやすくなるのだが。
そしてアンティラは、偶然からゲイスが盗んだ荷札を発見し、尻馬に乗ることにしたのである。
アニィを虐待していた以外はごく普通の主婦であり、大した魔術も使えない彼女は、何もしていなかった。
情報を集めもせず、必要な物を盗みも提供もせず、ただゲイスの計画に乗っただけだ。
当然、ゲイスは彼女を切り捨てるつもりであった。
ただ、村を出てからの算段が付いておらず、やみくもに動けば無駄足に終わるのは判っていた。
そして幸か不幸か、その内心はアンティラに伝わっていない。
「…許せないねぇ、愚図のくせに『葬星の竜』様を連れて行くなんて……
どうせ餌か何かで釣ったんだよ。あいつは毎晩残り物をあさってたからね」
アンティラのぶよぶよに膨れた胸の内では、アニィへの逆恨みがくすぶり続けていた。
事あるごとにアニィとプリスへの恨み言を吐き出し、ゲイスに聴かせる。
それでいて自分は何もしない。手を出して返り討ちに遭うのが、恐ろしくてたまらないのだ。
アンティラはあくまで安全な場所にいて、アニィ達をただ罵るだけであった。
ゲイスは目を逸らしつつ、内心で吐き捨てた。
(誰がてめぇみたいな、デブのババァなんぞ…)
精肉工場に逃れた者達、そしてゲイスとアンティラ…
彼らは邪星獣に襲われ、アニィの怒りを気が狂うほどぶつけられたにもかかわらず、手を取り合おうとしなかった。
ドラゴンに乗っての狩りなど、かつて表面的には仲良くしていた彼らの、これが本性である。
ただ、一つだけ共通点があった…アニィへの逆恨みだ。
―――愚図が調子に乗りやがって。
―――どうせ何もできやしねえんだ。あんな奴。
アニィが邪星獣を皆殺しにした事実を目の当たりにしながら、彼らはアニィの実力を受け入れなかった。
プリスを何かで騙し、無理やり従えて魔術を行使させたのだ、としか考えていない。
ドラゴンは力ずくで従えるものであり、魔術を使えない者は永遠に無能で無価値。
そして、ドラゴンを従えた自分達は勝者なのだと…
アニィが魔術に開眼することなどありえず、今なおゴミに等しい存在だと。
既に覆され無価値となった因習を、彼らは今なお世界の道理だと信じ、陶酔すらしていた。
その結果が現在の惨状であることを、見てみぬふりをしながら。




