第六十二話
続けてメグから受け取ったのは、花や果物を煎じた茶…
シーベイでも飲んだ、ワイルドローズベリーティーだった。
一口飲むと、シーベイの物よりも幾分味が濃かった。
各成分がシーベイの物より少しずつ濃いようだ。
だがすっきりとした後味は変わらず、食欲が殆ど無い今の状態でも飲みやすい。
「目が覚めたら、この山脈を抜けた先にある『図書館』に行って、そこの司書に診てもらうといい」
クリン医師から手渡された地図を、パルはプリス達と共に地図を見た。
大陸の輪郭や等高線が立体になるよう特殊な印刷を施されており、目の見えぬヒナでも、手で触れればある程度形が判るようになっている。
パルはアニィにも地図を見せ、ルートを確かめた。確かめたのだが…
《…図書館って、どこに?》
プリスは地図を凝視するが、地図のどこにも図書館の文字は無かった。
代わりにあるのは『マナスタディア魔法学園都市』の文字だけだ。
「その学園都市が『図書館』を管理しているのですわよね、先生? 図書館も何やら不思議な場所にあるとか」
「うむ。実際に行ってみた者が言うに、『空が見えた』らしい」
「……ていうか、『魔法』って何? あたしたちが普段使うのって『魔術』だよね?」
パルは地名の方が気になったらしく、会話に割り込んでクリン医師に尋ねた。
「聞いたところ、魔術の高度な操り方を学ぶ学校らしいのだよ。
例えば炎を出すなら出すだけでなく、自由自在に形も変える…とか」
「へえ…それは気になる」
「うむ。今後の参考になるかもしれんな」
クリン医師はややうろ覚えであったらしいが、それでもパルとヒナは惹かれるものがあったようだ。
とはいえ、どんな学校かとここで推測を重ねても仕方がないと、プリスはすぐに思考を切り替える。
《まあ行ってみればわかるでしょう。それまではアニィ、しっかり休みなさい》
「ん…うん…」
倦怠感からまた眠気を感じているらしく、アニィはしょぼしょぼと目をこすっていた。
パルに背を支えられ、ゆっくりと体を横たえると、アニィがプリスを見つめる。
「ごめんね、時間取らせて…」
《だから、好きで世話焼いてるって言ってるでしょ。謝るより感謝してほしい物ですね》
そう言ったプリスの顔には、若干嫌味ったらしい言葉とは裏腹に、穏やかで優しい笑顔が浮かんでいた。
それをパルとパッフが左右からつついてからかう。
「あんたったらま~、すっかりアニィに甘くなっちゃって。
最初の頃の態度のデカさは、いったいどこに飛んでっちゃったんですかね?」
「クルクル~~」
《静かにしなさいっての。アニィが寝られんでしょうに、このすっとこどっこいどもが》
軽く怒ってみせつつ、プリスもどこか楽しそうだ。その光景にヒナとクロガネもほほ笑んでいる。
眠たげな眼差しでアニィはプリスの笑顔を見つめ、自身もほほ笑んだ。
目が合うとプリスは優しく笑い、ついでクリン医師に尋ねた。
《ドクトル、アニィのそばにいても構いません?》
「ふむ…お2人は仲が良いようだし、心の健康のためにも、むしろいてあげて欲しいね」
医師はにこやかにそう答えた。
アニィが横になったところで、パルとヒナはアニィのマントとバッグを壁のハンガーにかけた。
「じゃあアニィ、あたし達は協会に行ってるね」
「話は通しておくから、目が覚めたら報酬を受け取りに行くと良い」
そう言って部屋を出た2人を見送る。
パッフとクロガネも、パルとヒナが出てきたところでついていった。
クリン医師はメグと共に別の部屋に行き、何か作業をしているようだ。
2人の会話が聞こえてくる。
「いやびっくりしたびっくりした、まさかドラゴンが思念で会話するとは!
腰を抜かさんように冷静なフリをするので精いっぱいだったよ、姫町長はよく平気でいられるね!?」
「別のドラゴンとお話しして慣れてますので!」
「なぬ!? 会話するドラゴンがまだおるのか…」
内心では相当おののいていたらしい医師の言葉に、ついアニィとプリスはくすくす笑ってしまう。
《やれやれ。なかなかの胆力をお持ちでいらっしゃる、職業柄ですかね?》
「うん、きっとそう…人が生きるか死ぬかの時、落ち着いてないと治療ができないものね」
アニィは体を横に向け、枕に頬をうずめた。
暖かな毛布と柔らかなマットレスに、倦怠感もあってたちまちのうちに瞼が重くなる。
ふとその瞬間、町に辿り着いた時のことを、アニィはぼんやりした頭で思い出した。
彼の腕に何か違和感を感じたのだが、いったい何がおかしかったのか…
だが思い出す前に、余りの眠気にアニィはすぐ眠りに落ちてしまった。
穏やかな青空の下、草原に1つの集団が集まり、和気あいあいと話している。
歩いていくと、父と母、そして幼い姉妹の4人家族だとわかった。
こうして「家族」というのが判るのも、ずっとこの世界を歩いたおかげだ。
沢山の「家族」を見てきた。幸せそうな家族も、不幸せな家族も。この家族はどうだろう。
と、幼い姉妹の妹が振り向き、私を見つけた。
まだ立って歩くこともできない彼女は、好奇心に満ちた目で私を見つめ、遠慮なく顔を近づけてくる。
―――そうだ。これは、家族と幸せに暮らしていた頃のあなただ。
あの後しばらくして、あなたは家族と暮らさなくなってしまったのだったね。
あなたは物怖じせず、両手足で這って私に近付き、真正面から見つめてきた。
恐怖も無い、歓喜も無い、ただ私だけを見据える瞳。私とあなたの視線が合い、ぶつかる。
あなたの背後から、あなたより幾分か年上の姉が覗き込んでいる。
不意に、あなたは私に両手を伸ばし、ぎゅっと抱き着いた。
額と額が重なり、急なことに驚いた私の頭の中に、あなたの心が流れ込んできた。その時の衝撃はよく憶えている。
「ぷーちゃ」
言葉もままならないあなたが、突然口走った。何の意味か分からない言葉だ。
なのに、直感的に、あなたが私を呼んだことがわかった。
あなたの心が伝わってきた時、あなたが私をその名で認識していることも伝わったからだ。
覗き込んでいた姉が両親を呼ぶ。しゃべった、しゃべったよ、と叫んでいる。
私の名前は、あなたが初めて喋った言葉だったのだ。
「ぷーちゃ…」
伝わってきた心は、私に出会えたことの喜びだった。
家族以外で初めてできた友達という、とても一方的な認識だったが―――
友達と思ってもらったことが、私には初めてのことだった。
同時にそう思ってくれるあなたと出会ったことが、私にもとても嬉しかったのだろう。
家族のみんなもほほ笑みながら君を見下ろしている。
「ぷーちゃ!」
三度呼ばれ、私は実感した。
これはあなたたち人類と同じ。あの時のあなたたちと同じ気持ち。
幸福。あなたがくれた幸福。
だから、私はあなたとともにあろうと決めた。
私に幸福を授けてくれたあなたを愛し、あなたと共に在ろうと決めたのだ。
私と出会った日のことを、きっとあなたは憶えていないだろう。物心つく前のことだ。
けれど、その出会いは私の心を動かした。
この世界をずっと歩き続け、そろそろどこかで休もうかと考えていた私は、あなたと活きたいと思った。
あなたが辛いときはそばにいる。誰かの力になりたい時は、私が共に行く。
今、その時を待ち続けるあなたのために。私はその時のために。ここにいる―――
目を開けると、見慣れぬ天井が最初に見えた。
周囲を見回し、そこがアグリミノル町の病院の入院病棟であったことを、アニィは思い出した。
毛布の下から手を出し、上に突き出して軽く握ったり開いたりしてみる。
肩は重くなく、痛み、悪寒も無い。体を起こしてみたが、ほんのわずかに倦怠感が残っている程度だ。
ヒナの丸薬とクリン医師の栄養食のおかげだろう。
真っ先に窓の外を見ると、プリスは何やら書物を読んでいる。
が、人間が読むサイズの物だ。ドラゴンの体躯にはあまりに小さすぎるのか、ページをめくるのに苦労している。
細かい文字を呼んでいた視線がアニィを捕らえると、プリスは一度書物を閉じた。
《おやアニィ、お目覚めで。よく寝てましたね、調子はどうです?》
「うん…悪くはないよ。プリス、その本は?」
プリスは窓から前脚を入れ、つまんだ本を部屋の隅の机に置いた。
《ドクトルから借りた本です。今後のためにと読んでみたのですが、正直我々の役には立ちませんね》
医学の本であろうか、とアニィは推測した。アニィの症状について調べていたのだろうか。
精神の変調を治療・抑制する方法は、ドラゴニア=エイジが始まってから、8000年経ってもなお見つかっていない。
薬物とカウンセリングによる対処療法が一般的だが、根治はほぼ不可能と考えられている。
それは魔力によるものでも同様であった。
先刻医師が言っていた図書館とやらに行くまでは、邪星獣が出ない限りは大丈夫であろう。
だがヒナが警戒するように、このアグリミノル町にいても…あるいはいてこそ、それだけは油断ができない。
この、目覚めている時に常に緊張状態にあるのも、精神疲労の原因の一つかもしれなかった。
アニィは診察台から降りると、窓辺から顔を出し、プリスと共に街の風景を眺めた。
昼を既に過ぎており、僅かに傾いた日差しが黄色みがかっている。
中心には様々な商店が並び、周辺に住宅が並んでいる。ほとんどの住宅の敷地には畑があった。
商店街に売りに出す野菜や果物を作っているのだろう。
町の一角には広い牧場もある。そこで乳製品や食肉を加工しているようだ。
山間で半ば孤立した立地だけに、町ぐるみで自給自足の生活を送っているのだろう。
病院の近くにも同様に果樹園があり、そこでは家族が揃って畑仕事をしていた。
父母がドラゴンに乗って高い木に生った果実をかごに入れ、それを水の魔術で子供達が洗っている。
(家族で―――)




