第五十七話
自身がどこにいてどうなっているのか理解できず、アニィは呆然とした顔で周囲を見回す。
真っ先に見つけたのは、プリスの顔だった。
《アニィ、目を覚ましましたか。具合はどうです?》
「プリス……? そっか、わたし、倒れちゃったんだ…ごめんね、迷惑かけて…」
苦しげな顔で謝罪するアニィの髪を、プリスの爪が優しく撫でた。
《何が迷惑な物ですか。全員、好きであなたを助けてるんですよ》
「そんなの…そんなの、いいから…みんな先に」
「良くない。あんたを置いてくことなんて、誰も考えちゃいないよ」
隣に座ったパルが、アニィの顔を覗き込む。
「今は休んで、皆にちゃんと甘えな。体も心もきちんと元気にしなきゃ」
「私も同じ意見だ。助けてもらった身として、そなたを見捨てるなどできぬよ」
「パル…ヒナさん……」
《わかるでしょ、アニィ。皆好きであなたを助けてるって》
プリスの言葉を聞き、アニィはマントに顔をうずめると、嬉しさに流れた涙をぬぐった。
こうまで優しくされたことなど、アニィには初めての経験だった。
ヘクティ村にいた頃、薄暗く寒々しい物置で病にかかり、死にかけたことも二度や三度ではない。
そのたびにパルの家に連れていかれたが、迷惑だからと、治ったらすぐ住処の物置に戻ったものだった。
それが今や、過度に甘やかされているのではないかと言うほど優しくされている。
どう答えていいか判らず、それでいて本人も知らずに喜びが胸に溢れた。
「うん。…ちゃんと治すね。ごめんね」
「それがいい。ところでそろそろ食事にしようと思うのだが、食欲はあるか?
食後に飲む熱冷ましの丸薬を作ったのだが」
ヒナはバッグの中から板を一枚取り出した。
ボルビアスの特訓でも使った、料理用の鉄板だ。
次いで取り出したのは、ヴァン=グァドで購入した携帯食。
勿論、肉汁のうま味がしみ込んだ改良版である。
「少しなら…」
「判った。しばし待っていてくれ」
ヒナが携帯食を熱した鉄板に乗せると、途端に食欲をそそる芳香が厩舎に満ちた。
食欲の失せたはずのアニィの胃袋も、僅かながら空腹を訴えて鳴り出す。
良く火を通しながら焼くと、全体に軽い焦げ目が出来る。
焼き上がったところで、ヒナは小さなナイフで一口サイズに携帯食を切り、水筒と丸薬と共にアニィに手渡した。
「食べて少し経ってから、水と一緒にこの薬を飲んでくれ。
それから一晩寝れば、だいぶ楽になるはずだ。
明日の朝食の後でもう一つ飲めば、一両日中には治ると思う」
「うん……ありがとう」
焼き上げられた携帯食を少量食べる。こちらはトロピカルマッスルサーモンの肉汁がしみ込んだ、あっさりした味わいの方だ。
飲み込んでから少し待ち、水筒の水と合わせて丸薬を飲む。
「んぃ、にがい…」
《我慢なさい、よく効く奴ですよ。…多分》
「はぁい…」
少し多めの水と共に飲み込み、道中で買った使い捨て歯ブラシ(木の棒に硬い毛を丸く巻き付けてある)で歯を磨く。
その後顔の汗を濡らした布で拭くと、3枚重ねのマントを体に掛け直し、藁の上に横になった。
薬の効果か、すぐに眠気が訪れた。眠りに落ちる前に、アニィはプリスの顔を見上げる。
《寝ますか、アニィ?》
「うん……あの、プリス………」
《何でしょう》
「……その……………手、つないでていい…?」
マントの下からそっと出した小さな手に、プリスは自分の爪の先端を握らせた。
病とは違う熱で、アニィの頬は真っ赤になっている。
プリスもアニィ自身も、その違いに気づかない。
《構いませんよ。あなたがそれで眠れるというなら》
「ありがと、プリス……おやすみ…」
プリスの手に触れた安らぎと、皆の優しさの心地よさの中、アニィはたちまちのうちに眠りに落ちた。
周囲の安全を確認した後、火を消して全員が眠りについた。
焚火のおかげで厩舎の中は暖かく、体になにも掛けずとも心地よく眠れる。藁の柔らかさも心地よかった。
その闇の中、パルは目を覚ましていた。
隣からはパッフの寝息と鼻ちょうちんが膨らむ音が聞こえる。
ヒナとクロガネは、やや入口よりの場所に陣取っていた。
敵の気配を感じた時、いつでも迎え撃てるようにとのことだった。
ふとプリスの方に目を向けると、彼女もまた目を覚ましていた。
「プリス」
アニィを起こさないように小声で呼ぶと、プリスもまた思念の通話の音量を下げて答えた。
《何です》
「気になることがあってさ。相談っていうか、どうしても聞きたくて。いい?」
《ええ。どうしました?》
小さくうなずき、パルは尋ねた。
「プリスは、アニィの事どう思ってるの?」
尋ねられたプリスは、質問の意味が理解できず、顔をしかめて首をかしげた。
《どう、とは?》
「好きか嫌いかで言えばどっち?」
《まあ、好き、の方なんですかねえ…? 少なくとも心配するくらいには》
「それって、アニィがプリスの『ドラゴンラヴァー』だから?」
これもまた質問の意味を理解しかね、プリスは応えに迷い、唸る。
《……判りません。どうしたんです、一体》
問い返したプリスに、果たして言って良い物かと、パルは僅かに逡巡した。
だが気になって仕方ない事、そしてアニィとの関係を自覚してほしいことから、パルは意を決して言う。
「プリスがただ相棒だからっていうだけじゃなく、心の底からアニィを心配してるように見えてさ。
ドラゴンって、人間と友達になることは殆ど無いじゃない。
あたしのパッフやヒナのクロガネみたいな場合はあるけど」
《ええ…まあ、そうですね》
「でもプリスは村の奴らに興味なくて…なのにアニィとはすぐ仲良くなったわけでさ。
だから、ドラゴンと人間っていう種族のくくりじゃなく。
―――プリスは、アニィのことが好き?」
改めて問われ、プリスは答えあぐねた。
確かにアニィの事を、意識して気遣うようにはしていた。そして今は本気で心配している。
アニィに対しての自身の気持ちが、果たしてアニィが『ドラゴンラヴァー』だからなのか、それとも…
人間と比べて長い時間生きている自覚はあるが、その時間の中での、これは初めての自問であった。
パルとパッフのような、無邪気な子供の頃の出会いではない。
ヒナとクロガネのように、時間をかけて絆を育んだわけでもない。
生まれてから数十から数百ネブリス経過して自我が完成し、『ドラゴンラヴァー』を探し始めてから芽生えた感情だ。
それまで自覚したことの無い、特定の人間に向けた初めて感情である。
胸の内に宿っているはずのそれは、当のプリスにも全く理解できないものであった。
《…判りません》
しばし考え、プリスは回答を諦めた。
《誰かに優しくしたいと思ったのは、アニィが初めてです。私にもどんな感情なのか、全く分からない》
「そっか…じゃ、判るまで少し待つか」
それだけ言って、パルは藁の上にごろりと横たわると、すぐに寝息を立て始めた。
プリスも目を閉じて眠ろうとする。パルとの会話が頭の中に浮かんだ。
自分は果たして、アニィをどう見ているのか。それは人間が持つ何かしらの感情と、同じ物なのか。
その心の正体は判らない。だが、決して気持ちの悪い事ではなかった。
アニィが苦しむのを見るのは、自身も辛い。アニィが笑顔になると、自身の心も温まる。
間違いなく、ドラゴンとしてではなく、プリス自身のアニィへの善意だという自覚はあった。だが何故―――
考えているうちに、プリスも眠気を憶えた。大雨を抜けてどうにか寝床に辿り着いたことで、気持ちが緩んでいるようだ。
目を閉じて何度か息をすると、すぐにプリスも眠りに落ちた。
―――プリスは気づかない。アニィを見つめる自分の優しいまなざしに、穏やかな笑顔に。
そしてアニィへの感情が、プリス自身に対してアニィが抱く想いと、酷似していることに。




