第五十四話
マウハイランド山脈全体は、端から端まで102ドラカイリ(およそ9500km)ある。
フェデルガイア連邦の領地の中では最長の山脈だ。
現在の速度のままなら、抜けるまでおよそ41ジブリス(41時間=1日と17時間)ほどかかる計算だ。
「この速度であと20フブリスくらい飛んだら、岩場が見えるはず。
洞窟もそのあたりにあるみたいだから、一回そこで降りよう」
そう言って、パルは地図をしまい込んだ。
そしてその直後。頭上で、突如ゴロゴロと低い音がとどろいた。
全員が頭上を見上げる。霧の上空、遥か上に黒い雷雲が集まっていた。
既に雲の中に包まれつつある山頂付近で、不自然な程に。
「…魔力」
ヒナがつぶやいた。
「天気を操作する魔術…?」
「スケールがでかすぎない!?」
「いや、恐らく雷雲の発生条件に関する魔術だ。何かを操って雷雲を発生させているような…」
アニィとパルが不安に思う中、冷静に分析している。
鍛錬の賜物か、どうやら魔力もある程度感知できるらしい。
ヒナの説明が事実であれば、雷雲そのものは何かを操作することで発生した、副産物のようなものだ。
が、誰からともなく冷たい雫を額に感じたところで、全員が我に返った。
「ともかく分析は後だ。急いで雨宿りできる場所を探そう」
「ゴウゥ!」
「賛成。全員急ぐよ!」
「クルッ!」
再びパルとパッフを先頭に、ヒナとクロガネを最後尾に列を組み、先刻以上の速度で飛び始める。
それに合わせて雨が徐々に強くなり、やがて無数の雫が猛烈に降り注いだ。
ただでさえ霧の中にいるのに、余計に視界が悪くなる。
しかも雫は冷たく、マントを羽織ろうが容赦なく体温を奪っていく。
鍛えたパルとヒナさえ震え始めるのだから、アニィなど尚更だった。
アニィに雨が当たらないようにと、プリスは翼の光の糸で湾曲した円形の板を編み、アニィの頭上に浮かべた。
《この速度だから気休めですけど。良ければ使ってください》
「うん…ありがとう、プリス」
プリスが作った即席の傘は、かなり高い密度で糸を編み込んだらしく、雨のしずくを全く通さない。
高速で飛ぶためにほぼ全身が雨に打たれるが、傘が頭にかかる分を防いでくれるだけでもありがたかった。
数フブリス飛ぶと、ようやく森が途切れて岩場が見え始めた。
ごつごつと隆起する岩石が、雨の中を飛ぶアニィ達の眼下で濡れ光っていた。
溶岩が冷えて固まった物とは異なるようだ。
数十万ネブリス単位で大地が隆起し続け、この地にあった岩石が積み重なった物だ。
積み上がった岩石の間に、ちょっとした洞穴でもできていれば…と、パルは眼下を見下ろす。
身体強化魔術を自らの目に施し、超高速の飛行中でも注意深く観察している。
だがその途中、突如のヒナが動いた。
「アニィ殿っ!!」
ヒナはいきなり刀を抜き、アニィの真横を払った。硬質な金属音が響く。
突然の音にパッフも空中で停止し、プリスのそばに寄った。何かあったのかとパルも顔を寄せる。
驚いたアニィは、刀に払われた物体…切断された灰色の糸の塊を見て、その意味を悟り、眼下を見下ろした。
巨大な昆虫らしき6本足の生き物が、森の中から無数に這い出してきていた。
どうやらそいつらが出した糸、蜘蛛の糸らしい。それも金属質に輝いている。
「グゴァアアッ!!」
クロガネが吐き出した金属の散弾を、巨大な蟲は各々がバラバラに跳躍して回避した。
その瞬間、蟲の姿をアニィ達は見た。
左右に広がる扁平な頭部、そこに並ぶ3対6個の目。
邪星獣特有の、不気味でグロテスクな顔だ。
新たな姿の邪星獣であった。蟲型種、とでも名付けるべきか。
昆虫と同様の6本足に見えたのは、前後2対4本の四肢。
背中側から生えた少し長い1対2本の脚は、翼が変化した副腕ならぬ副脚と言ったところだ。
4本の脚と2本の副脚を利用し、森の木から木へと移りながら無音で移動したのだ。
ここまで敵意や殺意をほぼ完全に押さえて追跡してきたということは、ヒナが気配に鋭敏なことも学習しているということだ。
真っ先に声を上げたのが、パルとパッフであった。
パル達が斃した指揮官個体の小型版というべき姿である。
「あいつ、海で見たのに似てる! ボルビアスからヴァン=グァドに戻る時! 今度は小さい奴か…!」
「グルァァ!!」
ドラゴンに似ているだけの謎の生命体であったはずが、魚類型に続いてドラゴンと異なる姿を見せた。
一頭斃せば何の前触れもなく補充されること、地形に適した体型で出現すること…
工業製品を思わせる無機質な性質に、アニィ達は言いようのない嫌悪感を抱いた。
だがそれはそれとして、急を要する事態ではあった。
ここまで何の気配もなく追ってきたということは、この先に向かわせれば人知れず村や町が襲われるということだ。
ヒナにすら悟られずに森の中に潜んでいたのである。一般市民など、この蟲型の存在に気づく由も無いだろう。
「…みんな、いくよ!」
《任せなさい!》
アニィとプリスの声と共に、パルが弓を、ヒナが刀を構えた。
アニィはプリスが編んだ糸の傘を手で持つと、指から出したプリズムの線で左手とつなぎ、蟲型に向けて投げた。
湾曲した円盤が蟲型を数匹叩き潰すと、アニィは右手で糸を掴み、振り回して群れにたたきつける。
蟲型がつぶれて飛び散り、岩肌が砕けて蟲型の体を破壊した。
『KSHEESHSHSH!!』
蟲型が隊列を崩し、先頭の何頭かが高く跳んでアニィとプリスに噛みつこうとした。
パルがその横から矢を放ち、まとめて頭部を吹き飛ばす。貫通したのではなく、文字通り爆散させたのである。
「気を付けろ、奴らの糸は金属でできている。当たれば皮膚が裂けるぞ。
いつもの鉄の塊を、こいつらは糸にして吐き出している!」
先刻糸を弾き飛ばしたヒナの警告に、アニィ達はすぐに意味を理解した。
引き裂き刺し貫く柔軟にして鋭利な刃物を、この蟲型は武器にしている。
巻き付けられれば全身が細切れにされるだろう。捕縛ではなく、殺害のための凶器なのだ。
その直後、まさにその糸が地上からアニィ達全員に向け、大量に吐き出された。
散開し糸を回避して、アニィとプリスが全員に向けて叫ぶ。
「動きは止めないで! 狙いをつけるより、まとめて片づけるように!」
《指揮する奴はどこかに隠れています。見つけ次第攻撃を加え、引きずり出しましょう》
霧に大雨という最悪の視界の中では、下手に狙いを付けるよりはまとめて片づける方が効率的だ。
特定の個体に狙いをつけるなら、余程適切なタイミングでなければならない。
直後、アニィは掌の上に板状の結晶の輪を十枚出現させた。
ヴァン=グァドの雑貨店で見た、直径1ドラクローほどのリング状の刃物をヒントに作り出したものだ。
群れの上空を飛び回りながら、アニィは輝くリングを眼下の群れに放った。
両手で円を描いてコントロールし、拡散させながら蟲型の頭部を次々に両断していく。
その背後から別の群れが飛び掛かる。
しかしプリスの翼が輝き、光の糸が出現して全身を縛り付け、そのまま細切れにした。
《アニィ、背後は私に任せて。あなたは前方と周囲を!》
「うん!」
続けてアニィは、跳躍した蟲型数体に向けて楔形の結晶の矢を放つ。
一度に一発ではなく、連射しながら薙ぎ払い、まとめて消し飛ばしていった。
飛び掛かって来たものに対しては、巨大な結晶の爪を発生させ、両手を振るって叩き付け、引き裂く。
極めて視界の悪い状況の中でも、アニィは容赦なく邪星獣を粉砕していった。
アニィが光のリングで蟲型の群れを内側から破壊し続ける間、パルとパッフは群れの外部に目を向けた。
パッフと目を合わせると、すぐに意図を汲んだパッフが雨の粒を操作し、回転円盤に変えて群れの外側の列に飛ばした。
アニィのリングのような鋭利な刃物ではなく、厚みがあり縁が丸い円盤だ。殺傷能力は無い。
だがそれは、パルが戦術として利用するためである。
パルは矢を一度に5本、それを連続で5度。上空を飛びながら、合計25本の矢を広範囲に放った。
強化魔術を施した25本の矢が蟲型の頭を破壊し、さらに回転円盤に当たって方向を変え、また次の蟲型を貫く。
それを繰り返し、次々に蟲型は消滅していく。どこに行くか判らない矢が、次々に群れを削っていく。
「パッフ、援護!」
「グルァアア!」
パルはパッフの背中から飛び降り、蟲型の頭を足場にして群れの上を駆け巡る。
パッフは雨を操作し、小さな弾丸に変えて飛ばすと、パルの周囲の邪星獣の頭部を次々撃ち抜いていった。
パルは矢と雨の弾丸で斃せなかった邪星獣を斬り、蹴り、あるいは腕力だけで首を引きちぎって屠っていく。
「おっらぁああ!!」
雨のしずくでぬめる邪星獣の肉体の上だ。
常人なら間違いなく踏み外し、群れの真っただ中に転げ落ちるだろう。
だがドラゴン相手の組手を4ネブリスの間続けていたパルには、彼らを足場にして走ることなど造作も無かった。
その進路を妨害すべく前方から1頭、さらに後方に2頭と左右から1頭ずつが飛び掛かる。
「ふんっ!!」
パルは助走をつけて真正面の1頭を前蹴りで破壊。
続けて振り向きながらの跳び回し蹴りで真後ろの2頭をまとめて砕く。
左右からの2頭は、右側を蹴り砕き、左側を短剣で突き刺す。常人では到底及ばない反射神経の賜物だ。
そして数頭をまとめて片づけながら、パルの目は鋭く周囲を観察していた。
―――指揮を担当する個体がいない。
他の個体と全く同じ姿に擬態して隠れるという方法は、殲滅を最優先しているアニィ達相手には却って効果が無い。
後方の森に隠れているとすれば、気配以前に大きすぎてすぐ見つかる。
視界外にいるケースはヴァン=グァドにもあった。今回もそうだという可能性は、念頭に置くべきだろう。
だが、過去の襲来時に感じた邪悪な気配は、かなり近い場所にあるように感じた。
(近いところにいるのかもしれない…)
「ヒナ、指揮官みたいなのいそう!?」
パルは手近な1頭を短剣で斬り伏せると、近くを通り過ぎたヒナに確認を取った。
すれ違ったヒナは、駆け抜けるクロガネの頭部に乗りながら刀を振るい、次々に蟲型をみじん切りにしていく。
「恐らくいる! だが気配がかすかだ、微弱過ぎてすぐには判らん!」
周囲から鋼鉄の糸が迫る。前方からの糸はクロガネが鉄の弾丸をまき散らし、空中で撃ち落とした。
後方はヒナ自身が振り向き、高速で刀を振り回して全て叩き落す。
魔術も魔力も一切用いず、気配と音のみで迫る尖端を察知し、正確に全てを切り払う超人的な技だ。
だがそちらに集中することで、指揮官個体の探索に取り掛かれないでいるのも事実だ。
(気配は確かに近くに感じる…この蟲の群れと比べても殺意が強いせいか。
離れ行く様子は無い、むしろ近場から―――そうか!)
「クロガネ、周りの奴を追い払ってくれ!」
「ゴァアア!!」
頑強な肉体を駆使し、クロガネは尾の打撃や頭突きで、群がる蟲型を吹き飛ばした。
その隙にヒナは地上に降り、刀を岩肌にたたきつけた。
鋭い金属音が邪星獣の聴覚を刺激し、僅かな時間襲撃を留まらせる。
しかしヒナの狙いはそれとは別にあった。指揮官個体の探索だ。
一見してこの場にいない、しかし気配がこの場から消えないということは…という現状からの着想だ。
そして、着想は的を射ていたのであった。
「―――いた…」




