第五十三話
《根っこが持ち上がってましたものね。何かに引っ張られたんでしょうか》
「いや……確かにその、『星を呼ぶ丘』の方には不吉さは感じるが…」
ヒナも首をかしげている。
「物理的に引き寄せられているような感覚は無いな…
感知できぬほどに微弱な重力でも発生しているのか…」
《ふむ…》
プリスは上空を見上げ、木々、そして地面を見まわして、北の方を見る。
視界に入る限り、山の斜面の木も同様に傾き、根が持ち上がっていた。
《倒木や土砂崩れの危険性があります。なるべく上の方を飛んで行きましょう》
「そうだね…」
プリスに倣い、アニィも尾根の方を見上げた。
仮に倒木や土砂崩れが起こった場合、平地を歩いて行けば間違いなく巻き込まれる。
いかにドラゴンと『ドラゴンラヴァー』が強靭とはいえ、大災害に遭って平気でいられるとは限らない。
ただ、尾根もまた心配ではあった。標高が高くなると、空気が薄いのに加え、天候の問題がある。
風が山頂に向かって上昇し、水蒸気を含む空気が冷やされ、雲になり冷たい雨や雪が降る。
ただでさえ気温が低いところに雨が降るとなると、アニィの健康問題が心配であった。
しかも頂上に向かうほど気温が低くなる…物理的に経路を阻まれるか、ある程度防げる低温か。
一応、火起こし棒と薪はクロガネが背負う荷物の中にある。
周辺には落ち葉や折れた枯れ枝があり、やや湿っているが乾けば充分燃料になる。
洞窟かどこかで雨をしのげれば…とは余りにも楽観が過ぎるが、それでも時間があれば、病を治療することはできる。
あくまで「不可能ではない」という程度のことだが。
「うん…上の方を行こう。歩くより、少し急いで飛んだ方が良い。もう夕方だし」
しばし逡巡していたアニィが決断し、仲間達の顔を見て確認した。
全員が首肯し、アニィに同意を示した。
《最短ルートが不安でいっぱいってのは、いかにも苦難の旅ですねえ》
「テントを置いてきたのはまずかったなあ…でも持ってきても荷物になっちゃうしなあ」
「クルル~」
パルの発言通り、ボルビアスで使ったテントはヴァン=グァドに置いてきてしまった。
というのも、この山脈に登ることは目的ではなく、あくまでも通過点である。
山脈を抜けた先では使わない可能性もあるだろう。
また、テントごと土砂崩れに巻き込まれる危険性も考えると、迂闊に使えないのもある。
世の中には異空間に物体を収納する魔術があるらしいが、不幸にしてこの中の誰も身に着けていなかった。
《ヒナは気候の変化に注意してください。雨が降りそうならすぐ教えてください。
パルとパッフは先頭で、前方の状況と地面の水分に注意。
クロガネは後ろからアニィの体調を見ててください》
「時間も遅いし、洞窟か何かあったらそこで一回泊まってご飯にしよう。
この山脈を夜中に歩くのは、多分すごく危ないと思う…」
プリスとアニィが行動方針を決めると、全員が同意した。
そして早速飛ぼうとすると、不意にヒナが足元の草を探り始めた。
「クルル?」
「薬草が無いか探しているのだ。いざという時のために」
「サムライってそういうのも習うんだ?」
「うむ、父上に教わった。それこそ指先だけで草の種類が判るほどにな」
ヒナ自身が言うとおり、光を失ったはずのヒナは指先と匂いだけで薬草を探し当てていた。
躊躇なく引き抜いては集めるあたり、よほど訓練を積んだのだろう。
片手いっぱいになったところで小さな袋に入れ、カバンの中に押し込んだ。
「すまぬ、待たせた」
《構いませんよ。じゃ、いきますか》
それぞれに相方を乗せ、ドラゴン達が飛び立った。
長い長い稜線の上空で、全員が一度振り返り、地上の木々を見下ろす。
パルが言った通り、ある地点から木が一斉に方向に傾いていた。それこそ、何かに引き寄せられたかのように。
《…地滑りの類にしても異常です。完全にここから先、だけですね》
「うん…」
土が空気の層で僅かに持ち上げられたようになり、根が抜けかかって地面がだいぶ脆くなっている。
これが山の一部で起こったのなら何の異常も無い。
だが、アニィ達がいた地点から来た、ほぼ全域で起こっているのである。
と、不意にヒナが顔を空に向けた。
「雨が近いな。空気の湿度が高くなっている」
《雲も出てきました…少し急ぎましょう》
全員が尾根のすぐ上で一旦空中停止し、先刻と同じ列で移動を開始した。
障害物が無い分、速度はかなり出る。1ジブリスで2ドラカイリ半(時速230km前後)は進むだろうか。
猛烈な速度で森林が後方へと過ぎ去り、同時に冷たい空気が全身を叩く。
プリスの背でアニィが震えた。
「っ……寒っ…」
プリスが振り向くと、アニィの顔色がやや青ざめていた。体調を崩す前兆かもしれぬと、プリスは内心で焦る。
《すみません、アニィ…少し我慢してください》
「ん、大丈夫…わたしは大丈夫だから。早く行こう」
気丈にそう言うアニィに対し、プリスは僅かに疑いの目を向けた―――本当に大丈夫かと。
だが、アニィは穏やかにほほ笑んで答えるだけであった。
《マントにしっかりくるまっておいてくださいね》
「うん」
それだけのやり取りを交わすと、パルトパッフを先頭に、やや急ぎドラゴン達は飛んでいく。
アニィはマントにくるまり、頬や口元も覆ったが、冷たく湿った風は容赦なく彼女の髪をなびかせる。
湿度の高い空気が、長い髪に少しずつ水滴を結んでいく。
「山の上の空気がこんなになってるなんて、初めて知った…」
ふと思い返したのは、村で狩りを行っていたドラゴン乗り達のことだ。
彼らは一度も山の話をしたことがなかった。近くの森でばかり狩りを行っていたのだろう。
意外だと一瞬思ったが、ヘクティ村では用具など揃わず、迂闊に山に登れば遭難でもしかねない。
彼らなりに賢明だったのか、それとも山が恐ろしかっただけなのか…
《地面の上でも、標高が変わるだけで気候もだいぶ変わるらしいんですよ。特に空気が薄くなるとか。
で、普通の人間ならそれに適応できず、具合が悪くなるそうです》
「そうなんだ。プリス達は大丈夫なの?」
《ええ。この程度の気温や空気の薄さなら、我々ドラゴンの体に影響はありません》
「ドラゴンってすごいんだね…」
自身の体調不良のことも考えず、アニィはただただ感心するだけであった。
アニィは西の方向を見た。太陽が幾分か傾き、沈みかけた夕日の朱色が暗くなりつつある。
周囲の森や他の山々が照らされ、低く降りてくる霧で景色がかすむ中、複雑な光のラインを描いていた。
少しずつ霧が濃くなっていく。空を見上げると、かすむ灰色の向こうに朱色の円が浮かんでいた。
《視界が悪くなってきましたね…》
プリスのつぶやきが聞こえる。ここで改めて、アニィは自分の体にまとわりつく霧に気付いた。
冷たいだけではない。視界が悪くなるということは、周囲の光景や邪星獣の襲来に気付きづらくなるということだ。
ましてこれから日が沈もうとしているのだから、なおさらである。
最後列のヒナが警告した。
「今の所邪星獣の気配は無いが、気を付けてくれ。この霧と夜の闇に紛れて襲ってくる可能性がある」
《ええ》
先頭のパルとパッフも聞こえたらしく、軽く手と前足を上げて答えた。
ふとアニィは眼下の森を見下ろす。時折鳥や獣の声は聞こえるが、それ以外に動く影は特に無い。
邪星獣は小型でも2ドラーム近くのサイズになる。
体形や動き方もドラゴンに近いので、森を走れば木々の間から見えるだろう。
ただ、先刻の警告の直後から、ヒナの表情が少しばかり険しくなった。
クロガネも困惑した顔で地上を見下ろしている。
危険そのものこそないが、警戒を解く気配も無い。何か、不安に感じるところがあるのだろう。
振り向いたアニィと、前を見ているヒナの覆面の目が合った。
「ヒナさん、何かいそうなの?」
「うむ…いや、邪星獣の気配は無いのだが…何か妙な予感がする…」
「グゴォゥ…」
「気配がしないだけで、実はいるんじゃないかって?」
パッフの背の上で、前方を見張っているパルが振り向き尋ねる。
「そうだ。だが断言しきれない」
「うまく隠れてるのかもね。あいつら、後から来る連中に知識を引き継ぐらしいからさ。
ヒナが気配に敏感なのも伝わったかもしれない」
なるほど、とヒナはうなずいた。
邪星獣が後発に知識を引き継ぐことは、ヴァン=グァドを出てすぐに聞いていた。
気配に鋭敏なヒナに気配を悟られないような行動、あるいは生態を身に着けたのかもしれない。
全員が同じことを想像した。プリスがため息をついてつぶやく。
《休憩も迂闊にさせちゃあくれんということですね。嫌な奴らです》
「ごめん。嫌な不安を持たせた…」
「クル~」
申し訳なさそうに言うパルを、最悪の事態は想定しておくべきだとパッフが慰めた。
その意を汲んだか否か、アニィもつぶやく。
「でも、そうだね…警戒はしてた方がいい」
《私もそう思います。…少し早いですが、日も沈んできましたし。そろそろ休む場所を探しましょう。
なるべく拓けたあたりで、浅い洞窟がいいでしょう》
パルは地図を広げた。もう少し高く飛べば、山頂付近の岩肌が見えてくるはずである。
ちなみにこの速度にもかかわらず地図は飛ばず、千切れる気配も無い。
ヴァン=グァドで譲り受けた、怪物の外皮に印刷した地図だ。
かなり頑丈で、騎士団の遠征の時に使っているらしい。




