第五十一話
ヘクティ村、夜の学校の教室。
子どもたちは入浴、センティは子供達の衣服を別室で洗っている最中だ。
無人の教室は暗い。明かり一つ無い…はずが、闇の中に小さな赤い光が灯った。
炎に照らされて浮かび上がったのは、アニィの魔術で痛めつけられた筈のゲイスだった。窓から侵入したのである。
正気を取り戻し動けるようにはなったものの、それでも全身がまだ痛み、動きはぎこちない。
指先に灯した魔術の炎で、教室中央にある大机を照らす。
工具や筆記用具が残っている程度で、特にめぼしい物は無かった。
彼が探しに来たのは食料、そして換金が可能な宝石類などであった。
数ディブリス前の早朝の郵便配達員を見かけた時、アニィ達がチャム達への仕送りでもしたものと考えたのだ。
当然、荷物の中にそんな高価なものは無い。食料も茶葉と焼き菓子程度しか入れていない。
机の上には、かまどと浴槽の作り方を書いた紙があった。今の彼にとって、何の価値も無い物だ。
「チッ、くっだらねェもんよこしやがって…所詮グズかよ」
盗人猛々しいそのつぶやきを、幸いにして誰も聞いていなかった。
ちなみに浴槽は別の部屋に置いてあり、彼が実物を見ることは叶わなかった。
そして、現在極めて不衛生な環境にいるゲイスにとって、本当に大切なのはむしろ食料と浴槽の方である。
元精肉工場に運び込まれた者達の大半は、指先一つ動けずに排泄物を垂れ流しにし、オンリとジャスタに至っては傷が膿み始めている。
無傷だった彼とアンティラは、崩壊を逃れた掘っ立て小屋に逃れていた。だが食料は精肉工場にしか無い。
そのため、ゲイスは村の外に出ることを考え始めたのだ。外に出るには食料と金銭が必要だった。
そして痛みを乗り越え、必要なものを盗むべく、彼はこの教室で家探しを始めたのである。
センティの危惧は、彼が思っていたより早く的中していた。
「次の届け物を待つしか―――」
諦めて帰ろうとしたところで、ふと机を探る手に何かが触れた。
発送元の住所が書かれた荷札であった。シーベイなる街から送られたらしいと、僅かな明かりで読み取る。
その瞬間、彼の脳裏にあるアイデアがひらめいた。
「そうだ…ヒヒ、これだ…! これであいつらに」
「フニ~」
だが、無人と思っていた暗闇の中で、突然動物の声が聞こえた。
おののきつつゲイスが振り返ると、小さな炎に照らされ、机の上にフータが座っていた。
「…ぁんだよ、ビビらせやがって。ガキのペットかよ」
ガキがいつも連れている動物。腑抜けていて狩りの一つもできぬ、愚鈍な獣。
ゲイスにとって、相手にする価値も無い存在だった。
苛立ちから蹴飛ばしてやろうかとも思ったが、騒がれると子供達やセンティが駆けつけるだろう…
そう思って暴行は控えることにした。
だが目が合った途端、ゲイスは立ちすくんだ。
先刻のようにわざわざ呟いたのは、本人も知らぬうちに恐怖を紛らわそうとしていたからだ。
恐怖の源が目の前の小さな毛玉…気の抜けた顔のフータであることに、彼は今ここで初めて気づいた。
何も見えない闇の中、愚鈍なはずの毛玉が、自分を発見したのである。しかも何の気配もなく、突然現れた…
そして何を考えているかもわからぬ目が、じっと彼を見つめていた。
「ひっ……」
全身が悪寒に震えた。ドラゴン乗りでもあるゲイスは、多少なりとも怪物の脅威を知っている。
それ故にこそ、彼は恐怖した。フータが何か、得体のしれない異様な存在に見えた。
次元が違う。ドラゴン乗り程度が太刀打ちできるとは思えない、余りにも強大な存在感が、何故かフータから感じられた。
全身に異様な圧力を感じ、だらだらと脂汗が流れ、恐怖の涙と鼻水があふれ出した。
奥歯がガチガチ鳴り、膝が震え出した。ズボンが股間から生暖かく濡れていった。
同時に全身が奇妙な解放感に満たされた。肉体の内側にある全てが、ゆっくりと抜けていくように脱力し、涙と鼻水と涎が、本人の意思を無視して流れてゆく。
「ひ―――っぅっ…ひっひ…ぃぃぃぅぇ…おぅふ…」
赦しを請わなくては。
本能的に、真っ先にそう思った。邪星獣に尻を狙われた時すら生易しい、存在そのものが脅かされる恐怖。あらゆる思考が消失し、ただ懺悔だけが頭の中を満たしていく。
―――この場に留まれば、センティと子供達に、そして彼らを守るドラゴン達に発見される。野望が露見してしまう…
最後の最期で気力を振り絞り、彼は後者を選んだ。
「ぃひあびゃやああゃあああ!!!」
言葉にならぬ絶叫を上げ、窓から逃げ出した。振り返らず一目散に逃走する。
衣服を汗や涎で盛大に汚し、ゲイスはもがくように無様に走った。
そして物音を聞き付け、火を灯したろうそくを持って教室に来たのは、チャムであった。
突然いなくなったフータを探していたのだが、ゲイスの汚らしい絶叫に気付いてやって来たのだ。
「誰かいるの!?」
返答は無かったが、窓が開き、机の上が荒らされていたことに気づき、彼女は慌てて外を見た。
ゲイスの後ろ姿と恐怖の叫びが遠ざかるのを見送る。何があったのかと気にはなったが、先に教室内を確かめた。
いくつかの物が動かされた形跡があった。そして荷札が無くなっているのにチャムは気づいた。
小さな明かりで暗闇の中を探したが、見つからなかった。
「ゲイスのやつが持ってった…? 何で……?」
荷物の発送元、厄介事引受人協会シーベイ街支部の住所が書かれているはずだった。
そんなものを盗んで、今更ゲイスが何をしようと言うのか。
後でセンティ達に相談しよう…そう思った瞬間、探していた親友の気配に気づいた。
「フニ~」
「フータ! ここにいたの!?」
いつの間にか机の上にいたフータを、チャムは抱え上げた。突然姿を消したかと思えば、真っ暗な教室に突然いたことに、チャムは驚いていた。
「よかった~…みつかった…もう夜だし、寝よう。フータ」
「フニ~」
チャムはフータを抱えて教室を出た。そこであることに気付く。
先ほど逃げていったゲイスは、フータが追い払ってくれたのではないか。
それが事実であれば、普段はのんびりおっとりした彼が、チャム達を守ってくれたのである。
どれだけ勇気が必要だったのかと思い、チャムは感謝の気持ちと共にフータを抱きしめた。
「…フータ、アタイたちを守ってくれたんだね。ありがとね」
「フニ~」
彼女は知らない。勇気を以って追い払ったのではなく、ゲイスがフータへの恐怖から逃げ出したことを。
そしてフータが何かを謝るように、僅かに申し訳なさそうな顔をしたことを。
大切な友の腕に抱かれながら、フータは浮かない顔でチャムを見上げた。
いずれ彼女にも訪れる運命の時を憂うように、その顔はいつもと変わらないようで、しかし少し悲しげであった。




