第三十九話
地図を広げ、ヴァン=グァド西側の広大な海の上をアニィ達は飛んでいく。見渡す限りが海、岩礁すら無い。
ふと海面を見ると、一般市民を乗せた船が南方向へ向かっていた。恐らく避難船だろう。
ボルビアス島に辿り着くまで、太陽が真上に昇るほどの時間がかかる。
朝のうちに出て正解だった、とアニィ達は全員が思っていた。
「来た時も気になってたけど、プリス達は疲れない?」
《体の方はそんなに疲れないんですけどねえ。気持ちが疲れるというか、飽きるんですよ。
何が楽しくてだだっ広いだけの海を眺めねばならんのかって》
「怪物どころか、魚の一匹もいないものね…」
アニィは静かな海面を見下ろした。彼女の発言通り、魚一匹どころか波の一つも立たない。
周辺大陸からの海路が確立されていることから、恐らく騎士団によって滅ぼされたのでは…と、考えることもできる。
ドラゴンを上回る超巨体のタイダルホエール、海中から獲物を狙う甲殻類型のシーアラクネなど、危険な海棲モンスターは多数いる。
海路上のモンスターの駆除だけならともかく、一匹も見当たらないとなれば、人為的な影響は充分考えられる。
「この辺は海底火山が多いみたいだけど、環境に適応したモンスターもいないもんね」
「クルル…」
地図を見ながら、パルも海面を見下ろしていた。
モンスターは人類や普通の生物が生息できない環境にも適応できる。
海底が高温になったり有毒物質が充満しても、なお生きていけるモンスターはいるはずなのだ。
《まあ人災にせよ何にせよ、今は気にすることも無いでしょ。
パッフ、少し急ぎましょう。だらだら海の上を飛んでるのはヒマでかないません》
「クルルっ」
パッフはプリスの意見に同意し、2頭は飛行速度を上げた。
風を切って静かな空を飛ぶ感覚。時折、巨大な鳥や飛行型モンスターがすぐ近くを通り過ぎていく。
アニィ達と目を合わせては、ドラゴン2頭の威容に怯えて逃げ、あるいは警戒の鳴き声だけ上げて飛び去る。
プリスは退屈だと言うが、加速するドラゴンの背で感じる風圧は、アニィにとって新鮮な感覚だった。
ふと、飛んできた鳥類のふわりとした毛並みに触れようとして、手を伸ばす。
指先が柔らかな羽毛を掠めると、鳥は驚いてバランスを崩し、慌てて体勢を整えた。
心の中で謝りつつ、アニィは指先に残る柔らかさを思い出す。
「鳥の羽って、やわらかいんだね…」
ふとしたアニィのつぶやきは、プリスにだけ聞こえたようだ。
《鳥に触れたのは初めてでした?》
「うん。村にいた頃は、服や髪飾りの羽毛にこっそり触ったくらいしか」
姉や母が行商から買った装飾品にこっそりと触れ、それがバレて蹴り飛ばされたことがあった。
肩や腹、顔まで蹴られた。痛みはさほどでもなかったが、それ以降、家族が買った物に手を出すのはやめた。
今でも服やアクセサリーなどに興味が無いのは、その影響だろう。
「綺麗な景色…」
ふと横を見ると、遥か彼方の島から何羽もの鳥が飛び立っていった。
この広大な海を渡って、どこへ行くのか…アニィ達とはまるで異なる方角へと、鳥の群れは飛んでいく。
朝の太陽に照らされる海の上を、陸の一つも無い海の上を、生き物たちが飛んでいく。
「カゲサキさんも、この景色を見たのかな…」
《修行に来たって言ってましたっけ。見る暇は無かったんじゃないですか。
それに鳥や飛行型モンスターが飛ぶなんて、日常茶飯事でしょうし》
「そっか…」
修行のために渡ったというのなら、他の物に夢中になることは無かっただろう。
この景色の美しさに触れられぬのはもったいないと、アニィは思った。
何ジブリスか後、プリスとパッフが速度を上げて飛行したおかげで、当初思っていたよりも早くボルビアスに到着した。
真っ先にアニィ達が感じたのは、気温を含めたあらゆる温度の高さだ。
念のために島内に誰もいないことを確認し、4人は降り立った。
地面に降りたアニィ達が地表に触れると、土はぬるま湯程度に温かく、周辺には植物がわずかに生えている程度。
プリスが地面に顔を近づけ、土の匂いを嗅いだ。
《火山から出る物質のせいですね。植物が生育しづらい土です…
恐らく有毒物質や金属が、土に混ざっているんです》
「有毒…じゃ、わたし達もすぐに出た方がいい?」
《皮膚接触なら害はありません。しかし、この成分が染み出した水は飲んだり触ったりしないように、念のため。
洗顔なんかも、小隊長殿が持ってきてくれた水で済ませてください》
なるほどとアニィは納得した。少ないながら植物がある。土に水分が含まれている可能性もあるのだ。
そして有毒物質を含んだ土から染み出した水と言うことは、この島の地下水のみならず、それに適応した植物も、人体にとっての毒である。
パルが荷物を改めて確認すると、大きい水筒は7本、小さな水筒は3本入っていた。
少女3人で飲むには多いが、洗顔や体を拭く分も含めれば、このくらいあった方が良い。
「無くなったらパッフに出してもらうしかないか。そん時はお願いね」
「クル!」
アニィ達はプリスとパッフの背から荷物を下ろし、テントを組み立てた。
完成後に軽く手で押し、強度を確認。軍用とあって頑丈であり、ドラゴンラヴァーの腕力でも動かなかった。
内部もアニィとパル2人で寝泊まりするには広い。騎士団の殆どが成人男性なので、充分なスペースを取っているのだろう。
小さい水筒に水を移し、腰に下げる。
「さて。じゃあ大空洞とやらに行ってみようか」
「うん…!」
荷物の中には島内の手書きの地図もあった。地図に沿って4人で歩き、山のふもとに辿り着く。
そこには大きな洞穴が口を空けていた。内部は入り口から1ドラフラプ程度まで見えるが、その先は闇。
地図にはこの洞穴にカゲサキ=ヒナがいると書かれている。この中で彼女は修行しているのだろうか。
何の音も、あるいは動物や怪物の声も聞こえてこない。
「…行こう」
アニィの一言で、全員が意思を固め、洞窟に踏み込んだ。
周辺と同じく、内部も気温が高い。空気中に有毒物質は無いらしく、プリスとパッフからの警告は無かった。
《照らしますね》
プリスが翼を輝かせる。暗闇の洞窟が明るくなり、5ドラゼンほど先までは見えるようになった。
地面は溶岩が冷え、冷えては溶けて変形し…を繰り返したらしく、滑らかな曲面と凹凸が無数にある。
天井まで十分な高さがあり、プリスとパッフが首を上げていても充分に歩ける。アニィとパルは、安全のために相方の背に座った。
「この先でその、カゲサキって人が修行してるんだよね。
地図だと…一番奥が広くなってるらしい。多分そこだ」
パルが地図を見ながら説明する。有難いことに、地図にはダディフの手書きの洞窟内部図解もあった。
洞窟の地面は、奥に向かって緩い下り坂になっている。
磨き上げられたような滑らかな地面と合わせ、迂闊に走れば滑って転びそうだ。
アニィを乗せたプリスが前を歩き、4人は奥へと向かった。
湿気が強く、高い気温と合わせ、たちまちのうちにアニィとパルの服や髪がべたつく。
軽く手で仰いでも、顔にかかるのは蒸れた空気だけだった。
「空気が籠ってる…外より暑い…」
アニィ達が着ている服は、安全のために頑丈な長袖長ズボンで、更にマントまで羽織っている。
汗が出るのも道理である。
「修行以前に脱水症状とか起こさないのかね、カゲサキさんとやらは」
「亡くなってたらどう説明しよう…」
「そりゃ、そのまま言うしかないんじゃない?」
こんな洞窟に住んでいるのなら、確かにその可能性が無いわけではない。
アニィは僅かに青ざめ、パルも不安そうに顔をしかめる。
歩いていくと、地面のひび割れの隙間に、溶岩の赤い光が見えるようになった。
高温で地面の岩石が溶け、ところどころが溶岩と化している。迂闊に人間の足では立てない温度だ。
それに合わせ、洞窟の天井も高くなっていった。同時に、天井からも時折溶岩がしたたり落ちるようになった。
当然温度も高くなる。代わりに水分が失せ、空気が猛烈に乾燥している。毒性のガスなどは漂っていないようだ。
アニィ達が『ドラゴンラヴァー』でなければ、この暑さには耐えられないだろう。最奥部が近いことがわかった。
果たして、4人は大きく開けた地点…最奥の大空洞に到着した。
空洞の中央には、直径1ドラフラプほどの溶岩の湖がある。
その中心部―――溶岩の真ん中に、人が立っているのが見えた。
否、よく見るとその人影の足元に黒いものが見える。左右対称に1対の光り、後方に伸びるいくつかの円錐が見えた。
形状から、角が生えたドラゴンの頭部だと判った。光っているのは目だ。
その人物は背筋をピンと伸ばし、僅かに反った長大な片刃の剣を構え、ドラゴンの頭部に立っている。
一方のドラゴンは顔以外を殆ど溶岩の中に沈めていた。
プリスとパッフでも、そんなことをしては全身が溶けてしまうだろう。
だが、そのドラゴンは余裕しゃくしゃくで溶岩に浸かっていた。
溶岩の輝きを受けて、僅かに赤く光る黒髪。ゆったりしつつ動きやすい、東方の国特有の装束。
黒いドラゴンを連れ、修行のために大空洞に入った少女。人相書き通りの人物、カゲサキ=ヒナであった。
「生きてた…」
《良かったですね。じゃあ早速連れて―――》
行こう、とプリスが言いかけた直後。ヒナの目の前で溶岩がうごめいた。
何が起こったかと見守る4人の前で、溶岩の中から巨大な怪物が飛びだした。
「あれ、先生に聴いたことある! 溶岩の中に生息する怪物、マグマザウラーだ!」
「クルル!」
センティが若い頃に旅の道中で出くわしたという、溶岩内部に生息する巨大な爬虫類だ。
余りの熱で脳の機能に異常をきたしたらしく、似た種類の怪物と比べて極めて凶暴かつ攻撃的だという。
その体躯の大きさ、そして戦闘能力もドラゴンに匹敵する程だ。
マグマザウラーは飛びだし、ヒナに襲い掛かった。思わず、アニィは叫びそうになる。だが。
「―――ハァッ!!」
アニィ達の目には、銀色の弧が一瞬だけ映った。ドラゴンラヴァーでなければ見逃す一瞬だ。
直後、大上段からの一閃でマグマザウラーの体は真っ二つに両断され、再び溶岩に没したのである。
早さ、威力、精緻さ。どれをとっても極めて高いレベルまで鍛えられている。
ヒナは恐るべき剣技の持ち主であった。




