第十七話
パルは飲料のグラスを手に取る。薄く桃色がかった液体の中で、茶葉がわずかに踊っていた。
「これは何だろ。お茶かな?」
「えっと…ワイルドローズベリーティー、だって。特に名物とかじゃないみたいだよ、説明も無いし」
メニュー表の説明によると、百合の花や野ばら、野イチゴの果汁を混ぜた紅茶ということだった。
二人が初めて見るこれは、少なくともシーベイ街を含む周辺国家では一般的なものらしい。
しかしヘクティ村では一度も飲んだことが無い。
畑どころか、村一帯と周囲に果物は殆ど生えず、行商人も持ってきたことが無かった。
アニィは試しに一口飲んでみた。わずかに酸味を伴った爽やかな甘み、野の花の優しい香りが口中に広がる。
「これもおいしい…パルも飲んでみて」
「どれどれ、ぐびり。あ、美味しいじゃんこれ!」
「こんなおいしいお茶があるんだ…ていうか、果物のお茶って実在したんだね」
「ね。しかもこれがその辺で飲めるって、あの村どんだけ僻地なのさ。チャム達にも届けてやんないとなあ」
二人は獣の肉と野菜、そしてパンと苦い茶ばかりで生活するであろう子供達のことを考えた。
仮に邪星獣の襲撃が無かったとしても、あんな場所では健全に育たないだろう。
今も学校で寝泊まりするチャム達が心配になる。
《あの村、何ネブリス年か前はそこそこ栄えてたんですよ。
付近に輝ける鋼と顕現石が採れる鉱山があって、大きな街も作られたんです》
当時を知っているらしいプリスの話に、二人は驚いた。
「プリスはその頃からいたんだね…じゃ、今はなんであんなになったの?」
《このシーベイの方が海から近くて、貿易を含めた人の出入りが多かったんです。
わざわざ山奥に行くより、人が集まる所に街ができるっていう、まあただの必然ですよ》
「鉱山はどうなったのさ?」
《とうの昔に閉山しましたよ。ただ、鉱物はどちらも残ってます。売れば多少は生活が潤うでしょうね》
二人はそれぞれセンティから受け取った装備を見た。
アニィの左腕のブレスレットを形作る金属、そして埋め込まれた宝石。これによって邪星獣の攻撃を防ぐ盾を生んだのを思い出す。
「この石が顕現石…?」
《ええ。そのブレスに刻まれた文字は盾を作り出す魔術ですね。魔力を籠めれば自動的に盾が出てくるわけです》
「それをあんな村で作ったのか。先生と子供達が…すごいなあ」
《ちびっ子どもとダンディに感謝することですね》
センティと子供達が用意してくれた武具もマントも、僻地の手作りとは思えぬほど上質である。
改めて、アニィとパルは内心で彼らに感謝した。
食事を終え、アニィは浴室で湯船につかっていた。岩石を彫り、艶が出るまで磨き上げた湯船だ。
その間にパルが食器を1階の受付に返しに行っている。
地下水を井戸で二階まで組み上げ、使い終わったら底の栓を抜いて再び地下に捨てる方式だ。
店主曰く、金属でパイプを作り、二階から地下までつなげているという。
湯を沸かすときは、湯船の下のかまどで燃料の薪を燃やす。
火の魔術を使えない時のため、アニィが村で使っていた物と同じ火起こし用の金属棒もあった。
湯船の底には、直に座って火傷しないよう、厚い木の板が敷かれてあった。
岩石の湯船は保温性が高く、備え付けの蓋さえ乗せておけば翌朝くらいまでは温度が保つという。
(海が近いから、湯船が作れるくらいには水に困らないのか…)
ヘクティ村では、プリスがいた湖や離れた場所の川で水を汲み、沸かした湯で体を拭いていた程度だ。
こうも大量の湯につかることなど、一度としてなかった。
アニィは窓に顔を寄せ、隙間から外を覗いた。こちらもドラゴン用の大部屋とつながっている。
プリスはどうやらパッフと話しているらしい。パッフの方が人語を話さないため、会話の詳細な内容は分からない。
ただ、どうやらアニィに関することを話しているらしい。
「クルル~」
《なるほど。アニィには申し訳ないことをしましたね…ただねぇ、私にも心当たりなんて無いんです》
「クルクルっ!」
《んなこと言われても。だいたい、あなただって騎乗を拒否したでしょうに》
「クル~」
《あーはいはい、しょげなくていいですよ。一番悪いのはあの村のすっとこどっこいどもなんですから》
(……何の話だろう?)
首をかしげ、アニィはふたりの会話を聞き続けた。ドラゴン同士の会話という、稀に見る光景である。
が、湯船につかっているうちに頭がぼうっとしてきた。入浴前にパルが言っていた「のぼせる」という状態か。
体に良くないようなので、アニィは一度湯船から出て、植物で作られたスポンジで石鹸を泡立て、髪や体を洗う。
体の洗い方については、パルが事前に店主に話し、手順を教えてもらっていた。
僻地も僻地の村から来たことに対し、店主は笑いもせずにこやかに教えてくれた。
このように体を洗うのも初めての経験だ。衛生面を考えると、村に残して来たチャム達には石鹸も送らねばなるまい。
手桶に汲んだ湯で泡を流し、もう一度湯船につかる。
少し経ってから湯船を出て、髪と体を柔らかな布で拭き、備え付けの寝巻を着て歯を磨くと、浴室を出た。
着ていた服は受付でヤードに頼み、宿の隣の洗濯屋に預けてある。
翌朝には洗い終えて届くことになっていた。
「お風呂空いたよ、パル」
寝間着姿のパルはベッドに座り、広げた広域地図に鉛筆で線を描いていた。ルートの大まかな計画だろう。
「どうだった、お風呂? 気持ち良かった?」
「うん。何だかすごく体がほぐれて、全身綺麗になった感じ」
「そりゃ楽しみだ。じゃ、入ってくるね」
入れ替わりでアニィはベッドに座り、広域地図を見た。北方へと向かうルート上には、聞いたことも無い大陸や国家の名前が並んでいる。
これから、この世界を渡り歩き、邪星皇を斃しに行く…楽しみでもあり、不安でもあった。
横の窓から、プリスが同じく地図を覗く。
《さっきパルから相談がありましてね。おおよそのルートはその通りです》
「じゃ、この終点に…」
《邪星皇がいるはずです》
線の終点には『星を呼ぶ丘』と書かれていた。正式な地名であろうか、アニィには判らない。
《あくまで先代からの知識ですが、邪星皇が来るのはそこだろう、と》
計画では、そこが旅の終点となる筈だ。
線の途中に並ぶ国名、大陸の名を、スタート地点であるシーベイ街から順に確認していく。
城塞都市ヴァン=グァド、政権都市オーダム、マウハイランド山脈、アイゴール大雪原…
初めて見る地名ばかりだった。
幾つかの地名の横に、先刻立ち寄った『厄介事引受人協会』のエンブレムが描かれていた。
計画上のルートでは、主にそれらの協会のある都市や国家を経由している。
本部はオーダムにあるらしく、エンブレムが少し大きめに描かれていた。
「そっか。支部でサポートを受けられるから…」
《いろいろと便利でしょうからね。それにもし同行者が増えたら、その人らも一緒に入会できますから》
「なるほど…そうだよね。プリスもパルも頭いいね…ごめんね、役に立てなくて」
《アニィは村の件で心身ともにお疲れでしょ。今は休んでもらった方が良いんですよ》
村人に怒りをぶつけた時、アニィの感情は今までにない程に爆発した。
次いで初めて村の外に出たことの幸福感で、胸の内は幸福感に満たされた。
僅か数ジブリス(数時間)の間に、すさまじいほどの感情の振れ幅で、心身ともにすっかり疲労している。
夕食も入浴も終えて、歯も磨いた。今日はもうやることが無い。
「そうだね…ふぁ…」
地図を横に避け、アニィは脚を伸ばして仰向けに寝転がった。
いつも眠っていた物置の、狭く冷たく硬い床などとは違う、動物の毛と少し硬めのマットの感触。
パルの家にもこのようなベッドは無かった。初めての寝心地の良さに、たちまち眠気が深まる。
話しかけるプリスの声もやや不明瞭になってきた。ここまで心地よい眠気は初めてであった。
そこに浴室のドアを開け、パルが戻ってきた。湯船の温かさに頬が上気している。
「お、そろそろ寝るとこ?」
「んー…」
《ちょいと早いですが、今日はもうお休みにしましょうかね。アニィ、おやすみなさい》
「おぁすみ…」
寝ぼけ気味にプリスに返すと、あっという間に眠りに落ちる。
最後にかすかに聞こえたのは、同じく就寝のあいさつを交わすパッフとパルの声だった。
「クルル~」
「おやすみ、みんな」
返事をしたかどうかも判らず、アニィの意識は完全に眠りの中に落ちた。




