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海原に光を投げかけて

作者: 入谷利仁

 「光あるうち光の中を歩め」とは誰が言った言葉であろうか?それの正しさを実感する反面、本来の意味とはきっと違うんだろうなぁ、と檜木は思った。


 檜木は、林の奥から滲み出る僅かな街灯の光を頼りに、風でざわめく夜道を一人歩いていた。

 昔からホラー映画や怪談などはめっぽう苦手だった彼女は、葉がぶつかり合うような音すら不気味に感じ、さらに歩くたびに背から差す光が、道沿いにある墓石に反射するたびに心臓が縮み上がるような感触を得ていた。

 以前は、木々を燃やすような夕焼けの中を、足元の木の根や土の盛り上がりに苦労することなく獣道を歩いていたのだが、この道を歩く理由がすっかりなくなってしまったために、ここを歩くのも久し振りというものだ。


 檜木は二カ月前に部活を引退していた。

 吹奏楽部に所属していた彼女は、関東大会で銀賞というまずまずの結果に背中を押されて後輩たちのもとを去り、今は大学受験に向けてペンを握り参考書をめくる毎日を過ごしていた。だが進路は未だ確定せず、何がやりたいという希望もないまま漠然と勉学に励み、周りが自分のやりたいことに向けて全力で取り組んでいるのを横目に、どの科目の教本を取るかすら苦慮する有様だった。

 そんな状態で勉強が捗るはずがなく、机に突っ伏して気分転換できるものは何かないだろうか?と考えた末、「クラリネットを吹こう」と唐突に思い立ち、やや埃の被ったクラリネットケースを手に、部活を引退してから一度も行っていない海岸へと足を運んだのだった。


 そう思い立つのがもっと明るいうちだったらよかったのに、とひとりごちてたら思い浮かんだのが先ほどの言葉だった。

 ただでさえ風によって何もないはずの気配を感じざるを得ないのに、夜空を覆う雲の群れが視界を不確かにするせいで、余計に音に対して神経が敏感になってしまっている。部活があった時は毎週のように通っていたこの道も、夜になっては知らない世界同然で、木の根に躓くたびに、死体の腕を蹴ってしまったのではないだろうか?それとも誰か暗がりからこっちを見ているんじゃないか?という在りもしない妄想に一喜一憂しながら足早に進んでいった。

 そうしているうちに海岸線の灯りで照らされた空の色が視界の先に見えてきたことで、檜木はようやくホッとした。僅かではあるがある程度周りが見えるし、開けてることで風が枝を揺らす音も遠くなって、何者かの存在を心配せずにすむのは有り難いことだ。

 彼女はケースを下すと、暗闇であるにもかかわらず手慣れた手つきでクラリネットを組み上げていく。そしてリードを口に含んで湿らせようとするが、ここに来るまでの間に乾いてしまっていて、すぐにはうまい具合にいってくれない。それが終わると、レガチャーに噛ませて、ちょうどいい位置に来るように指で支えながら固定し、音を出してみる。

 何度か音出しをしたあと、檜木は曲を吹き始めた。

 ぼぅ、とした音に続いて緩やかに柔らかい音が奏でられる。波の音がタイミングよく重なると、ピアノ伴奏のようでうれしくなる。彼女が吹くのは、今こそ出てはいないが、月の夜の軽やかな寂しさが表現された曲で、夜の海岸という舞台にはぴったりの曲だった。

 彼女はこの曲の穏やかで優しいところが好きだ。吹くとなんだか心が落ち着く気がするのだ。貯めた小遣いで中古のクラリネットを買ってすぐに吹いたのもこの曲だった。

 そんな想い出とともに曲は終わりを迎えた。海原が音を吸い取ってしまったかのようにベルから飛び出した音色は消えていった。


 遠くに運ばれた音を見送るように対岸の灯りの連なりを見つめていると、唐突に後ろから声が投げかけられた。

 「その曲好きだよね、ひの姉」

 一気に現実に引き戻されたかのような感覚に、うおっという間抜けな声が漏れてしまう。

 振り向くと、檜木の幼馴染である恵美が立っていた。

 「…なんだ、めぐか。久しぶり」

 恵美は二歳年下で、檜木と同じく吹奏楽部に所属している。彼女は日曜だというのにこんな時間まで学校に行っていたのか、まだ制服姿から着替えておらず、夜の潮風に吹かれた膝が冷たそうだった。

 「ほんと、久しぶりだよね。朝練あるから全く時間合わないし。寝放題じゃん」

 この半年の間、吹奏楽部の朝練のために二人は揃って出かけていたが、檜木が引退していらい、近所に住んでるにも関わらず、なかなか会うタイミングが無かった。

 「その代わりベッドから出れなくなる呪いにかかるよ~。いま部活終わったの?」

 「そうそう。自転車止めてたらクラが聴こえてきてさ。おかげで私も吹きたくなっちゃって」

 そう言ってトランペットケースを見せてくると、恵美は笑顔でこう提案した。

 「ね、あれ吹かない?"ドナウ"」

 それは檜木たちの吹奏楽部が最後に演奏した曲だった。

 檜木たちは一、二と数えると、息を吸い込んだ。


 二人は吹き終わると、砂浜にしゃがみ込み、打ち寄せる黒い波を眺めていた。

 「ひの姉、進路どうするの?」

 とぽつり恵美が漏らす。

 家や学校でもずっと言われてる話であっただけに、檜木は渋い顔にならざるを得ない。

 「うーん…」という音だけが口から出ていった。

 「えっ、まだ決まってなかったの?」

 「現在検討中であります」

 返す言葉もないため、ついふざけた口調になってしまう。手を打ち寄せる波に近付けるが、結局触れることなく引っ込めてしまう。

 「てっきり音大行くのかと思ってた。ほら、ピアノ上手だし」

 檜木はクラリネットを演奏する側ら、小さい頃から続けていたピアノもやっていたのだった。確かに自分でもピアノは上手い方ではあるとは思ってたが、クラリネットほど思い入れがあるわけでもないので、それで音大に行こうという考えは起きなかった。今まで音楽一本でやってきただけあって、そこから外れると一気に道が見えなくなるのが彼女の悩みの種だった。

 「普通に大学か専門かなぁ」

 就職したいものも特にないので、結局その逃げ道を選んでしまうが、それにすら迷うようなありさまだった。それを聞いた恵美は空を見上げていたが、先ほどと変わらず星は見えないようだった。

 「ふぅん、私はもうすでに決まってるからなぁ。進路とか考えるの楽しそうだなって思う」

 「そう?あらかじめ決められてる方が楽だと思っちゃうけど」

 恵美は実家が旅館であるため、ほとんど最初からその進路は決められていて、檜木の持つような悩みは抱いたこともなかったはずだ。だが口ぶり的に満足しているわけではないらしい。確かに彼女のトランペットの技術は、一年生ながら群を抜いていて、旅館の跡継ぎなどでなければ音楽方面で食べていくことも出来るのではないだろうか、と檜木が思うほどで、それを活かしたいと考えるのは自然なことだろう。

 はぁ、と吐き出した空気が白っぽくなる。ついこの間まで温かかったのに、すっかり季節も変わり始めていた。

 「ひの姉も三月で卒業かぁ。都会で一人暮らしとかしちゃうのかな?」

 「何も決まってないけど、多分ね」

 自分が一人暮らししている姿を想像してみるが、恵美がいなくなってしまう生活はどうしても思い描けない。二カ月も会ってなかったのに、こうして話していると、この二カ月間も今みたいに過ごしてきた気がしてくる。

 そんな考えもよそに、恵美は無邪気に笑った。

 「そっか。じゃあ、都会の味がするお菓子とか楽しみにしてるからね!」

 その答えが檜木には寂しかったが、勝手に顔が笑い出すのを感じた。

 「都会の味って、なにそれ。めぐ、語彙力無さ過ぎ」

 「だって知らないんだからそうとしか言えないじゃん!」

 「あはは!」

 楽しいはずなのに、なぜか笑い声が乾いた空に虚しく響いていく。

 恵美は、どこか困ったような顔で微笑んで、呟いた。

 「…またここで、ラッパやろうね」

 「どうしたの、急に」

 恵美の求めるようなまなざしに戸惑ってしまう。きっと声が上ずったのもそのせいだろう。

 「だって私、ひの姉ともっとラッパ吹きたいから」

 恵美は口が下手だ。でも同時に、相手に何かを伝えることに関して彼女の右に出るものはいないと檜木は思っていた。だからトランペットが上手いのかな、と心のどこかで思った。

 彼女は昔から楽器のことをなんでもラッパと呼ぶ癖があり、檜木はなぜだかむしょうに懐かしくなった。

 「そっか」

 彼女はそれ以上何も言わなかった。


 「さむっ。そろそろ帰ろうか」

 「そうだね」

 気がつくと、二人の頭の上に浮かぶ雲の切れ端から、じわりと月の輪郭が出てきていた。

 二人分の落ち葉を踏む音が、静かな木々のなかで冴えわたる。

 夜闇に目がなれたのか、あるいは背中ごしに聞こえる足音のお陰か、檜木は来たときほどの怖さは感じなかった。


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