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2.転移

 何の音もしなかった。

 何の光も感じない。

 感じるのは、ただ身を切るような寒さ。

(……寒い……)

 その寒さで、エリーゼの意識がゆっくりと浮上した。


(ここは……?)

 ぼんやりと、目の前の速度計を眺める。身じろぎすると、体中の関節がギシギシときしむような感じがした。エリーゼは、自分が車の運転席に座った姿勢であることに気がついた。

 と、急に記憶がはっきりして、はっと目を見開いた。


(わたし……!)

 自分の状況を思い出し、ガバッと身体を起こした。

(寒い……!!)

 身体が冷えきっていた。両腕で自分の身体をさすり、真冬のような寒さに首をかしげながら、エリーゼはあたりを見回した。


(ここ……どこ?)

 胸の中が、すうっと冷えた。

 あたりは真っ暗で、光源としてあるのは、空に浮かぶ満月だけ。それでかろうじて、あたりの様子が分かる。


 エリーゼの目の前には、一面の雪景色が広がっていた。

 そこは、深い森の中だった。

 白く凍結した道があり、車はその真ん中に停まっていた。道の両側には、厚く氷をまとった森がせまっている。

 エリーゼが走っていた、自宅から街へ続く道ではない。


 自分の吐く息は白く、吸う外気は冷たく肺を灼いた。本の中でしか見たことのない雪を、エリーゼは呆然と見つめた。エリーゼの住む地域は温暖な気候に恵まれていて、冬でも積雪はない。


 エリーゼはドアを開けると車を降りた。

 見知らぬ場所。もしかしてここは、本でよく見る、剣と魔法の世界というものでは……。

 エリーゼがよく読む小説では、主人公たちは、自分の住む世界から別の世界に飛ばされて、そこで冒険を繰り広げていた。


 もし、自分もそうだったら。

 これから、スノードラゴンやらアイスドラゴンやらが現れて、いつの間にか身についていた強大な魔法の力を使って、戦うことになって……。


 寒さに震えながら、エリーゼがそこまで妄想した、そのとき。

 道の向こうに、かすかな白い光がちらついた。

(あれは……)

 まさか魔物?

 今の自分には、水色のゼリー寄せみたいな魔物くらいしか倒せそうにない。いや、武器もないし、それも無理かも……。

 やや黄色がかった、小さな二つの光が近づいてくる。


 見慣れたそれに、エリーゼは何であるかすぐに見当がついた。

 魔物ではない。

 車のライトだ。

(剣と魔法の世界じゃなかった……)

 車が走ってくる、と思ったら、今いる場所が急に現実味を帯びた。エリーゼは、肺の中の空気を一気に吐き出した。


 車のライトは急速に近づいてきた。

 と、突然、その車が減速した。

(?)

 乗っている人の姿がまだまったく見えないほど距離で、その車は止まった。

 エリーゼが首を傾げながら見ていると。

 何の前触れもなく、エンジンの爆音が、その場の空気を揺るがせた。


(!)

 車が、エリーゼめがけて突進した。

(え!)

 予想外の動きに、エリーゼの頭が真っ白になる。逃げようにも、足が固まって動かない。

 衝突寸前、突然身体が反応した。横に跳んだエリーゼのすぐそばを、車がとんでもないスピードで走りぬけた。


(何? 何で!)

 車はすぐに方向を変え、エリーゼに向かってくる。

(殺される……!)

 道に手をつき、急いで立ち上がった。そのエリーゼに、真昼のような強い光が浴びせられた。


(!)

 あわてて光の方を見ると、目のくらむようなヘッドライトの向こうに、大きな黒い車がみるみる迫ってくるのが見えた。

 そのとき。

 エリーゼの視界のすみを、緑色のものがよぎった。


(え?)

 道の横から飛び出してきたそれは、月光を反射して、甲虫のように不思議な色彩を放っていた。

 エリーゼは目を疑った。

(お、同じ車?)

 それは、鮮やかな緑色の車だった。エリーゼのものとまったく同じ形。


 ただ一つ、今のエリーゼの車と違うのは、布製の幌が屋根にかかっていることだ。

 その車は、黒い車の動きを阻止するかのように、エリーゼとの間に割って入った。

 黒い車は、緑の車を避けて急に進路を変え、エリーゼのいる場所から大きくそれた。


 呆然とするエリーゼのすぐ横に、緑の車はきれいに旋回して止まった。

 助手席側のドアが、中から開いた。

「乗れ!」

 若い男の声が聞こえた。

「乗れ! 早く!」

 一瞬迷った。だが視界の端で、黒い車が動くのが見え、エリーゼは緑の車のドアの中に駆けこんだ。


 車の中は、春のように暖かかった。エリーゼが乗り込むと、触れてもいないのに、車のドアが勝手にバタンと閉まった。

(?)

 驚いてドアを凝視したエリーゼに、運転席から声がした。


「ドアは俺が操作してる」

 エリーゼは運転席に顔を向けた。

 そこに座っていたのは、息を飲むほど整った顔立ちの男性だった。

 多分、エリーゼより少し年上。暖かみのある色合いの金髪に、明るい緑色の瞳。彫像のような、どこか人間離れした容貌の男性がエリーゼを見つめるその瞳は、こんな状況なのに冷静で落ち着いていた。


 口を開こうとしたエリーゼより先に、青年が言った。

「ベルトしてくれ」

 青年の声と同時に、エリーゼの座席の肩の部分から、太いベルトがひとりでに斜めにすべり下りて、腰の横にある金具にカチンとはまった。

(!)

 そのときエリーゼの耳に、この車のものではないエンジンの音が響いてきた。フロントガラス越しに見ると、あの大きな黒い車が、こちらに向きを変えようとしていた。


「逃げるぞ」

 次の瞬間、車が急発進した。

 エリーゼの後頭部が、革張りの座席の背に勢い良くぶつかる。

 車は、道のわきの木立の中に突っこんだ。

 背後からは、あの黒い車のエンジン音が迫っていた。とびこんだその場所は、急な下り斜面だった。うっそうとした森の中、エリーゼを乗せた緑の車は、とんでもないスピードで斜面をかけおりていく。


 エリーゼの目の前を、そびえ立つ大木がたて続けに通りすぎる。車は、間一髪のところでそれを避け続ける。しかし、黒い車のエンジン音は、すぐ後ろで聞こえている。まったく引き離していない。むしろ、近づいてさえいるようにエリーゼには思える。

「少し車の形を変える。心配するな」

 落ち着きはらった声で、青年が言った。と、エリーゼの目線が、がくんと持ち上がった。


(え?)

 車高が上がった。と同時に、斜面をなかば滑っていた車の挙動が安定し、地面をグリップしている感触が伝わってきた。

(タイヤが変わった?)

 しかし、こんなに瞬時に、しかも走行中にタイヤを交換できるわけがない。


 と、疑問に思うエリーゼの目の前で、ダッシュボードや車のドア、その他見えている部分が溶けたように柔らかく変形した。そして、その部分が脇からするすると上に伸びていき、布の幌で覆われていた場所に、硬質な屋根を作った。

 それらの変化が、まばたきするくらいの速さであっという間に行われた。


 車は、斜面を駆け下りるスピードをさらに上げる。

 が、黒い車は、そのスピードをものともせずに、後ろにぴったりついてくる。

 突然、エリーゼの視界を、巨大な木の幹がふさいだ。

(ーー!)

 エリーゼは呼吸を忘れた。ぶつかった、そう確信した。


 次の瞬間、身体がドアに打ちつけられた。

 車が急に方向転換したのだ。エリーゼからドア一枚隔てたところをかすめて、巨木が飛び去っていく。

 一瞬の間をおいて、エリーゼの後ろで大きな音がした。

(!)

 振り向くと、黒い車が、巨木の乗り上げるような格好で衝突していた。


 車はそのまま横倒しになり、地響きをあげながら、斜面を転がり落ちていった。

 窓ごしに、エリーゼはそれを呆然と見つめた。

「……また別の車が来るかもしれない。急いでここから離れよう」

 運転席の青年は静かにそう言うと、斜面を再び登りはじめた。

「……別の車って……?」

 そのエリーゼの問いには答えず、青年は違うことを言った。


「さっきの場所へ戻ろう。あんたの車を回収する」

「……回収?」

 斜面を登りきって道路に出ると、車は元の車高に戻った。何の前触れもなかったので、エリーゼはまた驚いてしまった。

(何なの、この車?)

 道路の上には、この車とまったく同じ外見の車ーーエリーゼの車が、ぽつんと停まっている。


「あの、回収って……?」

「あんたの車を、ここに置いてはおけない」

 緑の車は、停まっているエリーゼの車に、前方からゆっくりと近づいた。コツンと接触したかすかな振動が、エリーゼの座るシートに伝わってきた。

 と、次の瞬間、前を見ていたエリーゼは息を飲んだ。


「わたしの車が!」

 二台の車の接触した部分が、溶けたように融合した。そして、エリーゼの車のボンネットが、柔らかく歪んで小さくなっていく。

 逆に、青年の車の方は、デザインは変わらないが全体に大きくなり、車室内はゆったりしたレイアウトになった。外観は、前後に銀色のバンパーが形成され、後部トランクルームの上には、高速時に車の浮き上がりを防ぐための、羽根のような形をしたスポイラーが付いた。


 それと同時に、やがてエリーゼの車は、溶けたロウソクのように小さくなり、すべて吸収されてしまった。

「大丈夫だ、あんたの車はあとで元通りにする」

「元通りに……?」

 青年はそれには答えず、すぐに車を発進させた。

 音もなく、車は滑るように走り出した。文字通り、ほとんど音はせず、その静かさにエリーゼは驚いた。そして、姿を消してしまった自分の車がどうなったのか気になって仕方がなかった。


 が、口を開いたのは、そのことではなく、別のことを言うためだった。

「助けてくださって、ありがとうございました」

 頭を下げるエリーゼを、青年は顔を動かさず目だけで見た。

「礼は必要ない。俺の仕事だから」

「仕事?」

「あんたを守るのが、俺の仕事だ」

(は……い……?)

 エリーゼは、まじまじと、青年の横顔を見つめた。


 煌めく金髪に、緑色の宝石のような瞳が、整った顔立ちを彩っている。加えて、先ほどの『君を守る』宣言。

(物語の中の騎士役にぴったりだな、この人……)

 では、この場合、お姫様役は自分か。いや、でも全然柄じゃないな……と、こんな状況なのにエリーゼは思った。


「あの、助けて頂いたことは大変感謝しておりますが、見ず知らずの方に、そこまでして頂くわけには」

「俺が来たのは、あんたを元の場所に帰すためだ」

 青年は、感情を交えない静かな声で言った。「…元の、場所?」

 聞き逃せない言葉を捕らえて、エリーゼは聞き返した。が、彼は前を見たまま何も言わない。


 ーー元の場所。ではここは、エリーゼがいた場所とは違うということだ。

「あの、ここがどこなのか、教えて頂けませんか」

「…悪いがそれは言えない」

 そっけない答えが返ってきた。

「では、さっきの黒い車は」

「それも言えない」

 とりつく島もない、とはこのことだろうか。

「俺があんたを元の場所に帰す。だからすまないが、このまま一緒に来てくれないか」

「帰す、とおっしゃるのは、わたしが帰る方法があるということですか?」

 エリーゼは質問を変えてみた。


「【門】をくぐれば帰れる」

 あっさりと、青年はこの質問に答えた。

「門、と言っても、家の前にあるような門が実際にあるわけじゃない。ただの名前だ。だが、そこを通れば、元の場所に帰れる」

 にわかには信じがたい話だった。が、エリーゼが突然この場所に来たことも、人に話せば信じてもらえないような話だが。


「もう一度頼むが、俺と一緒に【門】まで行ってくれ」

「……」

 この雪山の中に一人で車から下ろされても、すぐに凍死してしまうだろう。

 このまま、物語の中のお姫様よろしく、騎士に守られておとなしくついていくしかないのか。だがエリーゼには、他にとるべき道が思いつかなかった。


「分かりました……」

 不本意ながら、エリーゼは了承した。すると運転席の青年は、エリーゼに目を向けて、ありがとう、とつぶやいた。

 いや、わたしがお礼を言われることではないと思うけど……と、エリーゼは、例えば騎士に護衛を許す姫のような気持ちにはとうていなれず、ひどく落ちつかなかった。


 

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