1.夜会
「……疲れましたか、姫君」
ダンスを踊り終えて、エドガーが小さな声で問いかけてきた。
「いえ。大丈夫です」
薔薇色に塗った唇でにっこりと笑みを作り、エリーゼは答えた。だが心の中では、
(姫君って誰よ!)
と即座に突っ込みを入れていた。
そんなエリーゼだったが、頬からは赤みが失せ、疲労の色がにじんでいた。踊り慣れないダンスのせいでもあり、久しぶりの夜会に気疲れしたせいでもあった。
「あちらで休みましょう」
エドガーは、エリーゼをダンスフロアの端に連れて行くと、アルコールではなく水の入ったグラスを持って来させてエリーゼに差し出した。
「ありがとう、ございます」
酒が飲めないエリーゼにとって、この気遣いは有り難かった。なので、素直に感謝の言葉を述べた。
エリーゼは、グラスを口に運びながら、隣に立つエドガーをちらりと見た。
背が高く、精悍な顔立ち。年齢は、十六歳のエリーゼより十以上も離れた、二十七歳。
「……他の方の夜会では、あまりお見かけしませんよね」
ふいにエドガーが口を開いた。
エリーゼは、曖昧に微笑みを作った。社交が苦手なエリーゼは、あまりこういった場に参加していなかった。今日は、父の古い友人が主催の夜会だったため出席したのだった。
「実は以前から、貴方にお会いしたいと思っていました」
エドガーに言われ、エリーゼも社交辞令として、わたしもですわ、と微笑んで答える。
「……貴方のような方が、私のパートナーになってくださると嬉しいんですが」
(へっ?!)
女性に対してのリップサービス? でも、それにしては少々軽すぎない? エリーゼはとっさに何と返答していいか分からず、口を開けたままになっていると、ちょうど広間で演奏されていた音楽が終わり、二人に静かな間が落ちた。
そのタイミングで、今日の招待客の一人が、エドガーを見つけて近づいてきた。
エドガーは、にこりと微笑んでエリーゼに礼を取ると、その客の対応に移っていった。エリーゼは、彼の真意が掴めないまま、しかしそのことに安堵して、一人で密かに大きく息をついた。
翌日。
「疲れた……」
自室の長椅子の上で、エリーゼは誰にはばかることなくつぶやいた。
昨日の夜会での疲労が、まだ抜けていない。
ーーこんなに疲れるとは思わなかった。
エリーゼは、テーブルの上のティーカップを手に取った。そのそばには、一通の書簡が置かれている。それに目をやり、エリーゼはカップに口をつけないまま戻すと、かわりに書簡に手を伸ばした。
それは、今朝届いたエドガーからのものだった。
ーー内容は、茶会への招待。
(昨日の今日で、早すぎない?)
必死に結婚相手を探しているのだろうか?
(独身の女性に、手紙を送りまくっているとか……)
しかし、エドガーほどの富豪なら、女性の方から結婚の申し込みが引きもきらないはずだ、と思い直す。
エドガーは、エリーゼの父と同じ業種の会社を営んでいた。
同業とは言っても、傾きかけた父の会社とは比べるべくもなかった。エドガーの会社の業績は、今や業界のトップだ。
エリーゼの父、カール・ロードシュタインは、自動車の製造で財を成していた。
今の時代、最新の乗り物は、やはり馬車よりも自動車だった。
馬よりも力があり、長い距離を走れる。馬を飼い、世話をする必要もない。液体燃料の費用はかかるが、馬の維持管理の費用に比べれば、はるかに安くすんだ。
馬車を所有できる上流階層の輸送機関として、自動車はもてはやされた。
だが。
人気のある商品であるぶん、競争も激しかった。
エリーゼの父が、車の駆動機関に液体燃料のエンジンを採用していたのに対し、エドガーは、電気式の発動機を開発したのだった。
自動車はまだ作られはじめたばかりで、ガス・液体燃料・電気など、その主流となる駆動力は、まだ定まってはいなかった。
液体燃料のエンジンが黒い排気ガスを吐き、悪臭を出すのに比べ、電池を使用した発動機にはそれがなかった。また、騒音や振動の点においても、電気式の方が勝っていた。
エリーゼの父・ロードシュタインの車は、次第に売れなくなっていった。ロードシュタインも、電気式の発動機を開発しようとしたが、うまくいかなかった。
自動車の売り上げが芳しくなく、事業の負債は少しずつかさみはじめた。
そんなときに出席したのが、昨日の夜会だった。
エドガーからの書簡に、エリーゼは目を落とした。
そこには『お茶でも飲みながら、車の話でもいたしませんか?』と書かれている。
(………)
エリーゼは、眉間に皺をよせた。
エドガーも父も会社で車を造っているのだから、車という言葉出てくるのは分かる。だが、普通は、女性にはあまり車の話は振らないのではないだろうか。いくら父親の会社の製品であっても、多分、会話がはずまないだろう。
ただ、エリーゼはそうではないが。
エリーゼは、車の話をするのが好きだった。
本が好きなエリーゼは、父の持っている技術書もよく読んでいた。活字中毒のエリーゼは常に活字に飢えていて、自分の本だけでは物足りなかったからだ。
技術書に目を通していたせいで、ものづくりに興味があった。だが、そのことを知っている人間は限られている。
このことを、ひょっとしてエドガーは知っているのではないか。だからわざわざ、エリーゼへの書簡に書いて送ってきたのではないのか。
……ただの推測でしかないのだが。
車の話をするのは楽しそうだ、とエリーゼは思う。ただ、同業者であるので、技術の発明に関わるような詳しい話はしないだろうが。
気になるのは、エドガーが自分のことを知っている感じなのに、自分には何の心当たりもないことだ。
そもそもエリーゼは、エドガーのことを何も知らない。父の同業者だから、名前を知っているくらいのものだ。
(こんな書簡を、この私が、まさか現実に受け取るなんて……)
ふと、これが小説の中の出来事だったら、とエリーゼは考える。
(この人が、実は幼い頃の初恋の相手だった、なんて展開ね……)
あいにくエリーゼは、そのような麗しい思い出は持ち合わせていなかった。
書簡を手の中でもてあそんでいると、部屋のドアがノックされた。
「エリーゼ、いるかい?」
父のカールの声だった。
「ええ、いるわ」
ドア越しに、エリーゼは返事をした。
「今、注文していた本が届いたと連絡が来たんだ。早く読みたいから、すまないが、受け取りに行ってもらえないかな」
「本当? 行くわ!」
こんな気分のときは、家でじっとしているより、どこかに出かけて気晴らしするに限る。エリーゼは、父の頼みに飛びついた。
「じゃあ、頼んだよ」
ドアを開けずに父が立ち去ると、エリーゼは、書簡をテーブルの上に戻して長椅子から立ち上がった。
上流階級の令嬢が一人で出かけるなど、普通なら考えられないことだが、そもそもエリーゼの家には、すでに使用人はいなかった。大木な館は売りに出しているものの未だに買い手はつかず、手入れが行き届かずに荒れ放題だった。
そんな館の外に出ると、爽やかな風が吹きつけてくる。漆黒の髪を風に遊ばせるままにして、エリーゼは館の傍らに建つ車庫へ行った。
中には、鮮やかな緑色の、丸みを帯びた形の自動車が停められていた。
普通の車より一回り小さく、座席は二つしかない。座席はイエローブラウンの革、屋根は同色の布製の幌で、開けて走行することも可能だ。
外の光を受けて、こじんまりとしたボディは誇らしげに緑色に輝いていた。それをエリーゼは可愛いらしいと感じ、思わず笑みが浮かんだ。
車は、少し前に父の工場で作った試作品を、譲り受けたものだった。もう型は古く、今の流行からは遅れている。
だがーー父や工場の技術者たちが丹念に手作りしたこの車が、エリーゼはとても好きだった。
(今日は天気がいいから、幌はいらないか……)
屋根の幌を、座席の後ろに畳む。
運転席に座ると、エンジンをかけ、エリーゼは静かに車を発進させた。父に習ったので、一人で運転することができた。
屋根がないせいで、風が直に身体に吹きつけてくる。
(いい天気だなあ……)
日差しが暖かい。こんな日は、どこかにピクニックに行って、木陰でお茶を飲みながら本を読んだら最高だろう。
と、ふいに。
あたりが急に暗くなった。
(?)
エリーゼは、ちらりと視線を上に向けた。日が陰ったのかと思ったのだ。
だが、違った。空に雲はない。
「何……?」
エリーゼは思わず声に出していた。次第にまわりの暗さが増した。日食のときに似ている、と思ったが、日食なら、こんな短時間に急に暗くはならないはずだ。
車の周囲の景色が、闇に沈んで見えなくなる。エリーゼは、あわてて車を路肩に停めた。
が、しかし。
「えっ!」
一度は停止した車が、突然、急加速した。エリーゼの身体が、シートの背に叩きつけられる。
驚いてブレーキを踏んだ。ブレーキペダルはいつもの踏みごたえだったが、車は止まらない。
エリーゼは急いで前照灯を点けた。車の前が二つの灯りに照らされるが、そこには何も見えない。まるで真っ暗なトンネルの中のように。
前照灯に連動して、車のコンパネが明るく光った。速度計と回転計が見える。
「……!」
そのどちらも、針は0を指していた。
このスピードは、車の動力ではない。何かの力が車に働いているのだとエリーゼは気がついた。
漆黒の闇の中を、濁流に飲まれた小さなボートのように車は疾走していく。
ふいに、前方から突風が吹きつけた。
エリーゼは反射的に目を閉じた。
そのとき。
白い光が、エリーゼの瞼を射した。あわててエリーゼが目を開けると、車のすぐ先に、小さな白い光の渦があった。
「何……?」
そのケーキ皿ほどの丸い光の渦は、エリーゼの見る間に膨れ上がり、視界を埋めつくした。
「……!」
エリーゼは、声にならない悲鳴をあげた。疾走する車ごと、エリーゼは白い光の中に飲み込まれていった。