ずるずる
短い話です
「ん?」
ふと、足首の内側に擦り傷が出来ていることに気が付いた。
さっき、歩いているときにでも擦ったのだろうか。ぶつけた覚えはないのだが、と適当にティッシュで拭い、スーツのズボンを履こうと止めていた手を動かした。ベルトは右から三番目の穴で締める。靴下を拾い上げ、足を突っ込む。準備は完了した。黒い靴下だ、血がついてところで心配はない。
まあ、そのうち治るだろう。
姿見でネクタイの歪みを直し、玄関を向かう。いってきます、という声は静かな部屋に空しく響いた。開いた扉から注ぐ太陽の光から目を逸らし、部屋を後にした。
「あれ?」
寝間着代りのスウェットのズボンを脱いだ時のことだった。
あれから二週間は経ったはずだ。なのに、瑞々しい赤がそこにはあった。触るとぬるりとした赤が人差し指についた。雑菌でも入って膿んでいるのだろうか。
だが、痛みはない。
溜息をついて、クロゼットへ。微かな記憶を辿り、少々埃に塗れた薬箱を引っ張り出した。薬やら体温計が乱雑に収まっている中に、青いキャップに白いボトルの消毒液が目に入る。それを適当に擦り傷へと落とす。じわりと傷口が痛んだ。ティッシュで垂れた液を拭いて、はたとする。傷口に黄色い膿のようなものが見えた。やはり膿んでいたのかと思う。けれど、先程消毒はした。流石にこれで治るだろうと、薬箱を閉じ、再び適当な場所へ押し込んだ。
それに気が付いたのは消毒液を塗った五日後だった。
相変わらずかさぶたを作ろうとしない傷に病院へ行くかどうか考えあぐねていたその時だった。
傷口が動いたのだ。
正確にいえば、その膿が。
足を動かしたからだと思ったが、残念ながら違った。膿は自分の意思で動いていた。全身から血の気の引くような寒気が走り、居ても立っても居られず部屋を飛び出した。
「……これは蛆ですね」
壊死した肉を餌に増えていたようです、眉間に皺を寄せて医者は言った。
正直、泣きそうだった。戦時中は手当や治療が間に合わず、蛆が湧いたなんて話は聞いたことがあったが、まさか自分がそんなことになるなんて。
ここ最近の生活について、少しばかり非難の混じった声で問われ、閉口する。思い当たるようなことが何もなかったのだ。答えない自分に、医者はそれ以上は問わず、
「……珍しいことですが、まったくないというわけでもないんですよ。幸い傷口は浅いようですし、まずはピンセットで蛆を取り除いて消毒しましょう」
と、言った。
ちゃんと治りますから、そう医者が微笑むので、つられて口の端を上げる。
全部取り除けるのか、という不安が頭の中を逡巡しながらも、一方で大したことじゃないんだと言い聞かせる。
医者に促され、看護師の後をついていく。
診察室内にある簡素なベッドの上に座り、自分の母親と同じくらいの年齢の看護師の顔を不安げに見る。
彼女は水の入ったプラスチック製の桶を足下へ置いた。そして、傷口を手で洗い流しはじめた。何度も何度も、水とともに傷口を優しく撫でる。
が、蛆虫は深く潜っているのか、落ちてはこなかった。看護師は一度離れると、ピンセットとパレットを手に戻ってきた。
あれで引っ張り出すのだろう。
痛かったら行ってくださいね、という看護師に頷き返し、じっと傷口を睨みつけた。
ピンセットが黄色をつまむ。
米粒みたいな蛆がつまみ出された。蛆虫はパレットの上で苦しそうに体を動かしている。内心嘔吐く。
看護師は次々に処理してくれ、パレットの上に黄色い米粒が増えていく。
体の中にこんなにもいたのかと思うと、気を失いそうになる。けれど、これが終われば、この苦痛から逃れることができるのだ。淡々と作業を続ける看護師の横顔をぼんやりと眺める。
幸い痛くはないが、むず痒い。
ふいに看護師の目を見開かれた。同じように傷口へ目をやる。息をのんだ。
蛆が引っ張り出されようとしている。だが、今までのものよりも、長いようだ。
看護師がピンセットを引く。
途切れない。
足から、なにかが這い出る感覚がある。膝の下から足首にかけて。
うっと口元を押さえる。
ずる、ずるずるずるずる――――
パレットの上で、のたうち回るそれに、ふっと目の前が暗くなった。