第一章八話 『母との記憶』
徽章が出来上がったので取りに来て欲しい、という伝言を竜吾が伝えに来た翌日、タケルは龍太郎と共に、『神守衆』本部へと向かって行った。ただ、前回と違うのはこんこんと眠り続けていた少女・ミコトが同行しているということだった。
彼女は、龍太郎が家に連れて帰ってきた二日後に目を覚ました。目覚めた瞬間は記憶が混乱していたのか、ずっと誰かの名を呼んでいたようだったのだが、タケルにはわからなかった。だが、竜吾は何を言いたいのかがわかったのか、ええ大丈夫です、だからとにかく今は休んで回復してくださいと説き伏せて、彼女は再び眠りについたのだった。その翌日からめざましい回復を見せ、今朝にはほぼ全快になっていた。
まだ寝ていたほうがいいのでは、と聞いたのだが、体を動かしたいし心配かけてるだろうから本部へと顔を出したいと言って二人についてきたのだった。
タケルは足取り軽く歩いていくミコトと、それを気遣いながら歩く龍太郎の後ろ姿を見ていた。ミコトは長い黒髪をうなじのあたりで一まとめにしていた。そして、目を覚ました時に気付いたのだが、彼女もタケルと同じような赤い瞳を持っていた。それがずっと気になっていたのだが、失礼になるかもしれないと思い、聞けずじまいだった。また、叔父二人は身元を何かしらで知っていたようだったのだが、それも失礼かと思い聞いてはいなかった。タケルは同じ年頃の女の子とあまり話をしたことがなく、どう話したらいいのかがわからずにいた。
そんな事を考えているうちに、屋敷へと到着した。再び履物を脱ぎ、靴箱へと収めると、大広間へと歩いて行った。
大広間では前回とあまり変わらない様子だったが、景虎だけは竜吾と机の上に置かれた紙を眺めながら腕を組み、難しい顔をして何やら考え事をしているようだった。
「あれ、ミコトさんも一緒に来たんですか?」
竜吾の方が先に気付いたようで話しかけてきた。それに反応した景虎は、こちらを向いて微笑みかけた。
「おはようございます」
挨拶をすると景虎は、少し待っててくれと言いながら広間の奥にある襖から廊下へと出て行った。
「一人残しとくのも不安だしな、本人も来たいって言ってたからいいだろ」
それを聞いて、龍太郎はそれでもいいでしょうけどミコトさんは女の子なんですよと、呆れ顔をしていた。
「徽章、何色になると思う?」
突然ミコトに話しかけられて、タケルは文字通り飛び上がってしまった。それが少し恥ずかしくて、耳が赤くなるのを感じた。
「何色なんでしょう…”始祖の血”とやらの力はあるとは言われたんですが…」
そう答えると、彼女は愉快そうに笑った。
「同じような年齢なのに、敬語なんて使わなくていいよー!”始祖の血”の力があるんなら、『仁』か『礼』のどちらかだね。『仁』になったら一緒に仕事に行って欲しいなぁ…」
最初の方は明るい調子でいっていたのだが、言葉の最後の方には哀しげに俯いてしまっていた。詳しくはわからないが、恐らく怪我をした前回の仕事の事を言っているのだろうと考えた。
だが、一番困ったのは敬語を使わなくていいと言われたことだった。彼が敬語を使い続ける意味は特になかったのだが、最初に叔父二人に引き取られた時に敬語を使っており、それを指摘されることなく現在に至るため、他人に話しかける時に敬語を使うのが癖のようになってしまっていただけだった。しかし、それが今、敬語を使わずに話しかけるとなった時に、普通の言葉が出なくて困ってしまったのだ。
「う、うん。でも、俺じゃなくても他に行ってくれる人が」
「それがいないんだよ、タケルくん」
いつの間にか広間に戻ってきた景虎が会話に割り込んできた。なぜ、という顔で景虎の顔を見つめると、続きを話し出した。
「今この組織の総数は二千人。それを四地方に分けているからそれぞれ五百づつだ。この本部にはその中で『義』と『智』が合わせて四百人、『信』が五十、『礼』が三十、『徳』と『仁』は二十しかいない。これも他の地方になると、『義』と『智』の割合が減るから『神殺し』になる人間はずっと少ない。でも今まではこれで足りてたんだ。だが、最近はそれじゃ間に合わない、そういま連発しているあの事件のせいだ」
タケルは連日報道している事件を思い出した。この国各地で頻発しているという、神職に勤めている人間が次々と行方不明になり、参拝に訪れた人々も忽然と消えてしまった事件。タケルの住む地方でも、知っているだけで四件は起こっているようだった。
「その調査に向かわせた『神殺し』も、行方不明になっているんだ」
景虎は顔を歪める。自分が調査に行くことが一番好ましいのだが、残っている組織の人々からあなたが行ったら『神守衆』はどうなるんですかと止められ、本部で行方不明の人々を待ち、遠くからの報告を受けることしかできず、自分の無力さに腹が立っていた。
「…戻ってこられたのは、私が最初なんです」
タケルの横にいたミコトが俯いたまま、呟いた。タケルはハッとして彼女を見た。なぜ本部へと行かせて欲しいと言っていたのか、ようやく理解ができた。何か声をかけたかったのだが、なんと声をかけてよいかわからず、彼も俯いてしまった。
「それ故に、今ここに残っている『神殺し』は私と竜吾、ミコト、そしてタケルくん、君だけなんだ」
タケルは驚いて景虎の顔を見た。彼女のその手には、薄青の紐を石に通した徽章が握られていた。薄青は小仁を示し、『神殺し』である事を証明する色だった。
「そんな、どうして…!俺にはできません!」
「いいや、君ならできるんだよ。君の中にある『闇』の力っていうのはそういう力なんだ」
景虎は拒絶しようとするタケルの手に無理やり徽章を握らせ、その手を両手で包み込んだ。その手があまりに冷たくて、彼は驚いた。そして顔を見つめると、遠くからでは薄暗くてわからなかったのだが、あまり顔色が良くなく、目元にはクマが浮かんでいた。景虎は、もう何日もよく眠れていないようだったのだ。その顔は、決して見た事はないはずなのに、何故か懐かしくて、唐突になにかの記憶が頭に思い浮かんだ。
明るい陽の光が差し込み、爽やかな風がカーテンを揺らす。いつも顔色が悪かった母親だったが、その日は気分が良かったようで、上半身を病室のベッドの上に起こし、風に弄ばれる長い黒髪を耳にかけながら、読書をしていた。そうだ、今の景虎の顔というのが、記憶の中にある母親とよく似ているのだ。
その様子を、どちらかは忘れてしまったが、叔父に手を引かれ、病室の入り口からその光景を眺めていた。彼がまだ、神様を信じていた頃だ。目に映る日の光に照らされた母親の姿があまりに美しくて、神様が願いを聞き届けて、お母さんを救ってくれようとしているんだと、タケルは嬉しくなって、にっこりと笑っていた。
その様子に気づいたのか、母親はタケルに手を振った。叔父の手を離し、母親に駆け寄った。
ーお母さん、今日は調子いいの?
ーええ、きっとタケルが毎日お祈りしてくれているおかげね
そう言って母親は、タケルの頭を撫でた。彼女からは消毒液なのか何かしらの薬の匂いなのか、不思議な匂いが香ってきていたのだが、タケルはそれが好きだった。
ータケル
ーなぁに?
ーいつまでも、いつまでも他人を思いやれる優しい気持ちを持って、優しい人間に育っておくれ
それは、母親がよく言っていた言葉だった。母親は、タケルが優しい心の持ち主で、他人を思いやり、他人のために涙を流せる人間だという事を見抜いていた。それが、彼女の死後、他人との関わりを避け、自分のためにしか涙を流さないようになってしまっていた。タケルには、何故今唐突にこんな事を思い出すのかと疑問に感じた。だけどそれは、何時までも大人になる瞬間を逃し続けてきたタケルに対し、母親が与えてくれた最後の機会のように感じた。そしてそれが、母親の死の真相に繋がるかもしれないということも。他人を思いやれる、優しい人間、それが母親の望んだことなら。
夢の中から目覚めるように、現実世界に引き戻される。目の前には、黙ったまま微動だにしないタケルを心配する景虎の顔があった。手を包み込んでいた景虎の手の上に、タケルは手を重ねた。
「わかりました、俺はやります。どうしたらいいか、教えてください」