ー第1話生まれた街
少しケガしたくらいで
命まで奪う事はない
ー映画「シービスケット」トム スミスの言葉
ましてや
ちょっと売れ残ったくらいで
ーそのシーンを見ていた武上渓の言葉
ー第1話生まれた街
その場所は。
天神川と云う用水路程度の小川が鳥羽川に流れ込む、静かな住宅地。その天神川の南には、中学生の頃には無かった岐阜環状線を挟んで、母校の上土居中学校が建っている。北には熊野神社に小学校。中学校の南には、親友の清美が消えた雨屋のあった交差点…清美は不思議な事件の後に戻って来て、小学校の近くに結婚して住んでいる。2才になる久志くんと云う男の子がいる。東京の平井七丁目第4アパートから、この生まれた街への引っ越しもやっと落ち着いて、外を眺める余裕ができた。
小鳥が飛びながら鳴き、隣の空き地には草がはえている。草のはえた空き地などというのは、東京ではめったにお目にかかれない。大抵は舗装されて駐車場になってしまう。
近所の家族もおおらかだ。子供の頃の、おじさんおばさんそのままの人柄で、何の違和感も感じない。
私の名前は長沼 優。この街で産まれて、高校まで過ごした。東京の大学に進学し就職…東京で暮らしていた。同窓会で、毎日のようにケンカしていた話で、現在の夫はじめと盛り上がり…あれやこれやで、長女の直を妊娠して出来ちゃった結婚。結婚後、夫は大学の物理学教授になり、長男の歩と次女の桜が産まれた。
障害物が次々と現れるランニングマシーンの上で、夫と3人の子供と云う4本立てのサーカスの団長のような日々が私の日常だ。
それに引っ越しが加わった。夫は科学雑誌にSF小説を投稿しており、それが物理学の権威と呼ばれている日本トップの物理学者の目にとまった。岐阜大学に長沼研究所を用意するのでと招かれる事になったのだ。破格の研究費も出て、収入も5倍になると云う夢のような話だ。東京から都落ちではなく、故郷に凱旋錦を飾る事になった。
この天神川と鳥羽川に挟まれた土地は、夫の父親が持っていた土地で、建築費だけをローンに組んで、理想のマイホーム完成となった。
小4 小3 少2の子供達は、友達と別れるのが大変で、何を持って行くかが大変で、まぁ泣くわ喚くわ喜ぶわで…それでも今、4本立てのサーカスも本日公演終了に持ち込んだ所だ。
さて。
家の中に戻って、4本立てのサーカス団長に戻ろうとした時…一台のワンボックスカーが目の前を通り過ぎた。
向かい3軒隣りの家の前に車は止まり、市場の仲買人と云ったタイプの男性が降りてきた。
引っ越しの挨拶に一度会って、犬のブリーダーをやっていると聞かされた。名前は確か…鳥居さん。東京では、アパートの為に犬は飼えなかったけれども、ブリーダーをしている友人がいた。犬好きで、売れ残った子犬を引き取ってくれる人を捜して、走り回っている姿が印象的だった。その友人の印象で、ブリーダーさんには親しみを感じていた。しかし、この友人が全てのブリーダーを代表している訳では無い事を…私は知らなかった。そして私は、産まれて初めて、この世に悪意なき悪魔が存在する事を知らされる事になろうとは…。
鳥居さんは私に気付いたようなので、軽く頭を下げた。
鳥居さんもーどうも。ーと返して、自宅の中に入っていった。
すぐに犬のゲージを持って出てきて、車に積み始めた。
後から考えれば、よせば良かったのかもしれない。でも、東京の友人の印象が、私をそのワンボックスカーに引き寄せた。
車のラジオからニュースが流れている。ー唐嘩嶺中国国家主席が緊急来日し、富樫総理と会談を行っていますが、来日の目的 会談の内容は明らかにされていません…ー
そのニュースを聞きながら見ると、ゲージの中には子犬が入っていた。名前はわからないけれど、耳の大きな犬だった。
「売れたんですか?。」
と聞いてしまった。
「いや。」
鳥居さんは笑いながら答えた。
「えっ?。じゃあ引き取ってくれる人の所に?。」
「いやいや。保健所にね。」
「保健所って何ですか?。」
「処分ですよ。そんな面倒くさい事してられませんよ。」
「はぁ〜?。」
頭の中で思考の回路がつながら無かった。しかし、かつての友人の言葉が頭をつらぬき、回路がドカンと繋がった。
ー絶対に引き取り手を見つける。保健所で窒息死なんかさせないー
そして私は爆発した。
「何言ってるんです!。駄目ですよ窒息死なんて!。」
「かわいそうだけど、私もさほど経営に余裕が有るわけじゃないし、ヒマでもないんですよ。」
まったく悪気のない顔で言われてしまった。
「そんなこ…関係ないですよ。よく考えて下さい。生きてるんですよ?。」
鳥居さん…いや、犬殺しの鳥居は、とぼけた顔のままで、私は怒るよりも、こわくて震え上がってしまった。
「じゃあ。奥さん引き取って下さいよ。5匹いますから。」
ー5匹?絶対無理。でも…ー
「あの。すぐ知り合いに問い合わせます。引き取り先を捜しますから。待って下さい。」
「いや。そんなヒマじゃないんだけどね。」
「2時間待って下さい。なんとかしますから。」
「2時間…。まぁいいけど。」
「待てますよね?。大丈夫ですよね?。」
「いいでしょう。そんなに言われたら…ご近所だしね。」
犬殺し鳥居…いや鳥居さんはゲージを車から降ろしてくれた。私は遅い足をとばして家の中に駆け込み、襲いかかってきた4本立てのサーカスを振り切りテーブルの上の携帯をつかんだ。
親友で同級生の清美に電話した。清美のネットワークで引き取り手を捜して貰った。
1時間で返事が来た。
ーとりあえず、ユウが5匹とも引き取って。全部引き取り手が決まったから。ー
「ありがとう清美。地元に清美が居て良かった!。」
ー急いで。そのブリーダーさんの気が変わらない内に。ー
清美は私の話から、鳥居さんの性格を察していたのかもしれない。そして、その心配は的中した。
また走って、鳥居さんの家の前に戻った。
ワンボックスカーは家の前にも車庫にもない。門を入って、庭の柵に親犬しかいない。血の気が引いた。玄関のドアを叩いて、鳥居さんと呼んだけれども…返事がない。
「ウソ。ウソでしょ。待つって言ったじゃない。」
そう言い終わった所で、車の音がして振り返った。鳥居さんのワンボックスカーだ。本人が降りてきた。
「鳥居さん。5匹全部引き取り手を見つけました。とりあえず私が引き取ります。」
鳥居さんは、少し黙ってから言った。
「…本当に見つかったんですか?。私がやっても、なかなか見つからないのに。」
「本当です。友達が掛け合ってくれたんです。渡して下さい。」
また黙った。そして信じられない言葉が出てきた。
「あ〜。もうさ〜無理だと思って。」
「無理だと思って?なんです。」
「保健所に置いてきたよ。まさか、見つかるとは思わなくて。」
「2時間待つって言われましたよ!鳥居さん!。」
「…だから無理だと思ったんですよ。」
「だって2時間…。」
その後は涙が鼻の穴に溢れて、フガフガと云う擬音になってしまった。
この男を相手にしていては命は救えない。私は切り替えた。
ポケットから桜の鼻をかむティッシュを取り出し鼻をかむと、携帯で保健所の番号を出して掛けた。犬殺しの鳥居は、サッサと家の中に逃げて行くのが見えた。
ーはい。岐阜保健所です。ー
「あの。今日。処分で5匹犬が持ち込まれたと思うんですけど。鳥居と云う男性が持ち込んでますよね?。」
ーお待ち下さい。担当と代わります。ー
身を刻むような時間が流れた。
ーはい。お電話代わりました。ー
「あの、処分に今日持ち込まれてますよね。子犬が5匹…。」
ーえぇ。持ち込まれてます。ー
「まだ処分されてないんですよね?。」
ー明日ですね。処分は。ー
「あのその5匹、引き取り手が決まったんです。今すぐ引き取らせて下さい。」
ーそうですか。わかりました。閉めずに待ってますので、お越し下さい。ー
「ありがとうございます。すぐ行きます。」
私はこれで良かったと、自分の車で保健所に走った。
でも…それは全て良かった事にはならなかった。
私は保健所の担当職員さんに案内されて、犬が収容されている部屋に連れていかれた。両側2段に20個くらい檻があり、その中で沢山の犬が吠えていた。私はその場で動けなくなった。
「…これ。全部。明日?。」
「残念です。見て下さい。ただ岐阜保健所では犬の譲渡会があります。明日午前中にやります。前回は全て引き取られました。今回も同じ結果を期待してます。しかし、残れば処分されます。」
いったん外に出て、別の部屋で2個のゲージを職員さんは出してきた。中にあの5匹の子犬が入っていた。
「このゲージは、引き取りが終わったら返却して下さい。ちょっとゲージ無しでは運べませんよね。」
職員さんは、茫然としている私の両手にゲージを持たせてくれた。
「処分の目的を説明させて頂いてよろしいでしょうか?。」
「…はい。」
「第一に、捨て犬による野犬の増加を防ぐのが目的です。野犬に狂犬病等の予防接種を行うのは困難です。同時に人間を咬む事故を防がなければなりません。もし、あの数の犬が街に捨てられる事を考えれば、処分はやむを得ません。」
「全部。ペット業者の?。」
「いえ。一般の家庭で飼えなくなった犬もいます。捨て犬も少なくありません。」
「でも…。」
「あなたのお気持ちは分かります。私は救える命は救います。だから、あなたを待ちました。この全ての犬を保健所が救うとしたら、予算がそれで無くなります。あなたのような方や、ボランティアの方々に頼るしか有りません。それが現実です。」
「…はい。」
私は、そう答えるしか無かった。
2つのゲージを持って、身を切られる思いで保健所を出た。ー私がした事は意味があったのだろうか…。私は鳥居さんを非難出来るのだろうか。ー
と思いながら。
家に着くと、長女の直が飛び出して来た。
車から降りる私の顔に、涙を見つけたのだろう…びっくりした顔で私を見つめた。
「ごめんね直。ちょっと突然だったから。」
「うん。子犬は?。清美ねえちゃんと知り合いの人が来てるよ。」
「後ろのゲージに入ってるよ。」
直は嬉しそうな顔で、後部座席を覗き込んだ。
「持ってってくれる?。」
「うん。」
直はドアを開けると、急いでゲージを取り出して、家の中に運んで行った。
私は…。
良かったと笑う気持ちになれなかった。そして。おそらく喜んでいる清美や引き取りを引き受けてくれた人達に、保健所の檻に残っていた犬達の事を話す勇気は無かった。
車を降りた所から動けない私を心配して、清美が外に出て来た。
「ユウ。何かあったね?。」
清美には隠せなかった。すべてを話した。
「気の済むまで泣きなさい。子供達は今夜ウチで預かるから。」
そうしたいと思った。でも…思い直した。
「うぅん。家の3っの命は私の責任だから。私が弱虫だったら責任を果たせない。だから。泣くのはやめる。」
清美はあきれた顔をして見せた。
「意地っ張りだなユウは。子供の頃から変わんないね。ハジメの事ずっと好きだったくせに、嫌いだって意地張ってさ…そうでなきゃ、もっと早く結婚できたのに。」
「人生はさ。近道できないの。迷って遠回りしないと、価値に気づけないの。だから、いっぱい泣いて遠回りするの。」
「いいけど〜でも、引き取ってくれる奥さん達には、ちゃんと挨拶してもらえるかな?。」
「もう大丈夫。行くよ!。」
私は涙を拭いて、家の中に向かった。
次話!
ー深夜の帰宅
に続く