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逃亡の果て

「ハーブティー、飲んで行かれませんか」


 矢子はドアを開け放つと、呆然とする佳佑を招き入れた。

 先程までの勢いを失って黙りこくっていた彼は、ひとつ頷いて部屋の中へ入る。


 レモンバームのハーブティーを淹れながら、いつものダイニングの椅子に座った佳佑をチラリと見る。

 泣きそうな顔から顔面蒼白になっていた。


「私、恋愛はしないんです」

「……」


 ハーブティーを注いだカップを佳佑の前に置くと、彼は黙って口を付けた。レモンの香りのそれは、ダイレクトに葉っぱの味がして青臭いのか、少しだけ眉をしかめる。


「恋愛、したいわけじゃ……」

「あなたは、してくれって言うわ。だから無理。他を当たってください」


 たくさんいるでしょう?

 そう言いたげな視線に、佳佑は唸る。確かに寝るだけなら、誰でもいいなら、矢子でなくたっていい。


「そもそもなぜ、私のところに」


 何があったの、なんて聞いてはくれない。だからこそ矢子がいいのだと、佳佑は思う。目の前の言葉に、実直に答えてくれる。

 でもそれを言葉にするのは難しい。どこからどう話していけば、矢子にわかってもらえるのか。

 佳佑は視線をカップに落とし、言葉を選びながらゆっくりと口を開く。


「今まで、自分は男か女かハッキリしなかったんです。女になりたくて、でも男でもいたくて。恋愛もわかんないし、他人に触れるのも、ただ気持ち悪いと思ってた」


 曖昧な自分。認めたくないこと、直面したくない事実。嫌悪することで避けていた現実。


「だけど最近、矢子さんといて思ったんだ。オレは男で、どこまでいっても男で、それからは逃れられない。女の格好をしていても」


 キスをして、一緒に寝て、頭をもたげたものが何だったのか。他の人ではなぜ駄目なのか。もうわかっている。


「矢子さんといると、それに気付く。自分が何なのかわからなくなった時、矢子さんに会いたいと思う。だから、矢子さんがいい」


 矢子といると、あるがままを肯定せざるを得ない。自分と直面し続ける。そして、曖昧だった自分の姿が浮き彫りになってゆく。

 圧倒的な力でねじ伏せ、抗うことをゆるさない。

 恋とはきっと、そういうものなんだ。


 佳佑が顔をあげ、矢子を見詰める。

 矢子は眉を僅かにしかめて、何か考えながらハーブティーを一口飲んだ。苦味と青臭さが口の中に広がる。


「私は、自分がどっち(・・・)なのかがわからないわ……」

「……え?」

「好きも特別もないの。ねぇ、もし私が男だったら、佳佑さんは私と寝たいと思う? そしたら、自分はゲイだったと思う?」


 意外な問いかけに、佳佑は戸惑う。

 ゲイではないと自覚してしまった以上、その問いかけに答えは1つしかない。自覚する前のことは、もう佳佑には想像出来ない。


「……わからないです」


 ポツリと呟くと、矢子はこくんと頷いた。


「私は誰かといても、自分の輪郭がわからない。ますます曖昧になるの。だから深く、関わるのはこわい」


 それは弱音のようだった。

 ──矢子さんでも、こわいと思うことがあるの?

 佳佑がそう問おうとした。

 と、突然、矢子が硬い声で言った。


「帰って下さい」

「え、あの」


 佳佑が戸惑うと、矢子はスックと立ち上がった。

 立ち上がって、おもむろに服を脱ぎ始めた。


「えっ、ちょっ」


 灰色のトレーナーの下には、下着も何も着けていなかった。矢子はあっという間に全裸になる。


 ────その素肌は、突っ張って捻くれていた。

 火傷の跡だろうか。何回もの手術痕。色の違う皮膚。特に背中から胸にかけての跡が激しかった。綺麗で小さな胸も尻も、継ぎ接ぎの人形のように見えた。

 革張りの、製作途中の人形。なのに、逆光に輝く肌の白は、触れたくなる程美しく艶かしい。


 佳佑は驚きながらも、目を離すことができぬまま尋ねた。


「矢子さん、それ……」

「帰って下さい」


 ピシャリと遮られる。

 佳佑はただ呆然と、矢子を見るしかなかった。矢子も、虚ろな瞳で佳佑を見ているだけだった。

 こんな姿でも、抱く勇気はあるのかと──そう問われているようで。

 それなのに、答えを待たず拒絶される。


「……じゃあなんで、部屋に入れてくれたの」


 やっとのこと、佳佑が声を絞り出す。

 矢子は顔を歪めて小さく頭を振った。


「わからないわ……」


 ただ可哀想で、放っておけない。そう思う内に、何かがグリグリと抉られて差し込まれたかのようだ。

 痛い。矢子はなぜか破瓜はかの痛みを思い出し、下腹部の鈍痛に顔を歪めた、その時。


「────あ」


 つつ、と一筋の血が内股を流れ、白く細い脚を滑り落ちた。

 火傷の跡の少ない脚に、ひどく浮き上がるように目立ったソレ。


 佳佑が驚いて双眸を見開くと、遅れて矢子も気付く。

 そして、ふふ、と妖艶に笑いながら、自身の身体を両腕で抱きしめた。


「……佳佑さんのせい」


 瞬間、佳佑は全身の血がカッとたぎるように熱くなった。

 どうしていいのかわからず、何が起こっているのかも理解出来ない。ただ全身を熱くしながら、佳佑はカバンを掴んで立ち上がった。


「か、帰ります」

「そう。さようなら」


 あっさりと、矢子は言った。

 佳佑はわたわたと慌てながら玄関へ向かう。なぜかズボンの前面が突っ張って歩きにくかった。なぜそうなるのか、理解出来ない。


 ただ、自分が楽になるためにここへ来て、無意識に大きなやぶを突いてしまったことだけはわかる。

 その藪の中に引き摺り込まれようとしていることも、自分が本当はそれを熱望していることも。


「きっといつか、オレは矢子さんと寝る」


 確信めいた予感に、心臓が早鐘を打つ。


 ────佳佑さんのせい。


 それはつまり、自分が彼女に影響を与えているということだ。

 そしてその意味を取り違えていなければ、たぶん……。


 佳佑は混乱した頭と火照る体を持て余しながら、駅へと続く歓楽街を足早に通り抜けた。



****



 ──佳佑の友達は全滅した。

 連絡先も、タクヤ以外からは拒否ブロックされているようだった。


 タクヤだけが、たまに共有ファイルのアドレスだけを送信してくる。それは佳佑が休んだり、耐えられず授業をサボったりした時の、ノートのデータファイルだった。

 佳佑は有難く頂戴しながら、礼を言うことすら出来ずにいる。


 コンビニのバイトはシフトを増やした。

 もう1つの秘密のバイトは、徐々にフェードアウトしていく事にした。

 女装だって家でもできるし、どの道自分にはリミットがあることもわかっている。加齢でいつかは出来なくなる。そしたら父親もまた自分に見向きもしなくなるんだ。


 その時まだ自分が女の子の格好をしたいと、心から思うかどうか。今はわからない。



 木曜日。

 毎週、大学が午前で終わるこの日は、自分のために思いっきり可愛い格好をして出歩くと決めている。


 ネイルをして、見せる相手もいないから、リラクゼーションに行く。健康になれて、人とウザくない程度に触れ合えて、お話できて、スッキリして──。


 最初はそんな理由だったっけ。

 行きつけの店はたくさんあったけれど、今は矢子のいる店にしか通っていない。


 張り付いた嘘くさい柔らかな笑みで、どんな時も変わりなく迎えてくれる矢子。

 ネイルを見て、興味深そうに一瞬目を輝かせる矢子。

 施術の間は目を瞑り、まるで別人のように一生懸命な矢子。


 閑散としたモールの中、『ユカ』はヒールの音を響かせて唄うように歩く。


 木曜日の午後。

 ヒラリとスカートの裾を翻して、受付の椅子に腰掛ける。

 中から見慣れた店員、店長の橋本が出てきて、笑顔で出迎えてくれる。


「いらっしゃいませ。ご来店ありがとうございます、佐伯様」


 彼女は先日、矢子が休んだ日に戸田望の一件を教えてくれた。

 ユカは笑顔で橋本に挨拶すると、慣れた手つきで会員カードを出し、何時ものように矢子を指名する。

 と、店内から矢子が顔を出した。


「佐伯様──お待ちしておりました」


 一瞬の躊躇い。

 明らかな動揺が、出会ってから初めて、ほんの一瞬だけ矢子の瞳を揺らす。


 あの《・・》矢子さんが──オレを見て、動揺、してる────。


 どんなに言葉を尽くしても言い表せない。

 その時の高揚が、自分が矢子に固執する、確かな理由だった。




【用語解説】

<レモンバーム>:シソ科のハーブ。別名メリッサ。レモンっぽい香りがする。効能は抗菌、抗うつなど。気持ちを落ち着けてくれます。妊婦さんは扱いに注意。青臭いけど、スッキリしてクセになる味。

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