地を這うように
変身シーンを初めて見た。
佳佑は矢子の貧相なメイク道具でベースを整えるだけで、同じものを使っているはずの矢子より、数段美しくなった。
スカートを纏いウィッグを装着すれば、どこからどう見ても可愛らしい美少女である。
「家に帰って、また男の格好して学校へ行くの?」
「そうだよ。いつもは自転車なんだけど、今日は電車にするかな」
えへへ、と笑いながらコートを羽織る。
「朝早くごめんなさい」
「いいえ、私は来週までヒマしているので」
「そっか、それもごめんなさい。お大事に」
「ありがとう」
指が痛いのなんて、すっかり忘れていた。無茶をして曲げたりしなければ、さっぱり痛くない。
『ユカ』はひとつ深々とお辞儀をすると、ヒールを履いて帰っていった。
バタンと閉まった扉の向こう、笑顔のユカを思い浮かべる。
彼が彼として、胸を張って誰かを愛し愛されることが出来ればいいなと思う。
矢子は佳佑とユカの、屈託のない笑顔の余韻にしばし浸っていた。
****
ユカが再び『佳佑』になって大学へ行ったのは、2限目の中頃だった。
間に合わなかったかぁ〜と頭を抱えつつ、そんなに重大なミスでもない。講義のノートはタクヤにでも貸してもらおうと、3限目の教室の近くまで移動して待った。
「あ……けーすけ」
「おう、タクヤ。はよ」
片手を挙げて挨拶すると、タクヤがぎこちなく目線を彷徨わせた。背後にいた何人かの友人が、気まずげに笑って挨拶し、先に行ってしまう。
「え、なになに? オレなんかした?」
「いや、お前がってゆーか……ちょっとこっち来い」
タクヤに腕を引っ張られ、人気のない場所まで連行される。
後ろめたいことのありまくる佳佑は、緊張感で嫌な汗が背中を流れた。
立ち止まったタクヤは、佳佑と向かい合った。
「単刀直入に聞くけど、お前って実は女なの?」
「はぁ!?」
あぁ、やっぱり、女装のことがバレたんだ。
そう思いながら、思い切り驚いた顔でバカにしたような声を上げた。
「なにがどーなってそうなったよ。お前、トイレでオレの、見たことあるだろ?」
「ある」
佳佑の茶化すような言葉に、タクヤは笑わず真顔で答えた。
これはもうだめだと、本能的に悟る。悟りながらも、否定して、足掻くしかない。
「お前が女の格好して、オッサンと歩いてるのを見たって奴がいるんだ」
「あぁ、そう。他人の空似じゃね」
「お前がそう言うなら、俺らは信じるよ。でも、噂流してる奴の1人が、あのサセ子でさ」
「はっ!?」
あの、クソ女!
思い切り嫌悪感を露わにした佳佑に、タクヤは苦笑した。
「お前って、ほんと生きるの下手な……。その顔、あいつに全部バレてるよ。メールも電話も無視して、躱したつもりになってんだろ。けーすけもアタシと同じじゃんって、あいつ笑ってたぞ。お前とおんなじ顔して」
「な……」
言葉がない。言葉がなかった。
オレがサセ子と同じ? 同じとこになんていない。
「オレはウリとか、そーゆーのはやってない」
「……ばぁか。それ、女装認めてんじゃん」
「──あっ!?」
「…………マジでバカ」
タクヤはため息を吐いて頭を振った。
「結構広まってるし、俺らはカマホモの仲間になりたくねぇから距離置くわ。でも、本当のこと言ったら、俺だけは味方になってやってもいいよ」
そう言って、タクヤは佳佑を正面から見据えた。
見つめ返しながら、佳佑が唸る。
決めかねていた。タクヤに本当のことを言って、言質を取られるのではないか。信用していいのか。
「……っんな、わきゃ、ねーよ。どうせ証拠もない、ウソなんだから、すぐ、消えるって、そんなの」
「あ、そう。ならいいよ」
結局、保身に走った佳佑に、話は終わったとタクヤが背を向ける。
佳佑は、この後に及んでまだ迷うように、もごもごと口の中で言葉にならない声を発した。もう話はついたというのに。
タクヤが振り返って、迷う佳佑に言う。
「お前、男子高の文化祭で、女装してたろ」
「え?」
ふいに、懐かしい思い出をほじくり返される。高校時代の黒歴史、『ユカ』に目覚めたキッカケが一瞬で蘇った。
友達にもみくちゃにされながら、慣れないメイクを調べて覚えて、セーラー服を着て────
「あれ、ものすごく可愛かった」
────こいつ、知ってた!?
ブワッと全身の毛が逆立つ。
タクヤは涼しい顔で去っていく。その後ろ姿を見送りながら、一体いつから知っていて、自分に探りを入れていたのだろうかと考えた。
不信感と怒りとで、腸が煮えくり返り、胃が気持ち悪くなった。
それでいてなぜ今まで黙っていたのか。オレのこと、影で笑ってたのか。
タクヤがわからない。
3限目と4限目は、結局サボった。
学食にも行く気になれず、物陰でサンドイッチとジュースを腹に流し込んで、午後からの講義を受けた。
噂は少しの間にさらに広がっていて、遠巻きにヒソヒソされる。友達の多かったはずの佳佑に、もう誰も話しかけては来なかった。
どんな尾ひれがついてるんだろ。どんなアダ名つけられてんだろ。
気にしたら負け、そう思っても、居心地の悪さは変わらない。
オレ、何のためにあんなことして、何のためにここにいるんだろう。
大学に行きたくてお金を貯めたはずだった。
趣味と実益を兼ねて、なんて思いながら、結局はいいとこ取りをしたかっただけだ。その足元がどれだけ不安定だったか、気付かないフリをして。
1日が終わる頃には、佳佑はかなり疲弊していた。
聞こえよがしに悪口を言って笑う者もいて、最初はタクヤに怒っていた佳佑も、彼がどれだけ優しかったかを思い知った。
忠告し、味方になってもいいとすら言ってくれたのに。けれど信用出来ない気持ちもある。
帰りがけ、肩を落としている佳佑の背後で、キャッキャとした笑い声が聞こえる。独特の作ったような鼻につく媚び媚びの声は、振り返らずともサキコのものだとわかった。
「けーすけ!」
「なんだよ……」
バカにしたような笑いを含んだ声で呼ばれる。
佳佑は肩越しに振り返り、ウザったそうに眉をしかめた。元凶の1人だとて、もはや怒る気力もなかった。
サキコは数人の男女と連れ立って、遠巻きに佳佑を笑いながら言った。
「私、あんたが私を見下してたの、気付いてたんだよね。だからヤッてやろうって思ってたの。だけどさ、まさかソッチだったなんてね〜」
なびかないはずだよね、とバカ笑いする。
見下されてる相手とヤろうとする精神が、佳佑にはわからなかった。たぶんそうすることで、彼女の何かが満たされるのだろう。だけど佳佑は、そう言って見下してきたサキコとヤりたいとは思わない。
オレはソッチじゃない。
そう言っても、言い訳にしか聞こえないのはわかっていた。だから佳佑は黙って鼻で笑うと、彼らを無視して大学を後にした。
電車に乗り、自宅を目指す。
何も目に入らなかった。ずっとぐわんぐわんと世界が回っている。足元がぐらついている気がした。
自宅へ向かうはずが、足は自然と矢子の家を目指していた。
彼女に怪我をさせてしまったのは自分だけれど、彼女が休みであることに感謝した。家に居てくれと願った。
ボロアパートに着くと、呼び鈴を数度、鳴らした。
電気メーターは回っている。中にいるのはわかっていた。
「矢子さん……おねがい……」
思わず祈るように小さく呟いた。
すると、ガチャリと玄関のドアが開いて、寝惚け眼の矢子が頭を掻きながら姿を現した。
「あれ、佳佑さ……ん」
そう言って佳佑を見た矢子の瞳が大きく見開かれる。
「どうかなさったんですか」
「矢子さん、矢子さん……!」
切羽詰まった様子で矢子を見る佳佑は、酷い顔をしていた。込み上げる何かを押し殺すように、苦しげに歪んだ顔でこちらを見ている。
「矢子さん、矢子さんは、男でも女でも、年齢も関係なく寝るんでしょう? だったら、今夜はオレを抱いてください。オレと一緒に居て」
涙を流すまいと堪える。表情はさらに歪んでいた。溢れ出し決壊する寸前だった。グラグラする足元をどうにかして欲しい。自分が自分であると確かめたかった。いっ時でも、幻でも、必要とされて求められたい。
「お断りします」
矢子はそんな佳佑を見ながら、極めて冷静に言い放った。