キスの後味
「ほら、もう大丈夫?」
ユカの唇を舐めながら、矢子が静かに囁いた。
目を閉じたままのユカがふるふると頭を振る。
「ま、まだ──もうちょっと……」
「しょうがない子」
椅子に座ったままのユカの横に立ち、上から覆い被さるようにして唇を奪う。頭を両手で抱え、半開きの唇に舌をねじ込む。ユカは抵抗することなく、注ぎ込まれる矢子の唾液ごと受け入れた。
音を立てて舌を絡ませ合っていると、ユカがスカートの中で脚をもじもじと擦り合わせているのが見えた。
不自然な形になったスカートを、矢子は見なかったことにする。
「……っはぁ」
派手なリップ音を立てて唇を離すと、ユカが真っ赤な顔で息を吐いた。
押さえていた頭を解放し、矢子は先程まで座っていた自分の椅子へ腰掛けると、すっかり冷めたハーブティーをグイと飲み干した。
「上書きできたかしら?」
「……はい」
赤い顔のまま、ユカは自身の唇を指先で撫でた。
腫れたようにジンジンと熱い唇に、嫌悪感より愛おしさを抱く。
全然、嫌じゃなかった……それがどういう意味なのか。混乱と実感で目眩がした。
「じゃあ、そろそろ帰る?」
「えっ──あ、え、ぁ────えっ!?」
驚いて声をあげるユカに、不思議そうな顔の矢子。
「あんまり遅くなったら、この辺は治安が悪いですし。落ち着いたなら帰られた方がいいですよ」
「え、え、でも。えっと……おわり?」
「おわり……とは」
いつもの調子に戻った矢子に、ユカはついていけない。
そして自分のその反応に、無意識のうち『その先』を期待していたことに気付き、赤くなる。
「な、なんでもないです! 帰ります!」
ガタン、と音を立てて勢いよく立ち上がると、冷めたハーブティーを飲み干す。下に溜まった蜂蜜が、むせるほど甘く喉に絡みついた。
「道はわかりますか? お忘れ物のないように。お気をつけてお帰り下さいね」
「は、はい」
淡々と言って、玄関まで見送る矢子。慌てて荷物をひっ掴みながら靴を履き、扉に手をかけると、ユカは矢子に振り返った。
「あの、矢子さん。また会えますよね?」
「ええ。いつでも。佐伯様が望む時に」
そう言って営業スマイルを見せる。
お店でいつでも待ってます、という意思表示だと、ユカは気付く。が、あえてわからないフリをしてやろうと思った。
「じゃ、また来ます!」
精一杯の笑顔を返して、ユカは矢子の部屋を後にした。
────それから、矢子は変わらない毎日を過ごしていた。
木曜日には決まって、美少女の佐伯様がやって来る。前よりも少しだけ親しげではあるけれど、私語も2、3言交わす程度で、特にこれといって変わりない。
また来ます、の言葉とは裏腹に、部屋へ来たいという素振りはまるで見せなかった。
たまにコンビニへ行くと、佐伯佳佑に出会う。
彼とも何気ない言葉を交わすだけ。
出会わない時は、茶髪の店員が気怠そうに迎えてくれた。
季節は冬になり、矢子はコートやマフラーを押入れから引っ張り出した。色白な佐伯も、可愛らしいコートに身を包んで、会うたび鼻の頭を真っ赤にしながら微笑んでいた。
気楽な日々が続いていた。
だからすっかり忘れていたのだ。
佐伯がどんな人間で、少なくとも恨まれるようなことをしている事を────。
「おい、てめぇか」
リラクゼーション店『りらっくす』の店内。先に案内されてチェアに座っていた客の元に、ご指名だと聞いて入って来た矢子へ、その客は開口一番そう言った。
中年の男性。名前は、戸田望と名乗っていた。
「ご指名頂きました、矢子と申します」
矢子はとりあえず、冷静に名乗った。何かの間違いかもしれないと思ったのだ。
「聞いてねぇよ。お前、ユカとどういう関係なんだ」
「ユカ──」
ハッとして思考を巡らせる。
コンビニで佐伯佳佑に掴みかかっていた、あの中年男性に似ていた。
矢子は自分の心拍数が上がるのを感じた。動揺に気付かれぬよう、努めてゆっくりとした動作でチェアへ近寄り、男性の斜め前で片膝をついた。
「ユカさん、とはどちらのユカさんでしょうか」
「佐伯だよ、佐伯ユカ! あれは俺の女なんだ」
「はあ……」
俺の女、という言葉に内心眉をひそめながら考える。
佐伯は客だ。客の情報は流すべきではない。だが、このお客様は佐伯の話をしないと大人しく帰ってくれそうにない。
さて、どうしたものか。
「佐伯ユカさん、が、どうなさったのでしょう」
「あいつ、俺を避けてるんだ。で、お前のとこに通ってる。つまり、浮気してんだろ!」
ダン! とチェアの手摺りを叩いた。
大きな音がして、周りが騒めく。橋本がカーテンの隙間からチラリとこちらを見た。矢子は黙って頷くと、橋本が引っ込む。
たぶん、フロアマネージャーの本庄か、警備員を呼んでくれた筈だ。
「佐伯ユカさんは女性のお名前のように見受けられますが。私もこう見えて女ですので、佐伯ユカさんという方とは──」
「ユカは男なんだよッ!!」
ダン、ダンッ! と手摺りを叩く。
暴れる戸田望の顔は、泣きそうに歪んでいた。
「あいつが男に戻っちまうよう……」
そう言って、矢子を睨み上げた。
「てめぇのせいで! てめぇのせいで!!」
ふいに立ち上がり、矢子を突き飛ばした。
避けようとした矢子は不安定な姿勢から後ろへ転がり、タオルやオイルの置かれた棚に突っ込んだ。
ガシャン! と大きな音がして、店内がさらに騒つく。
「矢子さんっ!」
橋本が、慌ててカーテンを開けて飛び込んできた。
続いて本庄と、その背後には警備員を2人従えていた。
「大丈夫か!?」
「はい、大丈夫……」
言いながら、矢子は顔を歪めた。指が痛い。折れてはいないが、たぶん打撲か突き指をしていると思った。
「やめろ、俺はまだこいつに話が──」
「お客様、お話は別室できちんとお伺いします。どうぞこちらへいらして下さい」
戸田望は両脇を警備員に抱えられながら退出して行く。
なぜか懇願するように矢子を見る戸田望を、無表情で見送った。
「矢子、お前らしくねぇな。なんか挑発したろ」
本庄が面倒臭そうに目を眇めて言う。
矢子は項垂れた。
「申し訳ありません」
挑発をしたつもりはない。けれど、知っているのにワザとわからない振りをして話す不自然な矢子に、戸田望はさぞ苛ついただろうことは予想できた。
「まぁいい。今日は帰れ。怪我したなら病院行け。後でキッチリ報告しろ。橋本、お前もな」
「ヒッ」
本庄の言葉に、店長橋本が肩をすくめる。本庄はそのままさっさと店を出て行った。
「矢子さぁ〜ん、こわかったよぉ〜」
「ごめんなさい……」
泣きつく橋本に謝って、立ち上がると備品を片付ける。
今は幸いにも店内に他のお客様はいない。不幸中の幸いだ。
「私、両隣りの店舗に謝ってくる。帰ってきたら、矢子さんはもう上がっていいからねっ」
そう言ってバタバタと橋本が出て行くと、ふいに矢子の腰の力が抜けた。
ぺたりとその場に座り込む。手足がわなわなと震えていた。肩が自然といかり、歯がカチカチと打ち合う。
身体中が、恐怖の余韻に打ち拉がれている。
「怖いものなんて、もう何にもないと思ってたのに」
こんなつまらない出来事で震える自分の身体が、矢子には理解出来なかった。