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赤いハーブティー

「佐伯様……ですよね? 大丈夫ですか?」


 矢子は電柱の陰で吐くようにえづいている佐伯ユカを心配そうに見た。

 ユカは矢子に気付いて、泣き腫らした目を見開く。

 そしてカッと赤くなると、口元を手で隠した。


「気持ちが悪いですか? 吐きそう?」

「あ、いえ、いえ、気にしないで」


 ユカが気まずそうに後退りする。

 その様子に、矢子は追求するのをやめた。構って欲しくない人間に詰め寄るほど、無神経ではないつもりだ。


「そうですか。では、私は失礼します」


 そう言って踵を返し──

 でも、本当に具合が悪くて遠慮している可能性を考慮して、顔だけ振り返ると付け加える。


「もし、本当にお困りでしたら、私の家へどうぞ。この近くですので」

「矢子さんのおうち……」


 ユカが興味をそそられたのがわかった。

 矢子は今度こそきちんと振り返って言葉を続ける。


「あまりお構いはできませんが。ハーブティーくらいはお出ししますよ」

「ふふっ……お家でもハーブティー飲むんですね」

「ええ。社割がききますから」


 社割、の言葉にユカが吹き出す。

 先程の青い顔から、少しだけ血色が戻ったような気がした。


「じゃあ、ご馳走になりに行ってもいいですか」

「もちろん。どうぞこちらです」


 矢子は店でチェアへ案内する時のように、手のひらで丁寧に方向を指し示した。 いつも見ている動作なのに、顔だけは営業スマイルではなく無表情なことに、ユカがクスクスと笑いながら歩き出す。

 その様子に矢子も少しだけ胸を撫で下ろしつつ、家路を辿った。



 矢子の家はボロいアパートの一室だった。

 歓楽街を抜けて裏ぶれた住宅地の中、小さな墓地とジメジメした公園が近くに見えた。消えそうにチラつく街灯の下、「ここです」と矢子が立ち止まったことに、ユカは内心驚愕した。


「ず、随分と個性的な場所ですね」

「ええ。安いんです」

「こわくないですか……?」

「こわい? 家がですか?」


 矢子がきょとんとして首を傾げたので、ユカはもう何も言わなかった。

 案内されるまま矢子に続く。

 カギなんて意味があるのかわからない薄い扉を開けると、中は小ざっぱりとした和室とダイニングの1DKだった。


「おじゃましまーす……」


 おそるおそる足を踏み入れ、中を見渡す。

 家具はダイニングテーブルと椅子、和室に小さなプラスチックのテーブルと安っぽい台とテレビ、のみだった。色は全て白か黒、灰色。モノトーンでまとめられており、色褪せてハゲた和室の壁とミスマッチしていた。

 およそ女の子の部屋とは言い難い。ここまでサッパリしているのは、男でも珍しいくらいだ。


「引っ越ししたばっかりとか?」

「もう5年は住んでます」

「5年!」


 この部屋に、5年も。ユカが呟くと、矢子は不思議そうに目を瞬かせながら首を傾げた。


「ハーブティー、ローズヒップなんて如何です?」

「あ、いいですねぇ!」


 さっきまでの青い顔はどこへやら、目新しいことに興味津々な、若さ故の好奇心を剥き出しにするユカに、矢子はクスリと笑う。

 ヤカンで湯を沸かしながら、急須きゅうすにハーブティーを入れ、カップを2つ出した。


「急須」

「ティーポットでなくてもいいんですよ。お茶っ葉が拡散すれば」


 それはそうだろうけど……と、ユカが複雑な顔をする。

 お湯が沸いて、矢子が急須に湯を注ぐ。フワッと湯気と共にローズヒップの甘酸っぱい香りが立ち昇った。

 蓋をして、しばし待つ。


「具合はもう大丈夫ですか?」


 ローズヒップの、苺のような真っ赤な色のハーブティーをユカに差し出しながら、矢子が尋ねた。

 よかったら、と蜂蜜のビンとスプーンも渡すと、ユカはひと匙ハーブティーへ落とす。


「……今日、ちょっと仲良くしているオジサンに、キスされてしまって。それで、ショックで逃げてきたとこだったんです」


 目を伏せたままスプーンでハーブティーを混ぜ、自虐的に微笑みながら呟いた。

 その言葉に、矢子の胸は少しだけ騒つく。

 先日の、男の姿の佐伯が働いていたコンビニ。あの時騒いでいた中年男性と、きっと何かが重なる気がする。


「あなた、何か悪いことしているでしょう?」

「────!」


 矢子が静かに言うと、ユカが動揺したのがわかった。

 なんてわかりやすい。この子は、まだ子供だ。

 矢子は心の中でクスリと笑う。

 ユカはしょんぼりとして、カップを両手で包むように抱えた。


「ただちょっと、お金もらってデートするだけだったんです。触るとか、そーゆーのナシで。だから、初めてで、ビックリして」


 言いながら、ジワリと涙が滲む。

 ユカはそれを乱暴に手の甲で拭った。なんだかその仕草は、ユカではなく、佐伯佳佑のもののようで、矢子は不思議な気持ちで眺める。


「いっぱいうがいもして、口も何度も拭いたけど、ぜんぜん、綺麗にならないの。汚いのがとれた気がしない。なんだか、汚れちゃった気がして、落ち着かない」


 再びポロポロと溢れ出した涙は、真っ赤なハーブティーの中に吸い込まれるように落ちて、溶けていく。


「……一度汚れてしまったら、もう綺麗にはならないわ」


 ふいに矢子が呟いた。

 その口調は、先程までの淡々とした他人行儀なものではなく、少しだけ感情と親しみが籠っている。

 ユカは驚いて顔をあげた。


 矢子は、ゆったりと微笑んでいた。


「もっと汚れていいなら、私が上書きしてあげる。多分そのオジサンより、私の方が、ずっと汚いわよ」


 まとめていた髪を解くと、矢子はハーブティーに口をつけた。自由になった黒髪がサラリと揺れて頰を滑る。

 矢子は唇についた赤い汁を、ペロリと舐めとって目を上げた。


「私がユカちゃんを汚してあげる」





【用語解説】

〈ローズヒップティー〉:バラ科の種子のハーブティー。ビタミンCが多く含まれ、美肌効果があるとされている。とにかく酸っぱい。お好みでドライフルーツや蜂蜜をどうぞ。

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