雨雲は突然に
夕闇の中に白いもやが舞い上がり、溶けていく。
駅の出口のロータリーにある喫煙所で、その男はつまらなそうに煙草を吸っていた。
燻らせた煙の向こう側に、綺麗だけれど歪んだ男の顔が浮かび上がる。
男はユカを一瞥して、フッと馬鹿にしたように鼻で嗤った。
途端、ユカがぱっと顔を片手で隠す。
寝坊と暑さで崩れた女装を笑われたのだ。羞恥に顔が赤くなり、下唇を噛んだ。
それを遠巻きに眺めて、彼は満足そうに口の端を吊り上げる。
いやな人。と矢子は思った。
「パパ、なんでここに……」
ユカの呟きは震えていた。彼が指先で煙草を弾いて灰を落とすたび、ビクリと体が跳ねる。
「父親が『娘』に会いに来ちゃいけないのか?」
低い声で返された言葉に、矢子が眉をしかめる。
『娘』────この人が、佳佑さんをこんな風に苦しめている原因なんだ。
与えたり、奪ったり、気まぐれに構って無視する、そうやって長い時間をかけて佳佑の心を壊していった人なんだ。
気を引きたくて、自分の存在さえわからなくなっていた佳佑を使って、お金儲けをする人なんだ。
矢子は強烈に「この人が嫌い」だと感じた。
ユカの繋いだ手が強張るのを、ぎゅうと温めるように握る。
彼は探るような鋭い視線でユカを見た。
見定めるような視線なのに、不思議と関心がないようでもあった。彼の目には生気がない。何かドロリとした静寂だけがあった。
「新しい客を紹介してやる」
「い、いらない。もうやめるんだ。そう言ったでしょ、彼女もいるし、お金だって自分でなんとかする!」
彼女、の言葉に『パパ』は矢子を一瞥して、しかしすぐに興味無さそうに「ふぅん」と言うと、視線を外した。心底どうでもよさそうだった。
「明後日、駅前に10時だ。目印は────」
「いらないよ!」
悲鳴のような声をあげたユカに、彼は驚きもせず「いらない?」と淡々と訊いた。ユカはもうぎゅっと目を瞑ってしまい、乱暴にこくこくと頷く。
「……じゃあ、いいや」
拍子抜けするくらいあっさりと言って、煙草をぽいと地面に落として靴の先で踏みつける。
そしてふたりに背を向けた。
何しに来たの、本当に、何しに。
矢子は苛々した。
聞いていた話では、両親に無視されていると佳佑は言っていた。
愛されたい、見て欲しい──そんな欲求があるのを知っていて、あの男はすぐに引くのかもしれない。
少し声をかけたり甘いエサを撒くだけで、佳佑の方から寄っていくのがわかっていて。馬鹿にすれば、挽回しようと足掻くのがわかっていて。
そうやって、上手に放し飼いにしてきたんだ。
横にいる彼をチラリと見ると、その表情はなんとも言えない複雑な顔だった。ホッとしたような、悲しいような、泣き出しそうな。
ふいに、部屋の隅で悲しそうに泣く佳佑の幼い姿が思い浮かんだ。
泣き疲れ、しゃくりあげながら、冷たい床でたったひとりで眠りこける、そんな痛ましい姿を幻視した。
揺さぶるだけ揺さぶって、帰っていこうとする。
今日が誕生日デートだって、あの男は知らないだろう。だけど、特別な日だった。なにも上手くいかなかったけど、だけど、最後にこんなのあんまりだ。
この人に思い知らせたい。
あなたがどれだけ馬鹿にして、いらないと言おうとも、私は、佳佑さんが大切で、必要で、そんな人間だっていると、そう言ってやらないと気が済まない。
「ユカちゃん、ごめんなさい」
「えっ?」
呟くと、彼の手を離して、去って行く『パパ』の背中に駆け寄った。
ユカが止める間もなく、矢子は思い切りその男の腕を引っ掴む。
「っ! なんだおまえ……!?」
驚いて振り返った彼が目を丸くして矢子を見た。
「はじめまして、お父様。私、矢子つぼみと申します!」
「はっ……?!」
急に自己紹介するわけのわからない女に、男は殺気立つ。美しい顔は途端に険しくなり、剣呑な目つきで矢子を睨んだ。
体が震える────でも、言いたいことを言うまでは、離すものか。
「私、佳佑さんとお付き合いをしています、佳佑さんが好きです!」
真剣に見つめながら叫ぶと、矢子はぎゅうと力一杯しがみついた。
「佳佑さんを私に下さい!」
「はぁ?!」
必死にグイグイと迫る変な女に、彼は若干圧倒されるように仰け反った。
いらないのなら、私が欲しい。心から欲しい。だから下さい。
ありったけの力で、彼の腕にしがみつく。
「おい、佳佑。なんだこいつ、きもちわりぃ」
不愉快そうに腕を振って、走り寄って来たユカに向かって静かに怒鳴る。けれど、矢子は離さない。
その様子に、ユカは目を丸くした。
声を荒げ、視線を向けて、『佳佑』の名を呼ぶ。こんな父、見たことがない。
「佳佑さんを、ください! 大事にしますから」
「好きにしろよ……!」
吐き捨てるように言って、思い切り腕を振り上げた。今度こそ矢子は振り剥がされ、よろめいたところをユカが受け止める。
男は不機嫌にフンと鼻息を吐いてスーツを直した。
「こんなのが欲しいならくれてやる」
「ありがとうございます、大切にします。私は、絶対に大切にしますから!」
矢子がお辞儀をしてうるさいくらいの大声で叫んだ。
夕方の駅前、人の多い時間帯だ。そこで叫べば、周囲の人々が何事かとざわつく。
「……お前、ムカつくな」
腹の底から唸るような低音で、彼は呟いた。怒気を孕んだ瞳で刺すように矢子を睨みつける。
そして数歩、矢子へ向かって踏み込んだ。
彼の大きな手が伸びる。
その手は、矢子の喉元を狙っていた。
殺される────! 反射的にそう思い、ぎゅっと目を瞑る。
「────父さんっ!」
ユカが鋭く叫んだ。
目を開けると、男の顔に、ユカが思いっきり投げつけたであろうウィッグが被さっていた。矢子が目を丸くする。
と、ふいに手をグイと引っ張られた。
「走って!」
その手に引かれるまま、矢子は走り出した。
目の前には、所々ピンが刺さったままの地毛を振り乱して疾走するユカの背中。
振り返ったら、あの男は呆れたように見ているか、睨んでいるか、走って追って来ているか。わからないから、とりあえず振り向かずに走ることに決めた。ユカも一切振り向かず、矢子の手をきつく掴んだまま走る。
夕方の駅前から、繁華街へ、景色はぐんぐん流れていく。
夢中で走るうちに、ふいに雷が轟き、ポツポツと雨が降り出した。
ゲリラ豪雨だ。
夏の夕方は天気が変わりやすい。予報では晴れだったはずが、急激に空を覆った黒い雨雲は、唸りをあげてあっという間に矢子たちのいる街を飲み込んでいく。
どんどん強くなる雨足に、人々が屋内へと逃げ惑う。痛いくらいの雨に時おり悲鳴のような声があがる。
その中を、脇目も振らず走り続けた。
視界が雨粒でけぶる。
跳ね上げた濁った水に足を取られてよろめき、薄暗い路地裏でようやく歩を止めると、駅からはだいぶ遠ざかっていた。『パパ』はきっと諦めて帰ったに違いない。
ふたりは汚れた壁に寄りかかると、全身で空気を貪るように荒く息づいた。
久しぶりの全力疾走は堪える。呼吸がなかなか整わない。
肩で息をしながら、矢子はユカに引かれたていた手を見た。いつの間にか、その手はしっかりと硬く繋ぎあっている。
矢子が驚くと、目線に気付いてユカが目だけで笑った。
彼は息を切らせながらそっと結んでいた手をゆるめ、矢子の濡れた指に、自身の少し筋張った指を重ねあわせるように這わせた。そして指先をわざと指の股に擦り付けるようにして絡ませ、恋人繋ぎにする。
濡れた皮膚が吸い付くように密着した。
彼は呼吸を整えながら、満足そうに微笑む。
矢子は酸欠とその『ユカ』らしくない仕草に、なんだかくらくらした。




