最悪で最高な一日
佳佑が目覚めたときは、世界はまだ青に支配されていた。
昇ったばかりの太陽の光は淡く、自分の手のシワを見るのもやっとだ。
楽しみすぎてこんな時間に目覚めちゃった……。
矢子の部屋で布団にくるまり、彼はゆるむ頬を両手でむにむにとこね回しながら息を吐く。
そっと隣を見ると、もうひとつの布団の中で、矢子が寝息を立てている。
定期テストも無事に終わり、夏休みに突入したある日のこと。矢子から満を持して「お誕生日デート」に誘われた。
今日は昼頃からふたりで出かける予定なのだ。
やばい、わくわくする。子供か。遠足前か。でも子供でもいいや。
もう少し眠りたい気もしたが、目が冴えてしまっていた。
どんなことしてくれるんだろう。期待が膨らむ。膨らみすぎてハードルをあげないよう、ちょっと我慢する。その繰り返しが、なんだか楽しい。
少し落ち着こうと、携帯を取り出す。矢子を起こさないようにしながら、メールチェックやニュースを閲覧して過ごした。
話題のニュース、動物ネタ、美容関係……。
ふと、コスメ系のサイトを巡回していたとき、サキコの言葉が脳裏をよぎる。
「夢とか、そーゆーのないの?」
夢。
今のこの状況が、幸せすぎて夢みたいだった。だからもっと現実的な、叶えていく夢、というものを見ようとは思ってもいなかった。
何かを望んでもいい。手に入れる為にがんばってもいいんだ。
最近、矢子を見ていて特に思う。
彼女は店長になるために、毎日頑張っている。
やりたいことに必死で、仕事から帰ってからも佳佑の体で施術の練習をして、なんだか難しそうな本を読んだりしている。
佳佑の骨や筋肉を触りながらブツブツと単語を唱えている様子は大変そうだが、楽しそうでもある。
微笑ましいと応援する反面、どこかで羨ましいとも思った。
自分はどれくらい本気で好きだろうか。
あんな風に、一生懸命に勉強できるだろうか。
「佳佑さんって、勉強熱心ですね」
ふいに声をかけられ、驚いて横を向くと、矢子が眠そうに目を擦りながら佳佑の携帯を覗いていた。
「ごめんなさい、光が見えたから。もう目が覚めちゃった?」
「こっちこそ起こしてごめんね。なんだか楽しみすぎて」
矢子の頭を撫でて、まだとろけている瞼にキスをする。彼女はくすぐったそうに笑って、キスをする佳佑の喉元に仕返しのように唇を押し当てた。
「今日は、いっぱい可愛くして出かけましょうね」
「てことは、女装していいのかな。何着よう。色合いはふたりで合わせて、系統を別々にしてみようかな。で、何かさりげなくお揃いを一個つけて……」
色々と考えると楽しい。脳内でクローゼットを展開していると、矢子がクスクスと笑った。
「本当に好きですよね。なにか、そういうお仕事をしたらいいのに」
その呟きに、ドキリとする。
誰かを可愛くする仕事。
そんなに向いてそう? 客観的に見て、そんなに好きそう?
自分ではよくわからない。それに好きだと断定したら、なんだか色々と覚悟をしなきゃいけなくなる気がする。
「友達にもいわれたよ」
曖昧に笑いながら答えると、矢子が頷く。
「だって、本当に向いてるって思うもの」
「そうかな……?」
だけど色々問題があるよ、と、口に出そうか迷う。でも、それを口にしたら、解決に向けて走り出さなければならない。そんな気がする。
「オレの夢は、矢子さんとずーっと一緒にいることだよ」
誤摩化すように囁くと、矢子は佳佑の心などお見通しだとばかりにニッコリと微笑んだ。
「その夢は、きっと叶うわ」
佳佑の髪をふわりと撫でて、じっと目を見つめる。
「もし本気なら、お金の工面くらい、私がします」
「いやいや、なんかそれは違うよ」
佳佑が慌てて首を振ると、矢子はもっと顔を近付けてさらに真剣な目をした。
「違わないわ。私は本当に、佳佑さんには好きなことをして欲しいって思うの。そういう余裕が出てきたことが嬉しいし、力になりたいんです。生き生きしている佳佑さんが、私は大好きだから」
「うん……ありがとう」
頷いて「ちゃんと考えてみる」と言うと、彼女は安心したように頰を緩めた。
好きなことをして欲しいと、心から思ってくれている。いつか言ってくれた、佳佑を肯定し続ける、好きに生きて欲しいという言葉は、今でも本心なんだと感じる。
迷うのもいい、考えるのもいい、立ち止まっても、人生には時間がそれなりにある。本当に始めたいと思ったら、そのときに頑張ったっていい。
お金のことだって、借りるとか、貯めるとか、いくらでもやりようはあるかもしれない。
矢子と一緒ならきっと大丈夫だ。
佳佑がたった独りで大学へ行くことを決めた時よりも、ずっと心強かった。
将来や自分自身に不安しかなくて、どうやって生きていこうか決められなくて、常識や学の足りなさ、大人になりきれず社会へ放り出される不安から、大学へ行くことを選んだ。
進学すれば、何か道が勝手に拓けると思っていたが、そんなことはない。
その中でさらに考えて、出来ること、やりたいことを選びとっていく。それが明確であっても、届かないこともある。
だけど矢子が、見てくれている人がいるのなら、不安なんてなんでもないような気がした。
考えてみよう。今すぐは答えが出ないかもしれないけど。
「なんだか、もうひと眠りしたくなってきた」
なんとなく一区切りついた感じがして気が緩んだのか、佳佑はあくびをしながらごろりと仰向けに転がった。その上に覆い被さるようにして、矢子が彼を見る。綺麗な黒髪がサラリと垂れた。
「あら、じゃあもう将来のことは考えないの?」
「将来って、どんな家庭を作りたいとか、子供は何人欲しいとか?」
冗談のつもりで言うと、矢子は困惑しながらもわずかに赤くなり、「それは、まだ……いえ、かなり、気が早いですね」と呟く。
「マジに答えないで!」
こっちが恥ずかしいよ、と、佳佑も赤面すると、矢子が笑う。
ふたりははにかんで笑い合いながら、鼻先をくっつけた。彼のうすい胸板に矢子が頭を預けると、甘やかな空気に、佳佑がとろりと溶けるように微睡む。
────それがいけなかった。
ふたりは抱き合って気持ち良く眠ってしまい、目覚めたときは、もう日はかなり高くなっていた。
裏の墓地から響くうるさいくらいのセミの声と、かんかん照りの日差しに、汗だくになって目覚めたのが昼過ぎ。
慌ててシャワーを浴びて出かける支度をする。
服を選ぶのもそこそこに、でも最低限の身だしなみは整えたい。だって今日は特別な日なんだから。
ああ、だけど──急がないと、今日が終わってしまう。
出鼻をくじかれて、バタバタと支度をして家を出た。
その日は、どうしようもなく暑かった。
そのせいか、矢子は寝坊した自分を責めながら少しだけ苛々していたし、佳佑は体が怠くなっていた。
あまりオシャレをする余裕もなくて、お化粧だけは落ちないようにしっかりと下地を塗りこみ、髪もセミロングのウィッグにして簡単にまとめあげた。
そしていつものように、佳佑から『ユカ』になった。
こんな時でも手を繋ぐことを忘れずに、ふたりは女同士のフリをして仲良く並んで歩く。
「最初はどこへ行こっか?」
「色々考えていたんですけど、お昼を軽く食べた後、お散歩してパンケーキを食べにいこうと思っていたんです。前に、佳佑さんが可愛いって言っていたところ」
「ああ、じゃあ、ご飯代わりにパンケーキ食べよっか」
「……お腹大丈夫ですか?」
「よゆーよゆー。今日くらい、いいでしょ?」
何より、この暑さの中どろどろに溶けるまで歩きたくなかった。
パンケーキがあるならフルーツもパフェも冷たいジュースもある。糖分が欲しい。日陰で落ち着きたい────。
「申し訳ございません、只今満席でして……恐れ入りますが、ご予約などはございますでしょうか?」
「いえ……どれくらい待ちますか」
パンケーキ屋に着くと、可愛らしく飾られた店内では人がごった返していた。
店員がメニューを手にやってきて、申し訳なさそうに説明してくれる。
周りを見れば壁に貼られたパンケーキの写真はどれも美味しそうで、こうしている間にも、どんどん人が並んでいく。
案の定、待ち時間は半端なかった。
「なぜ……」
「矢子さん、ファミレスいって、作戦会議しよう! ね?」
呆然とする矢子の腕を捕まえると、ユカが引っ張って店を出る。
「どうして……先週下見に行ったときは、そうでもなかったのに」
「下見に行ったんだ? ひとりで?」
俯いてトボトボと歩く矢子に、なんだか可哀想なのか嬉しいのかよくわからない気持ちが湧き出てきた。
思わずニヤケてしまうのを必死で隠しながら尋ねる。
「ええ。マンゴージュースを飲んだんです、パンケーキは一緒がいいと思って。ジュースだけでも、とっても美味しかったのに」
「そっかぁ。残念だけど、また一緒に来ようよ。ね、楽しみが一個できたよ」
笑いかけると、矢子が蚊の鳴くような声で「ごめんなさい……」と呟いた。
可愛くて綺麗なパンケーキを頬張るユカは、きっともの凄く可愛かったに違いない。
消沈した様子は、ファミレスに着いても続いていた。
「あ、ほら、あのお店、雑誌に載ったんだって。だからだよ」
携帯で先程の店を調べていたユカが「仕方ないよ」と慰めると、矢子はやっと納得したのか、頷いてメニューを広げた。
「お腹空きましたね」
「だよね。私たち、起きてから何も口にしてないもん。食べよ!」
食べ終わった頃には、もう陽が傾きかけていた。
本当はしたいことがいっぱいあったんです、と矢子は残念そうに言っていたが、ユカは割と満足していた。彼女が自分のために頑張ってくれただけで嬉しい。
「ちょっと電車に乗って、プラネタリウムを見に行きませんか」
「おぉ、ロマンチックだね」
数駅先にある科学館に、小規模ながらプラネタリウムがあるのをユカも知っていた。
機材も古すぎず解説もなかなか面白く評判も良い。日によって夜間もやっているので、カップルの間では有名な穴場スポットだ。
電車に乗り、科学館のある場所まで向かう。
ちょっとした森のような場所にある科学館の中庭を少し歩くと、プラネタリウムの建物が見えた。
しかし、館内は薄暗く電気が消えている。
「あれ?」
中を覗き込むと、ワイシャツを着て胸元にスタッフのネームプレートを掛けた男性が駆け寄ってきた。
「すみません、お客様。本日は終日臨時休業です」
「えっ!?」
入り口はチェーンを掛けられて、終了、の札がかかっている。
「機材の調子が悪くて。本当に、申し訳ございません」
「機材の……ちょうしが……」
矢子はフラフラしながらなんとか復唱する。スタッフが申し訳なさそうに頭を下げたので、無理やり微笑んでみせるが顔が引きつっている。
「いえ、仕方ないですよ。また来ます…………」
軽く会釈して、踵を返した。そしてズンズンと歩き出す。
ユカもペコリとお辞儀して、小走りに矢子を追いかけた。
矢子はプラネタリウムを出ると、中庭の散歩道でピタリと立ち止まった。
「……だいじょうぶ?」
前方に先回りして顔を覗き込むと、彼女は渋い顔で地面を睨みつけいている。眉間にはシワがこれでもかと寄っていた。
「私、自分が不甲斐ないです。なぜ上手くいかないのか、さっぱり理解できない……」
「いやいや、矢子さんのせいじゃないよ。なんかお互い今日はツイてない、それだけだよ」
頭を抱えた矢子に、ユカがへらりと笑う。
まったく上手くいかないことが、逆に面白くなっていた。
ツイてないのは自分なのか、矢子なのかわからないが、不可抗力なので仕方ない。
「お買い物でもして帰ろっか」
「……そうですね。何か欲しいものがあれば、プレゼントしますよ。あ、でも、家にもプレゼントが……」
「わぁ、マジで? それは、ええと、まだ聞かなかったことにする!」
無邪気に笑ってはしゃぐユカにつられて、矢子も表情をゆるめた。
微笑みあって手を繋ぎ、駅に向かって歩き出す。
────だけど、この日は本当にツイていなかった。
自宅のある駅に帰ってきたとき、背後から声がかかった。
「おい」
「え?」
それは低音で威圧感のある男性の声だった。
振り返ると、細身だががっしりとした体つきの長身の男が立っている。
サラリーマンでは着ないような派手めなスーツに身を包み、整った顔立ちの40代くらいの男性。
彼を見て、ユカは青ざめ、ビクリと震える。
会いたくなかった。顔を見ると震えてしまう。今はもう、彼のお気に入りではなくなってしまった。だけど会えばきっと思ってしまう。
自分を見て欲しい、可愛がって欲しい。目を合わせて、頭を撫でて。
だって彼は、オレのたったひとりの────
「……パパ…………」
ユカの震える唇は、まるで老人のようにしわがれた声を絞り出す。
それを聞いて、『パパ』は馬鹿にしたようにゆっくりと嗤った。




