戸田望の話:お姫様はまだ来ない
戸田望という男は、中途半端な男である。
中途半端に金持ちな家庭で、そこそこの過保護さで甘やかされて育った。
そのため思春期を過ぎるまで、ゴネれば世の中の全てが自分の思い通りになると、やや本気で信じていた。
自分が好きだと言えば、女の子は喜ぶと思っていた。
現実は、全くの真逆だ。
なぜなのか、戸田望は理解に苦しんだ。そのせいで、言動のヤバイ奴として女子に嫌われ、イジメられるようになった。
女子から男子へのイジメは、割とエゲツない。信じていた世界が幻だと思い知らされ、優しく美しい存在の象徴だったはずの女性の現実を知り、彼は女性不信に陥ったのだった。
彼女なんて出来たことがない。女友達もいないし、恋人も欲しいとは思わない。むしろ、女に振り回される同性を見て、哀れだとすら思っていた。
自分は高尚な一歩上の存在だと、正しい選択をしているのだと、そう思っていた。
『ユカ』に出逢うまでは────。
彼女を初めて見かけたのは、戸田望の行きつけのモールの中だった。
そのモールの地下にある飲食街の一軒のカフェに、コーヒーと蜂蜜をたっぷりかけた甘いトーストを食べに行くのが、戸田望の日課だった。
彼は仕事をしていない。正確には、両親の財産や土地の管理、資産運用で生活していた。だから日中でも出歩くことができるのだ。
薄暗い店内は居心地がいい。
大好きなSF小説を片手に、宇宙に思いを馳せながら、トーストについているホイップクリームをスプーンですくってそのまま舐めた。
彼のそんな仕草は子供っぽく、計らずしも直視してしまった女性は皆、わずかに眉をしかめて目を逸らす。
戸田望はそれを敏感に見取っていた。
女はいつもこう。俺をそういう目で見るんだ。
戸田望は気にしない。その侮蔑は、もはや彼の日常の一部なのだ。
小説のページを捲り、活字に集中しようとした、そのとき。
────くすり。と、微かに誰かが笑った。
自分に向けて、だ。
敏感な戸田望は、思い切り睨んでやろうと勢い良く顔をあげた。
目を上げると、斜め前方の席に座り、観葉植物越しにこちらをジッと見ている女がいる。
彼女は綺麗な長い髪をしていて、目はぱっちりと大きく、色っぽい泣きぼくろと愛らしい唇の、アイドルみたいに可愛らしい女の子だった。
甘めのブランド服を着こなし、いかにも男ウケする容姿の彼女に、戸田望は思い切り警戒した。
このテの女は、不細工に厳しい。それが戸田望の経験則だ。
しかし彼女は戸田望と目が合うと、緩やかに、にっこりと微笑んだ。
そして、思ったよりも大きく長い人差し指で、自身の小さな鼻を、ちょんちょん、と突ついてみせた。
「ん?」
意図を解せず眉をしかめながら、戸田望が自分の鼻に触れる。
ぺちゃり。戸田望の太い指先に、ホイップクリームがベットリと付いていた。
なるほど、そう思って何も考えずに指ごと口の中へ運ぶ。
「あはっ」
今度こそ、明確に笑い声がした。
素直に、本当におかしそうに笑い、そして「あっ」と口を押さえてキョロキョロする。それから誰も気付いていないことを確認し、戸田望をそっと見て、可愛らしくペロリと舌を出してみせた。
──なんだこいつ。天使かよ。
屈託のない笑顔。含みのない動作。愛らしい顔立ち。
全てが戸田望を魅了した。長年夢見て、もう存在を諦めていた「理想」がそこにいた。
それからはもう、恋の始まりだった。
あぁそうだった、俺は別に女が嫌いなわけじゃない。俺を勝手に審査して、無条件に馬鹿にする奴が嫌いなんだ。恋をしたくないわけじゃなかったんだ。
そんな事に、この年になって気付くなんて。
意を決して声をかけ、友達になった。
「好きだ」と言ったら、笑ってくれた。笑って、「ありがとう、嬉しい」と言ってくれた。
彼女は嫌な顔などすることも無く、ただ微笑んでくれた。
それが万人に向けられ、何の意味も興味もない笑顔だと知っても。
彼女が本当は『彼』だったと知っても。
──どういうわけだか知らねぇが、こいつは今、女なんだ。だったら、女として扱ってやらねぇと。
『彼』が申し訳なさそうに事情を話したとき、戸田望は『彼女』を守ると決めた。
戸田望にとって、彼女の笑顔が、存在が、戸田望を肯定し、救い続けた。だから自分が彼女を守るのは、至極当然のことと思えた。
他の男とデートしているときも、『パパ』とかいう奴に会っているときも、女に付きまとわれたり告白されているときも。
戸田望は持てる限りの時間とお金を使って、彼を『守り』続けた。
遅すぎた初恋に、戸田望は完全に振り回されていた。
ある日、彼女は言った。
「もうやめてください。私はあなたのこと、特別には思っていません。お金が欲しくて、割り切ってやってるの。だから邪魔しないで」
馬鹿な。俺がいなかったら、お前みたいなヒョロっこいのなんて、簡単にどうにかされちまうんだぞ!
そう言っても、彼女は「そんなわけない、私は大丈夫」と笑う。
わかってない。なんにもわかってない。
「お前は穢されていい存在じゃないんだよ、俺の天使なんだよ!」
絶叫すると、彼女は真顔で絶句した。
「オレ、人間です……」
そして困ったように眉を下げ、憐れんだ目でこちらを見ながら、恐る恐る呟く。
それは『彼』の顔と言葉だった。
「わかってるわ、ボケ! 比喩表現だ、ボケ!」
「すみません……」
萎縮しながらそう答えた『彼』を見て、戸田望は確信した。
自分は、女としての彼女が好きだ。ユカが好きだ。男には興味がない。佳佑には強気でいけるし、守りたいが恋愛感情はない。
だからといって、肉体が男だからといって、オッサンどもの餌食になるのは耐えられない。
女と付き合うのも許せない。
なによりこの不安定で綺麗な存在が心配だ。
悪い奴に騙されて、変な女に引っかかって、よくわかんないまんま、自分みたいに年を取ってしまうんじゃないか。
こいつが自暴自棄になったら、とんでもない尻軽になるに違いない。ちゃんと相談できる友達だっていなそうだし、金にだって困ってるみたいだし、後がないじゃないか。
自分のように、恋を知らないまま老いていくのか……。
それはとても寂しいことのように思えた。
こんなに綺麗なのに、自分と違うのに。
──俺が、その相手になってやる。
一生守ってやる。俺の傍に置いて、誰にも触らせない、女とか男とかどうだっていい。
おとぎ話の王子様みたいに、俺が彼女を大切にする。それでハッピーエンドだ。
その決意は彼女をますます警戒させ、徐々に避けられるようになっていく原因になったのだが、戸田望は間違っていないと信じていた。
押し付けるような愛情と強引な言動はどんどんエスカレートしていったが、彼にはもう、自分を抑えることが出来なかった。
ほとんど会えなくなっても、ずっと遠巻きに見守り続けた。
いつか自分が、彼女の「特別」になれると信じて。
そんな気持ちを理解してくれたのが、初めて出来た女友達、サキコだった。
最初は集団で現れて、「最近けーすけのこと見てるよね?」と凄まれたのがきっかけだ。
「ストーカー?」
「佐伯も災難だよな。女ならまだしも、オッサンかよ」
「警察よぶ?」
口々に言いたい放題言う男女に、戸田望は呆然とした。知性と品性が足りないと思った。彼らはユカの友達なのだろうか。
散々詰められても、戸田望は吐かなかった。ただの知り合いだ、の一点張りで通した。ゲイでもストーカーでもないと言い張った。
やっと解放された後、ほっと一息ついて、彼は思った。
「フレンチトースト食いてぇ……クリームたっぷりのやつ」
疲れた、カロリーが足りない。そう思い、モールの喫茶店へ向かおうとした、そのとき。
先程の集団にいたひとりの女が、戸田望を追いかけてきた。
「げっ」
「まって、おじさん、ちょっとストップ!」
それがサキコだった。
彼女は人懐っこく微笑みながら、戸田望に言った。
「おじさん、けーすけが本気で好きなんでしょ? あたしも同じだから、わかるんだ。……安心して。あたしは本当に、けーすけの友達だよ」
その言葉に、嘘はないように感じた。
戸田望はギクリと震えたが、彼女の「相談したい」という言葉を、愚かにも信じてしまった。
なぜ信じたのか。今までならば疑ってかかったはずだ。
いつの間にか、女なんてろくでもないという考えが改まってしまっていたのか。
それとも、男のユカに友達がいた、という事実に安堵し浮かれたのか。
どちらにしろ、その後、サキコとファミレスで何時間も話した。
同じ人を好きで、その苦労を分かち合う喜び。チョコレートサンデーを食べながら、誰にも言えなかった気持ちを、吐き出すように、止めどなく喋り続けた。
サキコとは不思議と気が合った。彼女はうんうんと優しく頷きながら戸田望の話を聞いてくれた。
彼女は戸田望の人生で、母親以外に話を聞いてくれた女性として、史上2人目になる。
今まで女を憎んできたが、面と向かって話したことは、実はそんなになかったことに気付く。
ひとしきり話を聞いた後、サキコは自分はもう諦め気味だと言い、彼はどうも普通とちょっと違うっぽい、という話を振った。
戸田望はサキコならばと、『ユカ』のことを話した。
その話を聞いて、サキコはにわかには信じられないといった反応だったが、やがて「それならモッチーのが可能性あるね」と囁いた。
長時間のおしゃべりで、彼女は戸田望を「モッチー」と呼び、戸田望はサキコを「サキちゃん」と呼ぶ間柄になっていた。
連絡先を交換して、彼らは別れた。
それからすぐに、『ユカ』の話が大学内に広まったことを、戸田望は知った。
サキコをファミレスに呼び出すと、彼女はやって来て素直に謝った。
しょんぼりとしていたが、次第に目に涙を溜めて、そして泣き出した。
「あたしはなんて卑怯なんだろう、汚いんだろう。どうなると思ってたんだろう。無視されて、話もしてくれない。何を、どうしたかったんだろう」
仕返しのつもりだった。
しかし、そのあまりの虚しさと失ったものの大きさに、ショックを受けていた。彼が何か言ってくれる、反応してくれると、どこかで期待していたのだ。それが憎しみでもいい、自分に対して強く感情を動かしてくれると、期待していた。
サキコが泣くのを、戸田望はおろおろしながら見守っていた。
やがて少しだけ落ち着いてしゃくりあげる彼女に、戸田望はポケットからぐしゃぐしゃのハンカチを取り出し、そっと差し出す。
言葉はなにも出てこなかった。
共感できる部分もあったし、怒りもあったし、騙されたという気持ちもあった。だけど、こんな時に随分年下の女の子に、気の利いたことが何も言えない。
そんな情けない中年だという自覚が、戸田望の胸を少しだけ苦しめた。
サキコはハンカチを受け取って笑った。
「モッチー、さすがにこれはナイ」
そう言いながら、そのぐしゃぐしゃなハンカチで、嫌な顔もせず涙を拭う。そしてメイクの剝げたぐしゃぐしゃの顔で、「ありがとう」と微笑んだ。
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「俺、好きな人できたかも」
佳佑と矢子が付き合うようになったと知ってから、ちょくちょく通っていたリラクゼーション店『りらっくす』の店内で、その毛むくじゃらな足を投げ出しながら戸田望が呟いた。
「えっ、おめでとうございます」
その呟きに、足を拭いていた矢子が驚いて顔をあげた。
「教えてやる義理はないが、お前はライバルだから、報告しなきゃと思ってさ」
「それは、ありがとうございます」
矢子が嬉しそうに微笑む。
喜ばせるつもりではなかった戸田望は、へんなやつ、と呟いて頬をポリポリと掻いた。
ユカのことは、だいぶ吹っ切れてきていた。
本当はもう無理だと、頭の片隅でずっとわかっていた。心のどこかで覚悟はしていたのもあるが、最後にトドメを刺したのが矢子だったことも、戸田望の心の傷が癒えるのを早めた。
この面白い女になら、あげてもいい。こんな怪しい自分に正面から立ち向かってくれる変な女なら大丈夫。そう思えたからだ。
そして周りに目を向けてみれば、そばにはサキコがいた。
今度の相手も、とても若く、イケメン好きで、心根は優しいけれど派手で、ちょっと愚かで、手が届く気がしない相手だ。
「うまくいくといいですね」
「どうだろなぁ……俺、見守りポジだからな」
「恋愛にはそんなポジションがあるんですね」
「あるか馬鹿。つまり蚊帳の外っつぅの」
はあ、とわざとらしくため息を吐く。
まったくお前は、トンチンカンなやつだ。だけどきっと、それがいいんだろうなぁ。
すっかり力が抜けた戸田望は、目を瞑った。
30分の施術の後、彼は心なしかスッキリとして店を出る。
モールから地下通路を通って反対側の駅ビルへ向かい、駅のホームへと歩く。
道は開発により工事中の場所が多かったが、それも段々と落ち着いてきていた。街は目覚めるように様変わりし、美しく洗練されていく。
戸田望はこの街で生まれ育った。
ここを出ることはあまりない。
だけど、これからはもっと出てみようと思った。
すれ違った女に、「キモッ」と悪態吐かれても、もう気にしない。
絡まれて殴られるのは勘弁だから、目立たないようにちょっと痩せようかとは思う。
おいていかれたモール側だって、日々生きている。
反対側に憧れたっていいじゃないか。良い暮らしを夢見たっていい。そこに溺れて自分を見失わなければいいだけだ。
自分を探す奴は多いというが、自分を見つけた奴は、どれくらいいるんだろうな。
そんなことを考えながら、電車に揺られる。
何駅か行った先の、ユカやサキコの大学がある駅で下車した。
駅前のロータリーでしばし待つ。と、
「モッチー! お待たせ」
人目も憚らず大声で叫び、ぶんぶんと手を振りながらサキコがやって来た。
若い女性と太った中年男の待ち合わせに、周囲は少しだけ好奇心と怪訝な視線を向ける。
無邪気で、無防備で、愚かしい。そんなところも好きだ。
笑顔の彼女を見ると、いつもよりなんだか可愛く見えた。素直にそう伝えると、「ユカちゃんにメイクやってもらったんだ」とはにかみながら報告してくれる。
サキコがユカと友達を続けていることが、戸田望は嬉しかった。もう関わることは出来ないだろうけれど、彼女が……彼が幸せになってくれたらいいと思う。
「今日はスイーツ食べ放題に行くんだっけか」
「そうなの! モッチー、パフェ好きでしょ?」
もちろん、戸田望の奢りだ。
サキコとは友達だが、自分は彼女のサイフでもある。それは自覚している。
それでも構わない。ユカの時とは違う。根底で、少しでも通じ合っているものがあると、勝手に感じている。
離れていても、好き勝手していても、跡をつけたり見張ったりしなくても、彼女を守ることが、自分には出来る。
サキコこそ、理想の女性だ。
汚れても傷ついても輝く。愚かでも、転んでも、泣いて、また立ち上がる。偶像じゃない。そこに居る現実。
俺は、彼女にとっての王子様になれるだろうか。
並んで歩きながら、ふとそう思いかけて、ブンブンと首を振る。
……いや、やっぱやめだ。ガラじゃねぇ。
あんなもん、カボチャパンツと白タイツが似合わなければ、名乗ってはいけない存在なのだ。




