ドリップの一滴
「ほんとに行くわけ? わざわざ律儀に会わなくても」
鈴木に会うため喫茶店へ向かう道すがら、タクヤが呆れたように言った。
昨日送られてきた鈴木のメールには、会って謝りたいとだけ書かれていた。
その言葉を信じるなら危険はないだろう。だが、彼にはユカに無理矢理キスした前科がある。
念のため、タクヤは別の席で待機してくれることになったのだ。
佳佑は緊張で固い表情のまま、ふるふると首を振って答える。
「会う。清算するって決めたんだ」
「なら、まぁ、止めないけどさ」
そう言って緩い雰囲気で付いてきてくれる。それが有り難い。
今日の佳佑は、『ユカ』ではない。男の姿で会うのも初めてで、なんだか生身で会うような妙な緊張感があった。
「悪い、タクヤ。マジでごめん」
「いいって。今度、学食おごってな」
「デザートも好きなだけいいよ」
「俺、甘いの嫌い」
そんな話をしながら、目的地の喫茶店へ入っていった。
店内を見回すが、鈴木はまだ来ていない。いつも会う時間よりも早く来ていたので、いないのは想定内だった。
佳佑がいつもの奥まった席に陣取り、その横の仕切り越しの席に、タクヤが座った。
鈴木を待ちながら、タクヤはコーヒーを、佳佑はミルクティーを飲んでいた。
しばらくして、カランとドアベルの鳴る音がする。
佳佑が入り口に目をやると、鈴木が店内へ入ってきたのが見えた。
「鈴木さんっ」
立ち上がって、思わず声をかけた。
少し震えて上擦った声に、鈴木は驚いたように目を見開き、微笑む。
「あぁ……ユカ、ちゃん?」
戸惑ったのも一瞬だけ。すぐに全てを理解したように頷くと、優しく笑ったまま席に着いた。
「驚いたなあ、イケメンさんだ。こりゃ女の子が放っておかないわけだね」
「鈴木さん、オレ……あの……」
「いいから、座って話そう。大丈夫、僕はなにもしないから」
柔らかく微笑みを湛えたまま、佳佑に椅子に座るよう促すと、注文を取りに来たウェイトレスにコーヒーを頼んだ。
「メール、読んだよ。どうもありがとうね。それと、あの時はごめんね」
すぐに運ばれてきたコーヒーに口を付けながら、ゆっくりと話す。穏やかな口調が逆に、佳佑に罪悪感を抱かせた。
「こっちこそごめんなさい、ずっと無視してたのに、今更……」
消え入りそうな声で謝りながら、鈴木を見つめた。
彼は微笑んでいた。諦めたような、穏やかな微笑み。以前から優しい人ではあったけれど、今の優しさはどこか違う気がする。
「鈴木さん、あの、オレは……」
なぜだろう。彼に何か話さなければならない。キスのことで嫌悪していたのに、今は何か、この人との間に言葉を残したい。たぶんもう、今日を最後に会う事はないだろうから。
「ごめんなさい、オレは、あなたのことを愛してない。利用しただけ。お金くれるから。他にもあなたと同じような人が何人もいる。言い訳だけど、オレさ、学校いくお金なくて。それで、ごめんなさい。返して欲しいなら返す。今すぐは無理でも、きっと……」
佳佑は思ったままを、気も遣わずにそのままぶちまけた。
嫌われるのはもう怖くなかった。でも、理解してもらえないのは、君は違うと突き放されたままは、もっと怖いと思った。
そんな子供っぽい言葉の羅列に、鈴木はため息を吐いて笑った。
「知ってた。知ってたよ。大人を舐めるな、それくらい、知ってたさ」
顔の前で手を組んで、項垂れながら言う。彼は笑う。自虐的な笑みだった。
「ただ許せない、僕の手から逃れるのが許せない。そんな執着を露わにするみっともない自分が」
鈴木の言葉に、少しだけ力がこもる。
「……ごめんな、ユカちゃん。あの日、キスした日、僕は会社をクビになったんだ。もう君にお金はあげられない、だからもう会えないと思ったら、してしまったんだ。普通じゃなくて、仕事も、お金もない。そんな人間を相手してくれてありがとう。ずっと謝りたかった、直接謝りたかったんだ」
鈴木は丁寧に頭を下げた。その姿を見て、佳佑はぶんぶんと大きく頭を振る。
そんな目にあっていたなんて知らなかった。気付かなかった。
きっとよく見ていたら、いつもと様子が違っていたのかもしれない。そうしたら、話を聞いて、無理矢理キスされるなんてこともなく、穏やかに終わっていたのかもしれない。
「鈴木さん……。ごめんなさい、お金は返します。必要でしょ? ごめんなさい、本当にごめんなさい」
佳佑の提案に、鈴木はゆっくりと首を振った。
「いや、もらってほしい」
そして遠慮がちに手を差し出し、テーブルの上の佳佑の手を握る。一瞬だけビクリと震えた佳佑だが、振り払う事はしなかった。
「僕は、君にはちゃんと学校へ通って欲しいし、綺麗な格好をしていて欲しい。そのためにあげたんだ。幸せに生きて欲しい。君は僕と同じではないけれど、仲間だから」
鈴木の手は温かくて、カサカサしていた。矢子の少し湿った手とは、全然違っていた。
「本当の姿を見せてくれてありがとう」
そう言って、佳佑の目を見て、微笑む。
「ほんとのすがた……」
その言葉に、なぜか涙が零れた。
本当の姿とは、なんだろうか。鈴木は今、自分の何を見てくれているのだろうか。それが男の姿を指しているわけではないことは、自分にもわかる。
涙を流した佳佑を見て、鈴木はいっそう微笑んだ。顔がくしゃくしゃになり、皺が大きく幾重にもなって刻まれ、目尻はしわくちゃに垂れ下がった。
ああ、この人はこんな風に笑うのか──。
初めて見た満面の笑顔に、佳佑は泣きながら微笑み返した。
「気付いていたかい? 今日、会ったときから、君とずっと目が合ってる。今までさ、君が僕の目を見てくれた事って、一度だってなかったんだよ」
帰り際、鈴木が言った。今なら自分でもそれがよくわかる。
「誰かが君を変えてくれたんだね」
誰かが────。
それは矢子だろうか。タクヤか、サキコか、戸田望か、鈴木か、その多大勢、いや、その全部かもしれない。
頷いてみせると、鈴木は「会えて良かった」と言って、伝票を持って出て行った。
佳佑は放心したように鈴木の背中を見送る。
時折鼻をグズグズとすすりながら、彼の消えていった扉を眺めていた。
鈴木と触れ合って、はじめて、嫌悪感を抱かなかった。
自分の本当の姿は、泣き虫でバカで甘えたで貪欲なガキだ。誰に対しても曖昧で、居てもいなくても同じだった。
関わってはじめて、自分の姿を認識できる。
「なーにナチュラルに金払わせてんの。失業したオッサンにさ」
軽口を叩きながら、横の仕切り越しの席からタクヤが顔を出した。自分のコーヒーを持って佳佑の向かいの席に移る。
「タクヤ、お前とオレ、ちゃんと目が合ってる、だろ?」
「そうだな」
タクヤが同意しながら、ポケットティッシュを取り出す。来る途中でもらったやつだ。乱暴に2、3枚出すと佳佑に渡した。受け取って鼻をかむ。
──オレはずっと、自分を見つけてくれる人を探してたんだ。
自分自身を否定され続けて傷ついたから、肯定してくれる人を求めたんだ。
それが矢子さんだった。矢子さんに振り向いて欲しくて、彼女と目線を合わせたくて必死だった。
彼女は今、何を考えているだろう。何を恐れて、何を欲しているだろう。
求めてばかりだった自分と、与えてばかりだった矢子。
彼女が本当に欲しいものはなんだろう。
「よくわかんなくなってきたな……オレ、矢子さんのために色々したいと思ったのに、間違ってたのかな」
呟くと、タクヤが「バカは考えるな」と言って笑った。
そしてふいに真面目くさった顔で佳佑を見つめると、確認するように尋ねた。
「自分に嘘をついても、いつか自分を裏切ることになるよ。お前はやめられるの?俺はやめらんないけどね。自分が自分でいること」
「うん……」
──たぶん、オレも。
きっとやめられない。ユカでいること、オレでいること。
そして無理をするオレを、矢子さんはきっと望まない。
あるがままの、視線の合った先にお互いが居て、そして自然に手を繋ぐ関係でいたい。
喫茶店を出ると、もう夕方だ。
タクヤに礼を言って別れ、佳佑は電車に乗って自宅のある駅へ帰ってきた。
駅から吐き出されるように溢れた人々が、足早に家路を急ぐ。
早くも仕事初めなスーツ姿の男性や、出かけた帰りの親子連れ。買い物帰りの女性に、遊びに行ったのかはしゃいだ学生たち。
みなそれぞれ、楽しそうに、嬉しそうに、疲れたように、つまらなさそうに。それぞれの生活を送っている。
自分もその中の一部なのだ。
姿形も生き方も生活も全て違うけれど、自分も彼らと同じ、彼らも自分と同じ、それぞれの色々なものを抱えて生きている。
それはきっと愛であったり、幸せであったり、佳祐のまだ知らない何かだったりするのだ。
出会った人に、返していく。
そうやって歩きながら、五里霧中の人生を両手でかき分けて進んでいく。
みんな同じだ。
みんな違うなら、みんな同じなんだ。
佳祐はふいに、矢子に会いたくなった。
矢子に会って、彼女を思いきり抱きしめたくなった。