君の隣で笑うには
本当にいいのだろうか。
佳佑が「女装をやめる」と言った時、矢子が最初に思ったのはそれだった。
彼にはユカが必要だと思う。それはもう彼の一部で、切り離せないのではないだろうか。
アロマランプを見てはしゃぐ佳佑を思い出し、矢子は眉を寄せた。
可愛いもの、綺麗なもの、女の子の格好が好き。それでいいじゃない。
しかし、だめだというなら、止めることは出来ない。
大多数であることを望むのはおかしいことじゃない。何か心境の変化があったのだろう。悪いバイトも、止めるならその方がいい。
だけど────。
「女装やめるの、反対?」
朝風呂から上がった佳佑が、仕事に出るため身支度をする矢子に言った。
「……いえ、そんなことは」
「そっか、よかった」
佳佑が笑いながらタオルで髪をがじがじ拭いた。
矢子はテーブルに鏡を置いて薄く化粧をしつつ、彼を鏡越しに見た。
「でも、死ねば皆灰になるし、どんな格好で生きようと自由だと思いますよ」
「なんかすごいこと言い出した」
いつもの矢子理論を、佳佑は笑いながら流す。
「オレは今も大事だよ。ちゃんと男らしくなりたい。普通になりたいんだ。そうなったら、矢子さんはつまんないかな?」
つまらない、とは……。
そう訊こうとして、鏡に映り込んだ佳佑の顔が目に入る。
顔は笑っているのに、瞳の奥が苦しそうだった。なぜなのか、知りたいという気持ちと、踏み込んでいいのかわからない戸惑いに、胸が苦しくなる。
「……佳佑さんだったら、なんでもいい」
矢子が俯きながら答えると、佳佑が後ろから飛びついた。
ぎゅっと抱きしめられ、つむじにキスをされる。
「ありがと」
鏡に映った佳佑の顔は、安心したように微笑んでいた。
矢子はこの時、無遠慮な率直さを失った。
はじめて、相手の喜ぶであろう答えを選んだ。それは嘘ではないけれど、以前の矢子では選ばなかった答えだ。
自分の変化に戸惑い、変わろうとする佳佑にも戸惑った。
──私たちは、まだまだ、これからどんどん変わっていくんだ。
そうやって、生きる限り起こる変化を、お互い見続ける。
それが付き合う、恋人、そういうことなんだ。継続した関係なんだ。
矢子は恋人という概念を少しだけ理解できた気がする。
「ねえ、クリスマスは空けといてね」
佳佑が体を離して、身支度をしながら言った。
「クリスマス? セールがあるので……」
「昼間はオレもバイトあるよ。だから夜、チキン持って遊びにくるね」
「ええ、お待ちしております」
「やった」
ニッと笑ってコートを羽織る。
佳佑の生乾きの髪を心配しつつ、矢子も上着を羽織ってカバンを持った。
「じゃあ、いってきますね」
「いってらっしゃい。お仕事がんばってね」
化粧が落ちないように軽くキスをして、佳佑が先に家を出る。
矢子も続いて外に出ると、今日は快晴。
青い空の下、強く風が吹き抜けていった。
****
クリスマスまであと1週間ほど。
相変わらず、たまに思い出したようにお誘いのメールは届いていた。
────まず、どうすべきか。
佳佑は大学の図書館で自習するフリをしながら、ここ今後のことについて思考を巡らせていた。
この場所は静かで暖房も効いていて快適なので、彼の最近のお気に入りスポットだ。左右と前方を衝立に囲まれた机に向かえば、誰を気にすることもない。
噂を消すのは大変だ。これはもう、自分ではできないので諦めるしかない。
簡単なことは、女装をやめること、客をとるのをやめること、父親と縁を切ること。
「あぁー……なのに、何を迷ってるんだ……」
やろうと決めたのに、決意が鈍る。直接対決はこわいし、どうしていいかわからない。一人一人会うなんて嫌すぎる。そもそも、なんて言って誤摩化そうか。
呻きながら頭を抱え、机に突っ伏した、その時────。
「図書館ではお静かに、だろ?」
コツン、と頭に硬い感触。
顔を上げれば、衝立越しの隣の席から、友人のタクヤがゲンコツポーズのままこちらを覗いていた。
「タクッ──!?」
「しーっ」
ガバッと起き上がって声を上げかけた佳佑を制し、タクヤは携帯を取り出して軽く振ってみせる。
そして何事もなかったかのように座りなおすと、衝立の中に消えた。
佳佑も倣って携帯を取り出すと、すぐにメッセージが届いた。
『久しぶり。相変わらず独り言激しいのな』
『うるせ。何か用?』
『お前の噂のことだけど』
噂のこと。そういえば、最初に教えてくれたのもタクヤだった。
佳佑は自然と息を呑む。
『今、サセ子がナゼか頑張って火消ししてる』
『え、なんで?』
『わかんねぇ。でも、あいつ顔は広いから、大勢がデマって言い出せば、信じなくてもみんな黙るはず。表向きはな』
『うん……』
サキコはなぜそんな事をしてくれたんだろう。
先日のあの会話で、彼女の中で何か思うところがあったのだろうか。
『噂は消えない。それは覚悟するんだな』
タクヤの言葉は重い。
確かに、どうやってももう元には戻らない。口に出されなくなっても、佳佑は『女装してオッサンとデートしてた男』だ。
『で、軽く調べた』
『は?! 探偵かよ』
佳佑が思わず隣を見ると、衝立からヒョコリと顔を出したタクヤが、ニヤリと得意げに笑った。
『サセ子とか、他に何人か噂流してたヤツを遡って辿ったんだけどさ。共通の話として、中年の太ったオッサンから女装の写真見せられて、自分の恋人だって吹聴してたことがわかった』
中年の太ったオッサン……。
────戸田望ッッッ!!!!
太った中年男性の知り合いならたくさんいるが、佳佑の脳裏にはすぐに戸田望が浮かんだ。
アイツ、矢子さんに怪我させただけじゃ飽き足らず!
佳佑が怒りで震えていると、握りしめた携帯が唸る。
『犯人わかった? くれぐれも危ないことはすんなよな。いざって時は頼れ。大人とか、警察とか、俺とか』
タクヤの忠告で、ほんの少し冷静さを取り戻す。
思えば彼には助けられてばかりだ。それなのに、今までお礼の一つも言えていなかった。
『悪い。いつもありがとな』
『おう。んじゃ行くわ』
椅子を引く音がして、隣のタクヤが荷物を持って立ち上がった。
佳佑が見上げると、タクヤはにっこりと笑う。その笑顔は、なんだか友達だった時よりも優しい気がする。
──なんでこいつ、こんなにオレのこと気にかけてくれるんだろ。
ぼんやりとそう思いながら、タクヤの背中を見送る。
今まで彼は佳佑のために、噂のことを教え、ノートや連絡事項を細かくメールし、探偵行為までやってくれた。
頼んでもいないのに……。
佳佑はタクヤの発言を思い返す。
「……本当のこと言ったら、俺だけは味方になってやってもいいよ」
「お前、男子高の文化祭で、女装してたろ──あれ、ものすごく可愛かった」
『お前って、男が好きとかじゃないよね?』
────あ。
気のせいかもしれない。思い違いかもしれない。
だけど、噂の前と後とで、彼の優しさの“質”が変わったとは感じていた。その理由が、今、わかった。
「オレはバカだ……」
散々ヒントは出されていたのに。
もう去ってしまったタクヤに慌ててメッセージを打った。
『タクヤ、お前、男が好きなの?』
慌てすぎて、思わず直球になってしまった。
ヤバイと思ったがフォローも入れられない。返信は来ない。見ていないのか、呆れたのか、傷つけてしまったのか、わからない。
涙目であわあわしていると、暫くして携帯が震えた。
タクヤからの返信。
『あるがままに生きられる社会なんてない。誰だってな』
否定も肯定もない。
だけどそれで充分だった。なぜなら、秘密は自ら守るものだからだ。
矢子が掲示板の話をしてくれた時、ネットの世界には様々なマイノリティが溢れてると言っていた。
皆が人との違いで悩んでいるのに、自分は普通だと、大多数だと思えることが、むしろ不思議だと言っていた。
──オレは普通じゃない。
だけど、それを認識しつつ、他人は皆普通だと無条件に信じていた。
そうではない人々にたくさん会ったのに、彼らを知ろうともせず、認めようともせず、金を貰う存在だと思っている。
自分だけが可哀想で、自分だけが普通じゃなくて。
違う、本当は普通になりたい。
だけどきっとなれない。
タクヤのように、アイデンティティの根幹に関わっているものが、きっともう普通じゃない。
じゃあどうすればいい?
迎合しようと足掻くのに、ああオレは、底知れぬ沼の中にいる────。