表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/32

夜は明けゆく

 薄暗い室内で、アロマランプが揺れていた。

 『ユカ』は寝袋の中に体半分だけ潜らせて、頬杖をついてそれを眺めている。


「今日はそのまま寝るの?」


 矢子が肌のお手入れを終えて、布団に潜り込みながら尋ねた。

 もう何度目かのお泊まり。

 ふたりで過ごすことはもうすっかり慣れた日常になっていた。


「なんか今日は、このままでいたい……」

「そう」


 メイクは落としていたが、ウィッグはつけたままのユカが、ボーッとした様子で呟く。最近、たまにこうやってアンニュイな表情を見せる。


「気分の上がる香りに変えましょうか?」

「んー……」


 考えるように目を閉じ、すぐに頭を振る。


「いい。矢子さんが好きな香りにして」

「そう、それじゃあ……」


 矢子はズイとユカに近付き、頰に鼻先をくっ付けた。


「わぁっ?!」


 頰から耳の中まで、クンクンと匂いを嗅ぐ。ウィッグの長い髪が鼻先に当たってくすぐったい。ユカの体臭は甘く、柔らかく、温かい匂いがした。そのまま髪の中に顔を埋める。


「や、矢子さんっ」

「私、ユカちゃんの匂いが好き」

「ちょぁっ……ま、だめ……」


 ユカが矢子を手で押し退ける。赤い顔で困ったように眉尻を下げ唸った。


「今はなんか凹んでるから……我慢できなくなっちゃう」

「落ち込んでいると、したくなる、ということ?」

「ちょっと語弊があるけど、そう、かな」

「なるほど」


 矢子はユカの横でしばし考えを巡らせ、「そういえばそうですね」と呟いた。


「矢子さんもそういう時ある?」

「ええ。ご存知の通り、その……掲示板の方々とか」


 なぜか今、矢子は自分の口から掲示板という単語を出すのは躊躇われた。後ろめたい、そう思って顔を伏せるが、今日は逆にユカの方があっけらかんとしている。

 興味深そうに矢子の顔を覗き込みながら、質問してきた。


「どんな人がいるの?」

「色んな人です。でも、ただ会って済ませたい、そういう人とは、あまり繋がらなかったですね」


 言いながら、出会った人々を思い出す。


「一番覚えているのは、50代くらいの奥様です」


 矢子が強烈に覚えている人。

 50代とは思えないくらいの小綺麗な方で、安いファッションホテルなんかじゃなく、高めのホテルの部屋をとってくれた。


 優しくて、上品で、こんな人なら誰にだって愛されるだろうにと、そう思った。よく手入れされた滑らかな肌は、男に愛され慣らされた体だった。

 彼女はきっと幸せなはずだ。子供もいるかもしれない。

 なのに、誰とも知らない女と体を重ねている。

 そのひとつひとつがなんだかキツくて、矢子は彼女が壊れないように大切に扱った。


 ネットの中の掲示板を覗けば、マイノリティは溢れている。

 こんなにたくさんの人間が、何処かしら人と違い、その違いに思い悩んでいるのに、どうして自分はみんなと同じだなんて思えるのだろう。

 その方が矢子にはよほど不思議だと、そう話した。


「ふぅん……」


 何か考えるようにユカが揺れるアロマランプの光を見つめる。


「矢子さんはロマンチストなんだね」

「……そうなんでしょうか」


 そんなことはじめて言われた。

 矢子が首を傾げると、ユカは儚げに微笑んだ。


「寂しさとか、抱えている秘密とか。そういうのは癒せる、何かを与えられる、そのための行為なんだと思ってない?」


 ユカは今、少しだけ苛立っている。

 どうしてかわからない。矢子の思考が綺麗すぎるからか。自分は男だから、なんの意味もなく湧き上がる性の衝動を知っているから。

 それともただの嫉妬かもしれない。


 以前、矢子は寂しいから寝ると言った。

 行為は癒しだと言った。

 その対象に自分を含めてくれているのは、きっと自分が『ユカ』という負い目を持っているからだ。


 矢子は与えようとしている。だけど、与え合おうとは思わない。長期的に与え与えられ続ける関係を、築く事が出来ないのかもしれない。

 あるいは、ただ知らないだけ────。


「矢子さん」

「はい」


 呼びかけると、横で何か考え込んでいた矢子はユカへ向き直った。


「キスしたい」


 瞳を覗き込みながら言うと、「どうぞ」というあっさりとした許可の後、矢子は目を閉じる。


 そんな従順な様子が、苛立つ。


「きゃ……っ!?」


 ユカは強引に矢子の肩を押すと、上から覆い被さった。

 仰向けに倒され、驚いて目を開けた矢子の顔に、ユカの長いストレートの髪が垂れる。手で搔き分けると、影の中でユカが妖艶に微笑んだ。三日月を描く柔らかな唇が、ランプに照らされながらゆっくりと近付く。


 矢子は目を閉じた。

 温かで、何度も馴れ親しんだ感触。柔く押し当てられたそれは、次第に強く吸い付くように力を増していく。


「ん……んんッ」


 軽く抗議の声を上げるも、ユカは離れない。

 けれどそれ以上何をするでもなく、ただ唇を塞いでいた。時折、手を彷徨わせながら矢子の顔を撫で、髪を撫で、体を撫でる。一瞬だけ離して、またキスをする。軽いものを交えながら、ただひたすらに。


「やこさん……」


 ふいに、ユカが唇をくっ付けたまま呟く。


「与えたいと思ったら、それは愛なんだよ、たぶん」


 愛。

 その言葉の重さを、ユカはわかっているのだろうか。その言葉通りなら、矢子は見知らぬ人々を愛したことになる。


「オレも矢子さんに愛されたい」


 ちゅ、ちゅと軽く口付けをして、囁く。

 ユカにしては珍しく『オレ』と言った。その辺りの線引きを、彼は失ったことはなかったのに。


「……好きだよ」


 低く唸るような呟きは、すぐに口内に押し込められた。

 かぶりつくように強く押し当てた唇からは、痛いほど存在を感じた。熱く、溶けるような長い口付け。

 いつの間にか背後と布団の間に差し込まれた細い腕で、目一杯に抱きしめられる。


 好きも愛も、矢子には強すぎる言葉だ。

 どうしていいかわからず、ただ応える。受け入れ、応え、抱きしめ返す。


 彼の唇が離れた時、矢子は蕩けるような甘い吐息を吐いた。

 舌も絡めていないのに、頭の芯がジンジンと痺れる。力が抜けて、わけもわからないまま薄らと目を開けて、彼の顔を見上げた。


 そこには、ユカではなく佳佑の顔があった。

 髪は長いまま、パジャマも可愛らしいままなのに、なぜだろう。男の顔をしている気がする。

 ランプに照らされた瞳は、妖しく光りながらこちらを見詰めていた。


「……もう、おわり……?」

「おわりって?」


 くす、と笑いながら『佳佑』が訊く。いつかの会話を思い出す。


「最後までしないんですか?」

「矢子さんが欲しがったら、しようかな」


 そう言って悪戯っぽく笑う。

 なんだか立場が逆転したようだった。今までは、矢子が常に与える側で、主導権を握っていたのに。

 不思議な感じだ。この短いやりとりの中で、彼の何が変わったんだろう。男の子の成長は、意外と早いのかもしれない。


「ずるいわ……」


 そう呟くと、自然と矢子の頬が朱に染まった。

 恥じらいを見せた矢子を、佳佑は若干の驚きと喜びをもって見下ろす。

 服ですらぽいぽいと脱ぎ捨てて、言いづらい単語すら無表情で吐き出すこの人の、何かに踏み込めていると気付く。


「矢子さん。いつか本当に、オレのこと好きになってね」


 笑いかけると、矢子は小さく頷いて毛布で顔を隠した。



****



 ────空が白んでいる。遠くで鳥が鳴いていた。

 早朝特有のキンと冴えた空気の中、佳佑は目を覚ました。


 辺りをゆっくりと見渡し、ああそうか、今日は泊まったんだっけと、ぼんやりする頭で思い出す。いつの間にかウィッグは外していて、中途半端な格好で寝袋の中で寝ていた。

 横では小さく丸まった矢子が、布団の中で静かな寝息を立てている。


 そっと彼女の髪に触れる。

 一房すくい上げると、絹のようにするすると指を滑っていく黒髪。

 仕事中の引っ詰められ窮屈そうにしていた髪を思い出す。今はもう違う。彼女の『こちら側』に来たのだと実感する。


 この人と会って、関わって、自分の輪郭を知れた。

 何もかもが変なのに、どこまでも愛情深い。世間体や常識なんか持ち合わせておらず、自分をただ『そのもの』として見てくれる。

 だから好きだ。


 例えユカじゃなくなっても、負い目を失っても、一緒にいてくれるだろうか。

 その他大勢の寂しい人々と同じカテゴリーで大事に扱うんじゃなくて、男の恋人として傍に置いてくれるだろうか。

 そうしたら、彼女の寂しさを自分が充たしてあげられるだろうか。


 そのためにはまず、いびつな過去を清算したい。

 他人ひとと同じになろう、悪いことはもう止める。


 父親や大人達とのメールをやめただけでは、きっと清算できていない。

 戸田望のこと、サキコのこと、タクヤのこと、大学の友達や噂のこと。

 実際は、まだ何ひとつ片付いていないのだ。


 やめると決めて、決意しただけ。

 言ってしまえば目標を定めたに過ぎない。


 では、どうするか。


 今まで、根本的な解決は後回しにしてきた。

 たくさん嫌な目にあっているのに、『ユカ』であることはなかなか止められない。止めようと思うと、なぜか苦しく辛いからだ。

 だけど、矢子のためなら乗り越えて新しい自分になれるはずだ。


 父親のことも、オジサン達のことも、『ユカ』ごと切り離して『普通』になる。


「オレ……女装やめる」


 小さく決意を呟いたとき、矢子がそっと目を開いた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ