夜は明けゆく
薄暗い室内で、アロマランプが揺れていた。
『ユカ』は寝袋の中に体半分だけ潜らせて、頬杖をついてそれを眺めている。
「今日はそのまま寝るの?」
矢子が肌のお手入れを終えて、布団に潜り込みながら尋ねた。
もう何度目かのお泊まり。
ふたりで過ごすことはもうすっかり慣れた日常になっていた。
「なんか今日は、このままでいたい……」
「そう」
メイクは落としていたが、ウィッグはつけたままのユカが、ボーッとした様子で呟く。最近、たまにこうやってアンニュイな表情を見せる。
「気分の上がる香りに変えましょうか?」
「んー……」
考えるように目を閉じ、すぐに頭を振る。
「いい。矢子さんが好きな香りにして」
「そう、それじゃあ……」
矢子はズイとユカに近付き、頰に鼻先をくっ付けた。
「わぁっ?!」
頰から耳の中まで、クンクンと匂いを嗅ぐ。ウィッグの長い髪が鼻先に当たってくすぐったい。ユカの体臭は甘く、柔らかく、温かい匂いがした。そのまま髪の中に顔を埋める。
「や、矢子さんっ」
「私、ユカちゃんの匂いが好き」
「ちょぁっ……ま、だめ……」
ユカが矢子を手で押し退ける。赤い顔で困ったように眉尻を下げ唸った。
「今はなんか凹んでるから……我慢できなくなっちゃう」
「落ち込んでいると、したくなる、ということ?」
「ちょっと語弊があるけど、そう、かな」
「なるほど」
矢子はユカの横でしばし考えを巡らせ、「そういえばそうですね」と呟いた。
「矢子さんもそういう時ある?」
「ええ。ご存知の通り、その……掲示板の方々とか」
なぜか今、矢子は自分の口から掲示板という単語を出すのは躊躇われた。後ろめたい、そう思って顔を伏せるが、今日は逆にユカの方があっけらかんとしている。
興味深そうに矢子の顔を覗き込みながら、質問してきた。
「どんな人がいるの?」
「色んな人です。でも、ただ会って済ませたい、そういう人とは、あまり繋がらなかったですね」
言いながら、出会った人々を思い出す。
「一番覚えているのは、50代くらいの奥様です」
矢子が強烈に覚えている人。
50代とは思えないくらいの小綺麗な方で、安いファッションホテルなんかじゃなく、高めのホテルの部屋をとってくれた。
優しくて、上品で、こんな人なら誰にだって愛されるだろうにと、そう思った。よく手入れされた滑らかな肌は、男に愛され慣らされた体だった。
彼女はきっと幸せなはずだ。子供もいるかもしれない。
なのに、誰とも知らない女と体を重ねている。
そのひとつひとつがなんだかキツくて、矢子は彼女が壊れないように大切に扱った。
ネットの中の掲示板を覗けば、マイノリティは溢れている。
こんなにたくさんの人間が、何処かしら人と違い、その違いに思い悩んでいるのに、どうして自分はみんなと同じだなんて思えるのだろう。
その方が矢子にはよほど不思議だと、そう話した。
「ふぅん……」
何か考えるようにユカが揺れるアロマランプの光を見つめる。
「矢子さんはロマンチストなんだね」
「……そうなんでしょうか」
そんなことはじめて言われた。
矢子が首を傾げると、ユカは儚げに微笑んだ。
「寂しさとか、抱えている秘密とか。そういうのは癒せる、何かを与えられる、そのための行為なんだと思ってない?」
ユカは今、少しだけ苛立っている。
どうしてかわからない。矢子の思考が綺麗すぎるからか。自分は男だから、なんの意味もなく湧き上がる性の衝動を知っているから。
それともただの嫉妬かもしれない。
以前、矢子は寂しいから寝ると言った。
行為は癒しだと言った。
その対象に自分を含めてくれているのは、きっと自分が『ユカ』という負い目を持っているからだ。
矢子は与えようとしている。だけど、与え合おうとは思わない。長期的に与え与えられ続ける関係を、築く事が出来ないのかもしれない。
あるいは、ただ知らないだけ────。
「矢子さん」
「はい」
呼びかけると、横で何か考え込んでいた矢子はユカへ向き直った。
「キスしたい」
瞳を覗き込みながら言うと、「どうぞ」というあっさりとした許可の後、矢子は目を閉じる。
そんな従順な様子が、苛立つ。
「きゃ……っ!?」
ユカは強引に矢子の肩を押すと、上から覆い被さった。
仰向けに倒され、驚いて目を開けた矢子の顔に、ユカの長いストレートの髪が垂れる。手で搔き分けると、影の中でユカが妖艶に微笑んだ。三日月を描く柔らかな唇が、ランプに照らされながらゆっくりと近付く。
矢子は目を閉じた。
温かで、何度も馴れ親しんだ感触。柔く押し当てられたそれは、次第に強く吸い付くように力を増していく。
「ん……んんッ」
軽く抗議の声を上げるも、ユカは離れない。
けれどそれ以上何をするでもなく、ただ唇を塞いでいた。時折、手を彷徨わせながら矢子の顔を撫で、髪を撫で、体を撫でる。一瞬だけ離して、またキスをする。軽いものを交えながら、ただひたすらに。
「やこさん……」
ふいに、ユカが唇をくっ付けたまま呟く。
「与えたいと思ったら、それは愛なんだよ、たぶん」
愛。
その言葉の重さを、ユカはわかっているのだろうか。その言葉通りなら、矢子は見知らぬ人々を愛したことになる。
「オレも矢子さんに愛されたい」
ちゅ、ちゅと軽く口付けをして、囁く。
ユカにしては珍しく『オレ』と言った。その辺りの線引きを、彼は失ったことはなかったのに。
「……好きだよ」
低く唸るような呟きは、すぐに口内に押し込められた。
かぶりつくように強く押し当てた唇からは、痛いほど存在を感じた。熱く、溶けるような長い口付け。
いつの間にか背後と布団の間に差し込まれた細い腕で、目一杯に抱きしめられる。
好きも愛も、矢子には強すぎる言葉だ。
どうしていいかわからず、ただ応える。受け入れ、応え、抱きしめ返す。
彼の唇が離れた時、矢子は蕩けるような甘い吐息を吐いた。
舌も絡めていないのに、頭の芯がジンジンと痺れる。力が抜けて、わけもわからないまま薄らと目を開けて、彼の顔を見上げた。
そこには、ユカではなく佳佑の顔があった。
髪は長いまま、パジャマも可愛らしいままなのに、なぜだろう。男の顔をしている気がする。
ランプに照らされた瞳は、妖しく光りながらこちらを見詰めていた。
「……もう、おわり……?」
「おわりって?」
くす、と笑いながら『佳佑』が訊く。いつかの会話を思い出す。
「最後までしないんですか?」
「矢子さんが欲しがったら、しようかな」
そう言って悪戯っぽく笑う。
なんだか立場が逆転したようだった。今までは、矢子が常に与える側で、主導権を握っていたのに。
不思議な感じだ。この短いやりとりの中で、彼の何が変わったんだろう。男の子の成長は、意外と早いのかもしれない。
「ずるいわ……」
そう呟くと、自然と矢子の頬が朱に染まった。
恥じらいを見せた矢子を、佳佑は若干の驚きと喜びをもって見下ろす。
服ですらぽいぽいと脱ぎ捨てて、言いづらい単語すら無表情で吐き出すこの人の、何かに踏み込めていると気付く。
「矢子さん。いつか本当に、オレのこと好きになってね」
笑いかけると、矢子は小さく頷いて毛布で顔を隠した。
****
────空が白んでいる。遠くで鳥が鳴いていた。
早朝特有のキンと冴えた空気の中、佳佑は目を覚ました。
辺りをゆっくりと見渡し、ああそうか、今日は泊まったんだっけと、ぼんやりする頭で思い出す。いつの間にかウィッグは外していて、中途半端な格好で寝袋の中で寝ていた。
横では小さく丸まった矢子が、布団の中で静かな寝息を立てている。
そっと彼女の髪に触れる。
一房すくい上げると、絹のようにするすると指を滑っていく黒髪。
仕事中の引っ詰められ窮屈そうにしていた髪を思い出す。今はもう違う。彼女の『こちら側』に来たのだと実感する。
この人と会って、関わって、自分の輪郭を知れた。
何もかもが変なのに、どこまでも愛情深い。世間体や常識なんか持ち合わせておらず、自分をただ『そのもの』として見てくれる。
だから好きだ。
例えユカじゃなくなっても、負い目を失っても、一緒にいてくれるだろうか。
その他大勢の寂しい人々と同じカテゴリーで大事に扱うんじゃなくて、男の恋人として傍に置いてくれるだろうか。
そうしたら、彼女の寂しさを自分が充たしてあげられるだろうか。
そのためにはまず、歪な過去を清算したい。
他人と同じになろう、悪いことはもう止める。
父親や大人達とのメールをやめただけでは、きっと清算できていない。
戸田望のこと、サキコのこと、タクヤのこと、大学の友達や噂のこと。
実際は、まだ何ひとつ片付いていないのだ。
やめると決めて、決意しただけ。
言ってしまえば目標を定めたに過ぎない。
では、どうするか。
今まで、根本的な解決は後回しにしてきた。
たくさん嫌な目にあっているのに、『ユカ』であることはなかなか止められない。止めようと思うと、なぜか苦しく辛いからだ。
だけど、矢子のためなら乗り越えて新しい自分になれるはずだ。
父親のことも、オジサン達のことも、『ユカ』ごと切り離して『普通』になる。
「オレ……女装やめる」
小さく決意を呟いたとき、矢子がそっと目を開いた。