ヴェールを脱ぎ捨てて
薄暗いリラクゼーション店『りらっくす』の店内。
矢子は施術椅子に座り、眠っているお客様の足裏を指で刺激しながら、自身の足指を靴の中でモゾモゾと動かした。
──今、私の爪は、エメラルドブルーだ。
それは見えない秘密。青なのか緑なのか、その曖昧さが心地好いその色を、見えない場所に纏う。
コンビニでしれっと働く佳佑の爪にも、同じものが塗られている。
今朝、お風呂に入った後、ふたりでお互いの足に塗りあった。佳佑はわざわざ塗っていたものをリムーバーで落として。
何かを共有する喜び。そして感じたことのないムズムズが矢子を定期的に襲い、足の指先を動かしてしまう。
施術が終わりひと段落つくと、店の裏から店長橋本が帰り支度をして出てきた。
「じゃあ、今日は先にあがるね」
早番だった橋本は、今日は早めの終業だ。にこにこと機嫌が良い。心なしか、今日は笑顔も輝いて見える。
「お疲れ様です。……橋本さん、何か良いことがありましたか?」
「えっ? なんか私、変かなっ!?」
気になって思わず訊いてしまっただけなのに、橋本は明らかに怪しい挙動不審ぶりをみせた。
矢子はそのわかりやすさに笑う。
「本庄さん?」
「ひぇっ?!」
ただ名前を言っただけなのに、ビクッとして周囲を見渡す橋本。
あぁ、何か進展があったんだなと、矢子は納得する。
「矢子さんがそういう事言うの、珍しい……」
からかわれたのに気付いて、橋本が口を尖らせて矢子に軽く文句を言う。だがすぐにスススと体を近付けると、耳元で声をひそめた。
「昨日、深夜ドライブに連れてかれたの。で、首都高5周した」
「えっ、高速道路をグルグル回っただけですか?」
「そう〜もうわけわかんないよ。美女木ジャンクション何回通ったか! 印象に残る地名だよ美女木! んで、ずっと仕事の愚痴とか、なんか世間話とか。で、この後も待ち合わせしてて……多分またドライブ」
「あらぁ〜……それはなんというか」
車酔いしなくて良かったですね、くらいしか感想がない。
だが橋本を見ると、不満そうな顔を作ってみせるもどこか楽しそうだった。あーこれが恋バナか、とふいに矢子は思う。
「橋本さん、楽しそう。良かったですね」
「良かった……のかな? うん。良かったかな。本庄さんのことは好きだし、悪くない」
さらりと好きだと言う橋本に、矢子は内心ドキリとした。
橋本はうんうん頷いた後、ニヤニヤして矢子を突いた。
「そっちは、佐伯様とどう?」
「佐伯様、ですか」
女同士と思っている橋本の話し方から、完全に冗談だとわかる。
矢子は自分の事をどこまでさらけ出したものかと一瞬躊躇い、
「昨日、お泊まり会をしました。それで、今、お揃いのペディキュアを塗っています」
秘密を明け渡す。それはなんとも気恥ずかしく、嬉しく、居心地の悪いような、不思議なムズムズを呼ぶ。顔が勝手に熱くなる。矢子は少しだけ俯いて、僅かに微笑んだ。
橋本はそんな矢子を見て、「すごい仲良しになったのね、良かった」ととびきり大きな笑顔をくれた。
それから何回か、矢子の部屋に佳佑、またはユカが泊まりに来た。
ある時は土鍋を持ってお鍋パーティ、またある時はキャンプ用具を持ち込んで室内キャンプごっこ。寝袋はそのまま矢子の家に置き去りにされ、泊まりに来た時は布団にくっつけて佳佑が眠る。
だらだらテレビを見ることもあれば、コンビニスイーツを山ほど持ってきて食べ比べをした事もあった。
とにかく、矢子の生活に佳佑と過ごすという日常が、特別ではなく当たり前として侵食してきていた。
それはジワジワと、矢子の何かを溶かし、壊し、新しく作っていく。
矢子は少しだけ、以前より笑うようになった。
何が変わったのか、自分ではよくわからない。
ある時、店でお客様にアロマオイルの話をしていた。
店頭では僅かにアロマも扱っている。施術中に使用することもあるため、気に入った方が買っていくからだ。
症状や好みを聞き、オイルを選ぼうとした。
「こちらなんて如何でしょうか。鎮静効果があって優しい香りの──」
フタを開けてコットンに少量垂らし────
「──!?……ックシュ!」
勢いよく体を仰け反らすと、矢子は慌てて口を塞ぎ、大きなクシャミをした。
「し、失礼致しました!」
思い切り吸い込んでしまったわけではない。なのに、鼻の奥から脳髄にガツンと響くように、香りが殴りかかってきた。そう感じた。
矢子は目をパチクリしながらなんとか接客を終え、大きく深呼吸する。
「なにが起こったの……」
動揺しながら、アロマのコーナーを片付けるフリをして、オイルのフタを取りひとつずつ嗅いでいく。
ラベンダーは優しい香り──あぁ、お花の青臭い感じ。なのに落ち着く。いつまでも嗅いでいたい。
オレンジは甘くて美味しそう──うう、お腹が鳴る。おかしい、さっきご飯は食べたのに。
ティートリーは清涼な消毒効果のある──くさっ、これってこんなツーンとしたかしら!?
今まで感じたことのないような、ダイレクトな香りが脳を刺激した。
教科書通りの香りの説明、効果、それ以上のものが、実感として矢子を襲う。
むしろ今までどうして、平気で嗅いでいられたのか。体の周りを覆っていたフィルターが、ふいに剥がれたような不安感。
あらゆるものが刺々しく、刺激的だった。
何もかもが冴え渡り、クリアになっていく。
意図せず世界が鮮やかさを増していく。
私は今、恋に落ちていく途中かもしれない────
****
曇天の空は、佳佑の心も重くさせる。
冬は深まり寒さが増す。横っ面を殴る北風に、俯きながらマフラーに顔を埋めた。
大学内を歩けば、未だヒソヒソとやられる。以前よりはマシだが、友達はもう二度と戻って来ないだろう。
寒い。ここでは、たった独りだ。
今日は朝からずっと携帯が震えていた。
最近会っていない、秘密のバイトの客から、痺れを切らしての連絡ラッシュ。クリスマスが近いせいだ。お金を使うのはアッチなのに、必死で連絡するなんてマゾいなと、佳佑は思う。
「クリスマスは矢子さんと過ごせるかなぁ」
はぁ、と白い息を吐き出す。
先日の彼女の話は、とても重たく、だけど納得がいった。矢子のあの不思議な雰囲気は、きっとそういう過去から滲み出ているんだろう。
抱えているものをどうにかしてやることは、まだ自分には出来そうもない。けれど、少しだけ一緒に背負ってあげることは出来るかもしれない。
クリスマス、彼女は仕事だろうか。
夜は空いているだろうから、ケーキを持って部屋に突撃してしまおうか。その前に、夜勤を入れられないようコンビニの店長と交渉しなくては。
佳佑はマフラーの中で、口元を緩ませる。
ふいに携帯を取り出して、未読メールをバッサリと削除した。
そして父親へこうメールを入れる。
『パパへ。最近ストーカーが出たので、しばらくやめます。よろしく』
数分後、返信が入る。
『そうか。再開したら知らせろ』
────それだけ。
クソが。心配するとか、他にないのか。
所詮金ヅルだ。
可愛い娘モドキをひけらかして、中間マージンをとっている。
客から入金は父親へ。殆ど中抜きされているのを知っていて、それに甘んじている。
プレゼント以外は、お小遣いという形で佳佑の口座に振り込まれた。
最悪だ。なんでこんなこと、許容しているんだろう。
同時に中途半端さも感じている。
父親の選別した人間は、どこかオドオドとした優しい人間ばかり。
社会に負い目を持ち、非人道的な事が出来ない。だから自発的にはユカに手を出さない。
父親が手を出すななんて言おうはずはない。けれど結果的にそうなっている。それは、父親に守られているとも言える。
そこに愛を感じてしまう自分が悔しい。ただ玩具を大事にしているに過ぎないのに。
授業を受けて、今日が終わっていく。
鈍色の太陽はさらに厚い雲に覆われて、辺りは暗い。寒さも増して、明日は雪でも降りそうだ。
「ホワイトクリスマスとか、いーなぁ」
しかし統計的にはクリスマスは晴れる確立が高いらしい。
晴れたら晴れたで、星でも見ようか。
そんなことを考えながら大学の門に差し掛かった時。
「けーすけ」
またかよ!
聞き覚えのある甘ったるい声が佳佑を呼び止め、思わず心の中で舌打ちをする。
なんでどいつもこいつも、オレに突っかかってくるわけ? ほっといてくれよ。そう叫びたくなる。
無視して歩く佳佑の前に、サキコが立ち塞がった。今日は取り巻きもおらず一人のようだ。
「なんかあたしに、言うことあるでしょ?」
「ないよ。どいて」
避けて通ろうとする佳佑の前に先回りして通せんぼするサキコ。
「……なに」
「文句もないの? あたしが噂流したって思ってるんでしょ?」
「そう聞いたけど。てかなに? しつこい、ウザい」
思わず苛ついた口調で言い放つと、サキコを睨んだ。だが、サキコは呆れたようにため息をつく。
「けーすけは優しいよね……」
それがなぜか馬鹿にされたように感じて、佳佑はカッとなった。
「オレはお前の事だいっ嫌いだよ。優しくしたこともないし、したいとも思ってない。ウザくてキモい。んでなんで話しかけてくんの。オレのことが嫌いならそれでいいけど、だったらもうこっちくんなよ」
静かな口調に怒りを湛えて捲し立てた。怒鳴らないようにだけ気をつけて、なるべく低い声で言い放つと、サキコもこちらを睨む。
「あたしが嫌いなら、無視すればいい。突っかかってんのはあんた」
「は?」
「いちいちご丁寧に嫌いだって言いながら睨んでくるじゃん。わかってんのよ、なんでそう思われるかくらい。あんただけだよ、まともに嫌がるのなんて」
「……」
サキコの目にみるみる涙が溜まる。なんでだ。意味がわからない。佳佑は混乱しながら呆然とサキコを見詰めた。
「あたしも、あんたがダイッキライだってこと。本当は普通に女が好きでしょ? 訂正すらしないあんたが嫌い。馬鹿だと思う」
馬鹿の言葉に佳佑がムッとする。と、サキコは指先でマスカラを落とさないよう器用に涙を拭うと、ニヤリと笑った。
「タクヤがなんて断ったかわかる?」
「タクヤ……?」
そう言えば彼もサキコに誘われて断った一人だ。けれどその後、タクヤとサキコは何も変わらず接していて、彼女に恨まれたり粘着されている様子はなかった。
なんでだろう、何が自分と違うのか。
唸ると、サキコが呆れた顔で首を傾げた。
「片想いの彼女未満の子がいて、そっちに必死だから今はごめん、だって」
「え、なにそれ」
そんな話聞いたことがなかった。嘘とまでは言わないが、そんな片鱗すら見たことはない。
「もしフラれたらその時はよろしくねー、だって」
「わぁ」
嘘か本当かはわからない。でも、タクヤが自分より数段上手いことはわかる。
相手のせいにせず、タイミングのせいにする。機会があればやりたかったと、サキコの自尊心を擽るのも忘れない。
「タクヤは優しいし、思いやりもある。でも、正直じゃない。だから許せるの」
「……で、オレは許せないんだ」
「そう。屈服させてやりたくなる。あたしのこと最高だって言わせないと、あたしがミジメじゃん」
わけわかんねぇ。……いや、本当にわからないか?
面と向かって正直に嫌いだと言われたら、反抗したくもなるものだ。ましてや自分の負い目に感じている部分や、やめられないこと、そんなことを攻撃されたら。
だから自分も、噂を否定せず飲み込んでいる。
だって、女の子の格好が好きだ。似合うんだから、何が悪い!
そう言ってしまいそうになるのだ。
少し混乱しつつも、佳佑は憮然とした顔でサキコに言った。
「オレ今、好きな人がいる。付き合う手前で、オレにとって、世界中で女はあの人ひとりだけだから無理」
言った後、なに言ってるんだと我に返り、思わず赤くなった。
別にもう誘われてもいないのに恥ずかしい。
そんな様子を見て、サキコが馬鹿らしいとばかりに顔をしかめる。
「……あっそう。がんばって」
「おう……」
それでサキコとは別れた。
こんなにたくさん彼女と喋ったのははじめてだ。
気持ちの悪い風俗嬢もどきだと勝手に思っていた。でも、彼女には彼女の生き方とプライドがあった。
自分の言葉に傷ついたり考えたりしてくれている。血が通っている。どこか生々しくも、人間なんだと、変な話だけれど、強くそう感じた。
たぶん今日、はじめてサキコの人間性に触れたのだ。
【用語解説】
<ラベンダー>:使いやすく入門にピッタリです。柔らかな花の香り。リラックス、鎮静、ストレス緩和、虫除け。皮膚の炎症を鎮める効果なんかも。
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