虚ろな愛
「矢子さんはコレ、着てください!」
佳佑がボストンバッグから取り出し矢子に渡したのは、可愛らしいモコモコなベビーピンクのパジャマだった。
「え」
「あ、嫌そうな顔してる」
「……いいえ、そんなことは」
矢子が梅干しでもかじったような顔で首を振る。
「可愛いから、絶対似合うから」
「着るのはやぶさかではないのですが、似合うかどうかは保障しかねます」
「じゃー、着て。オレも可愛いの着るから」
「えっ、佳佑さんも」
「うん」
続いて取り出したのは、水色のモコモコパジャマ。
辛うじて男性が着ていても大丈夫そうなデザインではあるが、佳佑でなければ似合うとは言い難いだろう。
「ほんとは『ユカ』でやりたかったんだけど、ウィッグとメイクなしはなんか美学に反する。でも、そのまま寝るのはしんど過ぎる」
苦悶の表情でパジャマを抱きしめる。なんだかよくわからない拘りと葛藤があるらしかった。
矢子は観念して服を脱ぎはじめた。
すかさず佳佑はパジャマを持って風呂場の脱衣所へ逃げ込む。
しばらくして、お互いモコモコにまみれた姿で対面した。
「カワイー! ヤバイ!」
「やばいですか?」
「ヤバイです! ねぇ、フード被って」
モコモコパジャマにはモコモコフードが付いていた。
矢子は布団の上に座り込んでフードを手繰る。手伝うように佳佑が正面に座り、後ろへ手を回した。
佳佑は既にフードを被っていた。フードには、猫耳のようなものが付いている。
「きゃわいい……黒髪ワンレン美女のモコモコパジャマ姿萌えっ」
「……呪文? 決して美女でもないですし」
「オレの彼女が美人じゃないわけがないんじゃない?」
「佳佑さん、変」
なぜか佳佑は異常なほどテンションが高い。
矢子が首を傾げると、佳佑がたまらないといった表情で矢子のフードの両端を掴んで、ちゅっ、と短いキスをした。
「っ?!」
「動揺してる、可愛い」
そのまま何度も、顔中に啄ばむような軽いキスを浴びせる。
「ちょっ、ちょっと、やめて」
矢子がウザそうに佳佑の口を手で押さえつけた。驚いて止まった佳佑に、にっこりと笑いかける。
「何をはしゃいでいるのか知らないけど、いい加減にしなさい」
「ふぁい、ごめんにゃふぁい」
口を塞がれたまま手の中で謝ると、矢子は頷いて手を離す。
「ずっと夢だったんですよねぇ。女の子と、可愛い格好して、可愛いものについてベッドで寝転がっておしゃべりするの」
「うちはお布団ですが」
「お布団でもいい、この際!」
佳佑が布団にダイブした。ごろごろと転がりながら、矢子を見上げにっこりと笑う。本当に楽しそうだ。
女の子っぽい、可愛いもの……この家にはそんなもの、あったかしら。矢子はしばし考え、
「あぁ、いいものがありますよ」
ふいに思い至り、押し入れを開けた。
そして奥から引っ張り出してきたのは、陶器で出来た白いアロマランプ。
壷型のそれには可愛らしい模様の穴が開いている。中でロウソクを燃やせば、その模様が光によって周囲に映し出される仕掛けだ。
「わあ……!」
佳佑が飛び起きて嬉しそうにランプを覗き込んだ。
矢子は所持しているいくつかのアロマオイルを取り出すと、佳佑の前に並べる。
「どれがいい? 気分に合わせてもいいし、好きな香りで選んでもいいですよ」
ラベルの貼られた緑や青の小瓶を手に取り、佳佑は蓋を開けて香りを嗅ぐ。「いい匂い」「これ、くさっ」などと言いながら、楽しそうに選ぶ。
反応を見詰めながら、矢子は好みを探った。
「佳佑さんは甘くて優しい香りが好きですね」
「そうかも。レモンとかオレンジとか、柑橘系は基本好き。あとこの……ゼラニウム? も」
「ほう」
男性では嫌いな人が多い。独特の甘さのある香りは、ホルモンバランスを整えてくれるという。
「あ、これ好きかも。変わった香り。イランイランと……サンダルウッド?」
「ふふ……」
矢子が笑うので、佳佑は首を傾げ、釣られたように曖昧に笑い返した。
「なになに? なんかおかしい?」
「いいえ。どちらも催淫効果がある香りです」
「えっ!」
驚いて固まる佳佑を見て、矢子はさらに笑みを深めた。
催淫、つまりベッドルームでムードを出すためのものだ。
「だからって、どうなる訳でもないんだけれど。私も好きですよ。いずれ使いましょう」
「え、あ、はい……」
いずれって、どういう意味で?
深読みしていいのかわからず佳佑が赤くなって黙ると、矢子は佳佑のふわふわした髪を軽く撫でた。
「今夜はオレンジ・スイートを基本にして、甘くて安らぐ香りにしましょう」
アロマランプの上に乗った小皿に水を張って、アロマオイルを数滴たらす。中のロウソクに火をつければ、温められたオイルを含む水が蒸発し、香りが室内に充満した。
ふたりは布団に入り、香りに包まれながら目を閉じる。
ロウソクの灯りがチラチラと揺れながら薄暗い室内を照らした。
「すごい楽しい。今日のこと忘れないです」
「それは良かった」
佳佑がまだ少し熱のある声で呟いた。
目を閉じていると、佳佑の声は少しだけ高く中性的で、ユカとイメージが混じる。
「お布団、狭くてごめんなさい」
手足が触れるのを気にして、矢子が呟く。
すると佳佑は目を開けて、矢子の方を向いた。矢子も目を開けて佳佑を見る。
「お話しませんか?……恋バナとか」
「恋バナですか」
前回と同じやりとりだったが、佳佑の口調は違っていた。落ち着いた口調でゆっくりとしゃべる。瞳はロウソクに照らされて優しく揺れていた。
「オレ、好きな人がいるんです。矢子つぼみさんっていう、リラクゼーションのお店で働いている年上の女性です」
矢子が驚いて目を見開く。
好きな人。そうか、恋愛するということは好きだということかと、改めて気付く。
「まだ出逢ったばっかりで、彼女の事がよくわかりません」
「よくわからないのに、好きなんですか」
「そうです。わかんないけど、好き。抗えない」
「そう……」
抗えない好きとは何だろう。矢子にはそんな経験はなかった。そもそも好きもわからない。嫌いだってよくわからない。
「だから知りたい。矢子さんのこと」
「私のこと……」
佳佑の声は柔らかく、力の抜けた囁きのようだった。性急さのない雰囲気が、昔話でもねだるような、可愛らしいものに思えた。
これが真剣に言われていたら、矢子はもっと戸惑っただろう。
佳佑はそう言ってまた目を閉じた。そして矢子の肩に鼻先をくっ付ける。このまま何も言わなければ、眠ってしまいそうだった。
「……私のこと」
矢子は自分のことで話すべきことがわからなかった。
話した事がない。聞かれた事もなかった。みんなそれぞれが事情を抱えていて、それは踏み込むべきでない個人の事。そう認識していたからだ。
「私は──矢子つぼみ。今のお店に勤め始めて、5年です。正社員ですが、店長試験には一回落ちて以来、受けていません。人と関わるのは苦手だけれど、最近、佐伯佳佑さん、またの名をユカちゃんという、変わった友人が出来ました」
奇妙な自己紹介が唐突に始まった。佳佑は心の中で笑いながら、目を開けず肩口で小さく頷いてみせる。
「佳佑さんも、ユカちゃんも、会うたびに一生懸命で、私は何かおかしくなる。多分それは、無関心でいたい心を、会うたびに壊されるからでしょうね。私は、無関心でいたい。そう、誰に対しても」
そこまで言うと、矢子は肺いっぱいにオレンジ・スイートの香りを吸い込んだ。甘い柑橘系の香りに混じって、仄かに香るサンダルウッドが心を落ち着かせてくれる。
「子供の頃。私は憶えていないのですが、小学校中学年の頃。私の家は火事になり、家族はみんな亡くなりました」
「え────」
佳佑が驚いて顔を上げた。
あの時の裸体を思い出す。酷い全身の火傷痕。
矢子を見ると、彼女は静かに目を瞑り、胸の前で手を組んでいる。動揺したり悲しむ様子はなかった。
「家族の記憶はありません。ただその時、私だけが助かって、全身に火傷を負いました。父と母と弟と妹は、いなくなりました。どんな人だったか、私は憶えていません」
まるきり無感動に、淡々と語る。
その様子に、佳佑の方が震えた。
「その後、最終的に交流のなかった祖母に引き取られました。祖母はまだ若く元気に見えました。けれど、そんなことは無く。祖母は私が中学に上がる前に亡くなりました。私はその時、蔵の中に閉じ込められていて、発見された時は衰弱していたので、祖母の死を知ったのはだいぶ後です」
「ちょ、ちょっと待って」
閉じ込められてた? なんで?
矢子の話は、かなり色々端折られている。
「誰が、何の為に矢子さんを閉じ込めてたの?」
意を決して訊くと、矢子は目を閉じたまま答えた。
「私を大人にしないため」
──わけがわからない。
「殺そうとしたってこと?」
「いいえ、違う。祖母は私を愛してくれていました」
「お祖母さんに閉じ込められたってこと?」
「そう。だから、ずっと一緒に、子供のままいるためよ。成長してはいけない。何も見てはいけない。何処にも他所へ行ってはいけない。愛してくれていたの。だけど、愛はこわい。そうも、思う……わ」
うわ言のような呟きは、眠気を含んでいた。
こっちの心を乱すだけ乱して、矢子は寝ようとしている。
佳佑は苦渋の表情で矢子を見下ろした。すると彼女は半分眠りに落ちながら、クスリと笑う。
「あぁ……エメラルドブルーを、忘れてた……」
そういえばそうだ。明日の朝、塗ってあげなきゃ。
佳佑は諦めると、釈然としないまま横になった。
色々知りたいとは思ったし、言った。でも、なんだかこれは重すぎて、まだ佳佑には到底抱えきれない。
****
その晩、矢子は夢の中で過去を彷徨っていた。
火傷だらけの幼い矢子。
親戚の家をたらい回しにされた後、痴呆が入った老女に世話になった。
祖母だという彼女はまだ健朗で、外面も良かった。だが、狂っていた。
家に帰れば毎日、暗がりに閉じ込められた。なにも見てはならない、私を置いていってはならない。成長してはならない。
矢子を隔離して、広がりゆく世界から閉じ込めた。
そしてある時、朝になっても迎えはこなかった。
ここで死ぬのだと、幼い矢子は覚悟した。
怖くなった。けれど、不思議と安心感もあった。
憶えていない家族の元へ行ける。カラッポの自分が、ようやく埋まる気がした。
目を閉じて、あらゆる小さな音を聞いた。虫の足音、古い家の息遣い。骨の動く音、血液の流れる音。弱っていく人間の音。
やがて扉が開いた時、そこにいたのは見知らぬ人々だった。
彼らは口々に何か言っていたけれど、矢子には応えるだけの力がなかった。
後で知ったのは、祖母が矢子を閉じ込めた後で亡くなっていたということだった。
彼女は眠るように安らかに亡くなったそうだ。
矢子は知っていた。
お婆ちゃんは、なんの心配もなく眠ったはずだ。私が閉じ込められていたら、どこにも行かなければ、いつも安心して眠ったから。
お婆ちゃんが嬉しいのなら、私も嬉しい。
私も、お婆ちゃんを愛してる。
【用語解説】
<ゼラニウム>:バラのような甘い香り。人により好き嫌いが激しく別れます。
<イランイラン>:華やかで甘く優雅な香り。催淫の他には、リラックス、女性らしさアップ、収れん作用など。
<サンダルウッド>:香道でいう白檀のこと。精神を落ち着け、多幸感を与えてくれる効果があります。
<オレンジ・スイート>:柑橘系の甘い香り。安らぎと元気を与えてくれます。
アロマはハーブ同様、妊娠中、生理中には扱いに注意が必要です。
気をつけてお楽しみください。