初めてのキス
深夜1時過ぎ。
インターホンの音で玄関を開けると、大きなボストンバッグを提げた佳佑が立っていた。
「今晩は。遅くなってごめんなさい」
冷んやりとした外気が流れ込む。佳佑の鼻の頭は赤くなり、真っ白な息を吐いていた。
「いいえ、寒かったでしょう。どうぞ入って下さい」
「お邪魔しま〜す」
佳佑はウキウキと中へ入ると、荷物を降ろしコートを脱いだ。
矢子はダイニングでいつもの様にお茶の準備をする。寒い中わざわざ来てくれた佳佑を、早く温めてあげたい。
けれど、ヤカンのお湯が沸くまで、少し待たなければ。
「佳佑さん」
「うん? なぁに、矢子さ……んっ」
ガタン、と音を立て、佳佑がダイニングテーブルに打ち当たる。
矢子が飛び付いてきて、キスしたのだ。
「ん、なふ……やこ、んふぁ」
何か言っているが、唇と舌の自由を奪われて言葉にならない。
暫くすると諦めたのか、テーブルに寄りかかって矢子の背中に手を回し、自らも深く舌を差し入れる。矢子は佳佑の首に腕を回し、全身でもたれかかりながら受け入れた。
涎が口の端から滴り落ちるのも構わず、夢中で吸い、舐め、貪り合う。冷えた佳佑の体は熱を帯び、吐息は熱く、鼻先は益々赤くなった。
ふいに、ピーという音がして、ヤカンの蓋がカタカタと音を立てた。
「あ、沸いた」
たらりと涎の糸を垂らしながら、矢子が唇を離す。
のろのろとコンロの火を止めに行く後ろ姿を、佳佑は呼吸を整えながら見守った。
矢子の目はとろんとしていた。
お互い椅子に腰掛け、矢子の淹れたジンジャーとレモンのお茶を飲む。酸っぱくて独特の苦味。薬効を感じさせる、体を温める味だった。
「……なんで急にちゅーするの」
ズズッとお茶を啜りながら、佳佑が上目遣いに矢子に尋ねた。
「温かくなったでしょう?」
「え、そんな理由」
唖然とすると、矢子は首を傾げる。
確かに温かくはなったけれど……。
「この後、する《・・》でしょう? 冷えたまま裸になるより──」
「んぶッ」
佳佑がお茶を噴き出しかける。
慌てて飲み下すと、咳き込みながらきょとんとする矢子を見上げた。涙が滲む。
「な、どうして、そんな焦ってるの」
「焦ってる?──いえ、恋愛するということは、恋人になるということでしょう? 恋人とは、そういう行為をする」
「待って待って。そりゃ、オレだってしたいけど」
佳佑は口元を袖口で拭って、考え込むように一度大きく息を吐いた。
矢子は本当にわからないようだった。
恋人になったら寝る。それはそうだけど、そうじゃない。けれど恋愛経験のない佳佑に、それを上手く言語化してあまつさえ矢子に伝えるなんて、ハッキリ言って無理だった。
考えた末、佳佑はある覚悟を決める。
「……まだ、恋人じゃないよ」
「えっ、そうなのですか」
矢子は何故か失望した。それはきっと、あのムズムズが続くことが確定したからだと思った。
「恋愛、できる、していこうって話です。これから」
「これから」
「はい。だから、これからお互いのことをたくさん話して、解り合って、好きになって、そしたら恋人になって、その……ええと」
「セック……」
「ええ、ええ! それ、しましょう!」
慌ててコクコクと首を振ると、矢子は目を丸くして佳佑を見詰めながら「なるほど」と頷いた。
佳佑にとっては、自分でオアズケした事になってしまったが。
「普通の恋愛とは、そういうものなんですね」
矢子が感慨深げに呟く。
「普通の恋愛、した事ないの?」
「ないですねぇ……」
矢子はお茶を飲みながら考える。
自分は、佳佑に相応しい男女の恋愛を提供出来るだろうか。すでに出来ていない気がした。
「前に、恋愛しない、好きになった人はいないと言いました」
「うん……きいた」
「それは別に、過去に何があったという訳ではなくて、私にとって恋愛や恋人とは、一夜で終わるものなんです」
「え」
お茶にフーフーと息を吹きかけていた佳佑が、怪訝な顔をしてピタリと動きを止めた。
「いつもネットの掲示板で相手を探します。少しやり取りをして、気に入ったら、会って寝る。どんな方とも……幸い、良い方としかお会いした事はありませんが」
「……」
佳佑がさらに渋い顔になる。自分でも嫌な顔をしているのがわかるが、とり繕いようがない。
「……その人たちと恋人になったりは?」
「ありません。一度寝たら、もう会いません。そこで終わりです」
あっっっぶねぇー……。
それじゃ、もし今夜寝てたら終わってた?
佳佑は口元を押さえて唸った。確認したいが、そうだと言われたらちょっと立ち直れない。
「私にとっての恋愛は、それが全てでした。だから、佳佑さんのご期待に添えるかはわかりませんが……」
おずおずと申し訳なさそうに言う矢子。
佳佑には、言いたい事や確認したい事は山ほどあった。いずれ、一つ一つ擦り合わせていかなければならないだろう。当初から感じてもう重々解っていたが、なにせこの人は、所謂普通の女ではないのだから。
うーんと唸って、佳佑は腕を組みながら矢子を見た。
「とりあえず、オレと恋愛してる間は、その掲示板を利用するのはナシってことでいいですか」
それだけは守って欲しい、いちばん大事だ。
矢子はすぐに頷く。
「もちろん。並行できる程、器用ではありませんから」
「……器用だったら並行しちゃうの」
「そうですね。その方が効率がいいですから」
「効率」
店の回転率みたいに言う。
次から次に、回転寿司のネタみたいに身体を開く矢子なんて、想像すらしたくない。
「…………矢子さんは」
やや脱力しながら、佳佑は俯いて言葉を探す。
「矢子さんは、どうしてそんなにたくさんの人と……」
言葉を選ばなければ、酷い言葉で揶揄してしまいそうだった。自分の事もその人たちと同じに見ている矢子に、勝手な怒りがフツフツと湧き上がり、燻る。
そんな佳佑を、矢子は真っ直ぐに見詰めて言った。
「寂しいからです」
その言葉に、佳佑はハッとして顔をあげる。
「きっと、寂しいから、肌を合わせたい」
当たり前だとでも言いたそうな口調に、佳佑はただ悲しく、切なくなって顔を歪める。
解りたくもないのに、根本的なところが、理解出来てしまった。
寂しいから────佳佑が、矢子の店に行く理由だ。
肌を合わせることに抵抗や嫌悪感がなかったなら。きっと自分も、狂ったようにそうしていたかもしれない。
それくらい、自分は寂しい。
「矢子さん。抱き合ったり、キスはいいよ。オレとしよ」
「そうなんですね」
ホッとするような矢子の様子に、胸が締め付けられた。
なぜ寂しいのか。なぜそんな事で寂しさを埋めるのか。なぜ、自分のためにそれを我慢してくれようというのか。
いずれ全部、少しずつ────。
佳佑は立ち上がると、椅子に座る矢子の側へ周り、その黒く長い髪を撫でた。
矢子が不思議そうにこちらを見上げる。
「目、閉じてよ。まだ上手くできないから」
そう言って頬を両手で包むと、矢子は了解したように目を瞑った。
白い肌に黒いまつ毛が映える。小さな唇は色が薄く、少しだけ荒れていた。佳佑はその唇にゆっくりと自身の唇を押し当てた。そっと触れただけのキスは、柔らかく温かい。
性欲とは別の何かが湧き上がり、佳佑の心の芯が熱くなる。
思えば普通のキスは初めてだ。ただ互いの存在を感じるだけの、唇をくっつけただけのキス。性欲のためじゃない。矢子を感じるためだけ。
そう思ったら震えた。
なぜか涙が出そうになって、息が詰まり、目を開けて唇を離す。
「あ……けい…すけ、さん」
すると目の前の矢子が、真っ赤な顔をくしゃくしゃにしてこちらを見詰めていた。瞳を潤ませ、呼吸を忘れていたかのように息を荒くして。
「なに、これ……ビリビリ、します……ね」
力なく微笑み、頰を包む佳佑の両手の上から、更に自分の手を被せて指を絡ませる。
矢子の手は、燃えるように熱くなっていた。熱を帯びた指先が這うように触れるたび、佳佑の全身に痺れるような電流が奔る。
「これ、普通のキス、だよ」
「そう……普通の」
矢子は笑った。
なあんだ、そうか。知らなかった。
そんな無邪気な笑顔に、目尻で溜まった涙が一粒、はらりと落ちた。
「初めて」
────その言葉を聞いた瞬間。
佳佑の恋慕や愛に関する定義は、全て矢子ひとりのものになった気がした。
【用語解説】
<ジンジャーとレモンのお茶>:市販でよくある組み合わせ。言わずと知れたショウガ湯です。血行、消化促進など。ピリリとした刺激。モノによっては蜂蜜を入れてどうぞ。