表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/32

初めてのキス

 深夜1時過ぎ。

 インターホンの音で玄関を開けると、大きなボストンバッグを提げた佳佑が立っていた。


「今晩は。遅くなってごめんなさい」


 冷んやりとした外気が流れ込む。佳佑の鼻の頭は赤くなり、真っ白な息を吐いていた。


「いいえ、寒かったでしょう。どうぞ入って下さい」

「お邪魔しま〜す」


 佳佑はウキウキと中へ入ると、荷物を降ろしコートを脱いだ。

 矢子はダイニングでいつもの様にお茶の準備をする。寒い中わざわざ来てくれた佳佑を、早く温めてあげたい。

 けれど、ヤカンのお湯が沸くまで、少し待たなければ。


「佳佑さん」

「うん? なぁに、矢子さ……んっ」


 ガタン、と音を立て、佳佑がダイニングテーブルに打ち当たる。

 矢子が飛び付いてきて、キスしたのだ。


「ん、なふ……やこ、んふぁ」


 何か言っているが、唇と舌の自由を奪われて言葉にならない。

 暫くすると諦めたのか、テーブルに寄りかかって矢子の背中に手を回し、自らも深く舌を差し入れる。矢子は佳佑の首に腕を回し、全身でもたれかかりながら受け入れた。

 涎が口の端から滴り落ちるのも構わず、夢中で吸い、舐め、貪り合う。冷えた佳佑の体は熱を帯び、吐息は熱く、鼻先は益々赤くなった。


 ふいに、ピーという音がして、ヤカンの蓋がカタカタと音を立てた。


「あ、沸いた」


 たらりと涎の糸を垂らしながら、矢子が唇を離す。

 のろのろとコンロの火を止めに行く後ろ姿を、佳佑は呼吸を整えながら見守った。

 矢子の目はとろんとしていた。


 お互い椅子に腰掛け、矢子の淹れたジンジャーとレモンのお茶を飲む。酸っぱくて独特の苦味。薬効を感じさせる、体を温める味だった。


「……なんで急にちゅーするの」


 ズズッとお茶を啜りながら、佳佑が上目遣いに矢子に尋ねた。


「温かくなったでしょう?」

「え、そんな理由」


 唖然とすると、矢子は首を傾げる。

 確かに温かくはなったけれど……。


「この後、する《・・》でしょう? 冷えたまま裸になるより──」

「んぶッ」


 佳佑がお茶を噴き出しかける。

 慌てて飲み下すと、咳き込みながらきょとんとする矢子を見上げた。涙が滲む。


「な、どうして、そんな焦ってるの」

「焦ってる?──いえ、恋愛するということは、恋人になるということでしょう? 恋人とは、そういう行為をする」

「待って待って。そりゃ、オレだってしたい(・・・)けど」


 佳佑は口元を袖口で拭って、考え込むように一度大きく息を吐いた。

 矢子は本当にわからないようだった。


 恋人になったら寝る。それはそうだけど、そうじゃない。けれど恋愛経験のない佳佑に、それを上手く言語化してあまつさえ矢子に伝えるなんて、ハッキリ言って無理だった。


 考えた末、佳佑はある覚悟を決める。


「……まだ、恋人じゃないよ」

「えっ、そうなのですか」


 矢子は何故か失望した。それはきっと、あのムズムズが続くことが確定したからだと思った。


「恋愛、できる、していこうって話です。これから」

「これから」

「はい。だから、これからお互いのことをたくさん話して、解り合って、好きになって、そしたら恋人になって、その……ええと」

「セック……」

「ええ、ええ! それ、しましょう!」


 慌ててコクコクと首を振ると、矢子は目を丸くして佳佑を見詰めながら「なるほど」と頷いた。

 佳佑にとっては、自分でオアズケした事になってしまったが。


「普通の恋愛とは、そういうものなんですね」


 矢子が感慨深げに呟く。


「普通の恋愛、した事ないの?」

「ないですねぇ……」


 矢子はお茶を飲みながら考える。

 自分は、佳佑に相応しい男女の恋愛を提供出来るだろうか。すでに出来ていない気がした。


「前に、恋愛しない、好きになった人はいないと言いました」

「うん……きいた」

「それは別に、過去に何があったという訳ではなくて、私にとって恋愛や恋人とは、一夜で終わるものなんです」

「え」


 お茶にフーフーと息を吹きかけていた佳佑が、怪訝な顔をしてピタリと動きを止めた。


「いつもネットの掲示板で相手を探します。少しやり取りをして、気に入ったら、会って寝る。どんな方とも……幸い、良い方としかお会いした事はありませんが」

「……」


 佳佑がさらに渋い顔になる。自分でも嫌な顔をしているのがわかるが、とり繕いようがない。


「……その人たちと恋人になったりは?」

「ありません。一度寝たら、もう会いません。そこで終わりです」


 あっっっぶねぇー……。

 それじゃ、もし今夜寝てたら終わってた?

 佳佑は口元を押さえて唸った。確認したいが、そうだと言われたらちょっと立ち直れない。


「私にとっての恋愛は、それが全てでした。だから、佳佑さんのご期待に添えるかはわかりませんが……」


 おずおずと申し訳なさそうに言う矢子。

 佳佑には、言いたい事や確認したい事は山ほどあった。いずれ、一つ一つ擦り合わせていかなければならないだろう。当初から感じてもう重々解っていたが、なにせこの人は、所謂普通の女ではないのだから。


 うーんと唸って、佳佑は腕を組みながら矢子を見た。


「とりあえず、オレと恋愛してる間は、その掲示板を利用するのはナシってことでいいですか」


 それだけは守って欲しい、いちばん大事だ。

 矢子はすぐに頷く。


「もちろん。並行できる程、器用ではありませんから」

「……器用だったら並行しちゃうの」

「そうですね。その方が効率がいいですから」

「効率」


 店の回転率みたいに言う。

 次から次に、回転寿司のネタみたいに身体を開く矢子なんて、想像すらしたくない。


「…………矢子さんは」


 やや脱力しながら、佳佑は俯いて言葉を探す。


「矢子さんは、どうしてそんなにたくさんの人と……」


 言葉を選ばなければ、酷い言葉で揶揄してしまいそうだった。自分の事もその人たちと同じに見ている矢子に、勝手な怒りがフツフツと湧き上がり、燻る。

 そんな佳佑を、矢子は真っ直ぐに見詰めて言った。


「寂しいからです」


 その言葉に、佳佑はハッとして顔をあげる。


「きっと、寂しいから、肌を合わせたい」


 当たり前だとでも言いたそうな口調に、佳佑はただ悲しく、切なくなって顔を歪める。

 解りたくもないのに、根本的なところが、理解出来てしまった。


 寂しいから────佳佑が、矢子の店に行く理由だ。

 肌を合わせることに抵抗や嫌悪感がなかったなら。きっと自分も、狂ったようにそうしていたかもしれない。

 それくらい、自分は寂しい。


「矢子さん。抱き合ったり、キスはいいよ。オレとしよ」

「そうなんですね」


 ホッとするような矢子の様子に、胸が締め付けられた。

 なぜ寂しいのか。なぜそんな事で寂しさを埋めるのか。なぜ、自分のためにそれを我慢してくれようというのか。

 いずれ全部、少しずつ────。


 佳佑は立ち上がると、椅子に座る矢子の側へ周り、その黒く長い髪を撫でた。

 矢子が不思議そうにこちらを見上げる。


「目、閉じてよ。まだ上手くできないから」


 そう言って頬を両手で包むと、矢子は了解したように目を瞑った。

 白い肌に黒いまつ毛が映える。小さな唇は色が薄く、少しだけ荒れていた。佳佑はその唇にゆっくりと自身の唇を押し当てた。そっと触れただけのキスは、柔らかく温かい。

 性欲とは別の何かが湧き上がり、佳佑の心の芯が熱くなる。


 思えば普通のキスは初めてだ。ただ互いの存在を感じるだけの、唇をくっつけただけのキス。性欲のためじゃない。矢子を感じるためだけ。

 そう思ったら震えた。

 なぜか涙が出そうになって、息が詰まり、目を開けて唇を離す。


「あ……けい…すけ、さん」


 すると目の前の矢子が、真っ赤な顔をくしゃくしゃにしてこちらを見詰めていた。瞳を潤ませ、呼吸を忘れていたかのように息を荒くして。


「なに、これ……ビリビリ、します……ね」


 力なく微笑み、頰を包む佳佑の両手の上から、更に自分の手を被せて指を絡ませる。

 矢子の手は、燃えるように熱くなっていた。熱を帯びた指先が這うように触れるたび、佳佑の全身に痺れるような電流が奔る。


「これ、普通のキス、だよ」

「そう……普通の」


 矢子は笑った。

 なあんだ、そうか。知らなかった。

 そんな無邪気な笑顔に、目尻で溜まった涙が一粒、はらりと落ちた。


「初めて」


 ────その言葉を聞いた瞬間。

 佳佑の恋慕や愛に関する定義は、全て矢子ひとりのものになった気がした。




【用語解説】

<ジンジャーとレモンのお茶>:市販でよくある組み合わせ。言わずと知れたショウガ湯です。血行、消化促進など。ピリリとした刺激。モノによっては蜂蜜を入れてどうぞ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ