碧い告白
「この前はごめんなさい。逃げるように帰ってしまって」
リクライニングチェアに座って、足置きに素足を投げ出しながらユカが囁いた。
カーテンに仕切られた施術室には二人きり。静かな店内で声をひそめる。
矢子は首を振り、ユカの足先を軽くウェットティッシュで消毒していく。
「いいえ、こちらこそ申し訳ありませんでした。驚かせてしまって──なぜあんな事をしたのか──」
佳佑といると、自分を失ってしまう。
女の面が顔を出したかと思えば、全てどうでもよくなったり、母親のように口煩く忠告したり。
矢子はほんの少し眉根を寄せ、拭き終わった足にタオルを掛けた。目を上げず、いつもの嘘くさい微笑みもない。
ユカは自身に戸惑う矢子を見下ろしながら、彼女を初めて可愛く思う。
「矢子さん。私と恋愛してくれませんか」
思いがけない囁きに、矢子が顔を上げた。眉間にはしっかりとシワが寄っていた。
「……私、恋愛はしないんです」
その反応を見て、ユカは勝機を見出す。
理由をわざわざ口に出さずとも、無碍もなく断ることは幾らでも出来るはずだ。
「前にも聞きました。でも私と矢子さんは、恋愛、出来ると思います」
矢子が自分を意識していることに、あの日、ユカはやっと気付いたのだ。
突然態度が変わるのも、脈絡なく脱ぎ出したのも、拒絶するのも。
気付いていないのは、矢子本人ばかり。
「あなたをもっと知りたい」
なぜそんなふうなのか。何を隠して生きているのか。矢子の後ろに見え隠れする本当の姿を、ユカは見たいと強く思っている。
背もたれをゆっくりと倒され、チェアの上で横になったユカが矢子を見上げる。真横でチェアのレバーを倒す矢子の顔が、ユカに近付いた。
「してみませんか」
間近で矢子の瞳を見詰め、軽く腕に触れながらそっと囁く。
心臓が早鐘を打ち、指先が震えるのを落ち着かせながら、ユカは矢子の顔を覗き込んだ。
数度、長いまつ毛を瞬かせる。
矢子が一瞬だけユカの瞳を見た。薄暗い間接照明に照り返された色素の薄い綺麗な瞳に、矢子の戸惑った顔が映り込んでいた。
しっかりと纏めていたはずの髪が、一房、ハラリと頰に滑る。
矢子は何も言わずそのまま体を離すと、「体勢お辛くないですか」などの定型文を口にし、ユカの足元にある施術用の椅子に腰掛けた。
ユカは黙って目を閉じた。
矢子はユカの足にかけたタオルを剥がす。
今日のペディキュアは、目が醒めるような爽やかな碧だった。
────40分後。
足ツボのコースが終わり、オイルを軽く拭き取ってチェアの背もたれを上げた。
起き上がったユカに、矢子はにっこりと微笑みかける。
そして営業スマイルのまま、言葉を続けた。
「恋愛の件、お受けします」
「えっ」
ユカが驚いて思わず声をあげた。
「わ……もう? もっと、何ヶ月もかけて落とすつもりでした」
意外そうに目をパチクリさせる。
矢子は首を傾げた。
「何ヶ月も? そんなに時間をかけるものなんですか?」
寧ろどうして即決しないのか、矢子はその方が不思議だった。
ユカの告白に心が動かされたのは確かだ。ここ最近のユカと佳佑との関わりも、自分の中の何かを乱す。その存在が、自分ともっと関わりたいと言っている。
ならば、答えは一つしかない。悩んだって仕方ない。
するかしないか、それが矢子のやり方だ。
「こういうの、嫌いだと思ってたから。……なんでオッケーしてくれたの?」
ユカが戸惑いながら尋ねた。
そうね、と矢子は思案する。なぜなのかを明確に説明することは不可能だ。なぜか気になる、なぜか不愉快ではない、それが理由。
矢子はふいに視線を外し、ユカの足元に目をやった。
「爪が、とても綺麗だったから。きっと心が動いたんです」
ふふ、と柔らかく笑ってみせる。
ああ、冗談だな。珍しいなと思いながら、ユカが答える。
「いいでしょ。エメラルドブルーです」
「エメラルドブルー? そんな色、あるんですか」
「いえ、それが無いんです。商品名。本当は、コバルトブルーとか、エメラルドグリーンとか、そういうのなんだろうけど」
南国の遠浅の海のような、珊瑚礁を思わせる緑がかった青。光の角度によって、緑と青、どちらの色にも見える。
色とはなんて鮮やかで、曖昧なものだろう。
「今度、私にも塗ってください」
「もちろん。お揃いにしましょ」
矢子はなぜか浮かれていた。
それを感じて、ユカもふわふわと浮き上がる。
ふたりは一度だけ顔を寄せ合うと、鼻先をくっつけて微笑んだ。
その日の仕事が終わると、締め作業に入る。
チェアをチェックして綺麗に拭いていると、店長橋本が寄ってきた。
「矢子さん、佐伯様とお友達になったんでしょ?」
「え」
お友達……だろうか。
恋愛するのなら、恋人、になりつつある、のだろうか。
矢子が戸惑っていると、橋本が慌てた。
「あ、怒ってないからね? お客様とお友達になっても、問題ないから!」
どうやら咎められると思ったと勘違いしたようだ。
橋本は「良かったねー、美人のお友達うらやまー」と笑った後、
「でも気を付けてね。この前のあの人とか、たぶんストーカーってヤツでしょ? 戸締りはしっかりね!」
と、真剣な顔で詰め寄ってきた。
戸田望の事だ。戸田望は結局、好きな女である佐伯を追いかけてやって来て、情報を聞き出そうと暴れた、という事になっていた。
矢子がありがとうございますと無難に返そうとした時。
「おう。戸締りはしっかり、だけどなる早でな」
「ヒッ! 本庄さんっ」
「あ、お疲れ様です」
このモールのこの階層の責任者、本庄がひょっこりと顔を出す。
彼は矢子を見ると手の具合を聞いてきた。
「もう大丈夫です。ご迷惑をおかけしました」
「ん。なら良かった。まぁ、なんかあったら遠慮なく橋本に言えよ」
「はい」
「で、橋本よぉ────」
本庄が書類の束でバサバサと橋本の頭を軽く叩いた。
橋本が竦みあがる。
「いくらうち全体が厳しいからって、お前んとこの前年比……」
「あわわ……販促にクーポン出す予定がですね──」
そのまま二人で話し込みはじめた。
矢子は内心、この二人は仲が良いなと思いながら見詰めていると、橋本がふいにこちらを振り返る。
「ごめん、矢子さん。今日は締め私がやるから、先に帰っていいよ」
「そうですか?……では、お先に失礼します」
「おう、お疲れさん」
なんだか邪魔してはいけないと、二人に挨拶しそそくさとその場を後にした。
あの二人は、お友達、だろうか。
橋本の雰囲気から、まだ恋人ではないだろう。じゃあ、私たちと同じ、恋愛する予定の関係なのだろうか。
「なんだかムズムズする……」
こんな中途半端な関係を、言語で明確にするものだろうか。明確にした事によって、恋人と定義されるより落ち着かない。
白い息を吐きながら、矢子は早足で家路を急いだ────正確には、家路の途中にある、一軒のコンビニを。
「今夜、エメラルドブルーのペディキュアを塗ってもらおう」
コンビニの制服姿の佳佑を思い浮かべながら、矢子は心の中でそう決意する。そうしてもらったら、このムズムズが少しは治まるかもしれない。
見慣れたコンビニの看板を見上げ、早足で店内へ入っていく。
いつもの茶髪の店員が、気怠そうに来店の挨拶をした。
矢子はぐるりと店内を見回す。
「あ、佐伯クンっすか?」
店員がそう声をかけてきた。どうやら覚えてくれていたらしい。
矢子が頷くと、「ちょっとお待ち下さいっす」と言って奥へ引っ込む。
その直後、もぐもぐと口を動かしながら慌ただしく佳佑が顔を出した。
「お食事中だったのですね。ごめんなさい」
佳佑は少々驚きつつも嬉しそうに目だけで笑い、口を手で隠しながら「大丈夫でふ」と頷いた。
「今日、バイトが終わったら、エメラルドブルーを塗って下さいませんか」
「えっ、今日ですか」
「ええ」
矢子が力強く頷くと、佳佑は明後日の方向を見ながらしばし思案した後、視線を戻してにっこりと微笑んだ。
「わかりました。でも、あがれるのは日を跨ぐ頃で、そこから準備して行くので深夜になるけどいいですか?」
「構いません。明日、遅番ですから」
「そーなんだ。じゃあ、パジャマパーティーのリベンジといきましょう」
佳佑が嬉しそうに笑う。
矢子は話が済むと「それじゃあ、また後程」と踵を返して颯爽と帰っていく。
「カノジョサンとお泊りっすかぁ」
後ろで聞いていたのか、茶髪の店員がニヤニヤしながら声をかけてきた。
『カノジョ』と『お泊まり』……
そんな可愛いものじゃないかもしれない。けれど、彼には恋人同士に見えたという事が、今は嬉しく、気恥ずかしい。
佳佑は振り返ると、少しだけはにかみながら微笑んだ。