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二章 四

二章 四




 真っ暗。そこにぽつり、光りが咲いた。

「……い」

 海にたゆたうようなまどろみに浮かんでいた意識が声を拾う。

「おい、どこで寝てやがる小娘」

 晴れた空を声にしたらきっとこうなるんじゃないかな。そう出会った時に思った、樹宝さんの声がする。ゆるゆると眠りから揺り起こすその声はどこか呆れたようなもの。

「あ……。樹宝さん。おはようございます」

「おはようじゃねーよ。まだ夜中だ」

 ごしごしと目元を擦って私は辺りを見回す。ビオルさんが作ってくれている家は完成間近で、少し前から私はここで寝起きをしている。真新しい木の床に艶出しを塗って磨いて。窓枠や設えられた棚などは花や動物が彫り込まれていてとても可愛い。冬には火を入れる暖炉に、今は花の鉢が置かれている。可愛らしいこじんまりした家の床に私は寝ていた。

 傍には開いたままの本とノート、黒い木炭の棒。ペンとインク壷だったら大惨事を引き起こしていたかもしれない。

「そんなに床が好きなのかお前は」

「あは。いつの間にか寝ちゃってました」

 昼間にビオルさんから教えてもらった事を復習しておこうと思って本を開いていた筈だったのに。……あ。と言う事は……。

「乳鉢や草は片付けた。ったく、ビオルさんから適当に様子見に行けって言われてっから、来て見たらこれか」

 本と一緒に広げて調合していた筈の物を急いで確認しようとすると、樹宝さんが今度こそ溜め息をついた。

「良かった……。ありがとうございます」

「ビオルさんが折角作ってくれた寝床を、どうして使わねぇんだ」

「寝るつもりは無かったんです」

 でも、ご飯を食べて少しだけ復習をしようとしたら、お腹いっぱいで幸せな気持ちになって、いつの間にか眠ってしまっていたみたい。

「よくこんだけ長く、床で熟睡できるな」

「そんなに長く……」

 言いかけて、あれ? と思う。

「樹宝さん」

「何だ」

「今は」

「夜中だっつったろうが」

「…………」

 待って。やだ。私、まさかよだれとか垂らしてないよね!

 ざあっと自分でもわかるくらいの勢いで血の気が引く。貧血になりそうなくらいの勢いで。思わず袖で口元を確かめるように拭おうとして、樹宝さんと目が合う。

「……っく」

「え?」

 橙と唐紅花の樹宝さんの瞳が瞠られたと思ったら、吹き出してそっぽを向かれた。

 何で? どうして樹宝さん?

「くは、くく……似合うじゃねぇか」

「え?」

 ビオルさんの口元にはいつも笑みが浮かんでいる。今の樹宝さんの口元に浮かんでいるのは、それよりも少しだけ意地悪そうな、けど何だか楽しそうな笑み。

 ニィッと樹宝さんは口の端を吊り上げる。そうして自分の頬を指差して。

「跡、ついてんぞ」

「ひぇ!」

 奇声にかまっている余裕も無く、私は両手で自分の顔に触った。

 指先に感じたのは、顔にしっかり床の板目跡がついてますという証で。

「く。くく……」

「――っ!」

 樹宝さんに見られた! いやああああああああ!

 さっきとは逆に全身の血が顔を通って頭に上ってくる。やだ。泣きそう。

 よりにもよってこんな顔、樹宝さんに……好きな人に見られるなんて!

「おい。何か顔が変な色になってるぞ」

「わ、私、お茶淹れますね!」

「あ」

「きゃっ!」

 勢いをつけて逃げ出すように立ち上がった罰なのかもしれない。慌てた足はもつれてスカートに絡まり床が目の前に迫る。

 ああ、もう一日でこんなみっともない姿を見られる事になるなんて! 後で穴掘って埋まったほうがいいかも……。

 ぎゅっと目を瞑って顔に感じるはずの痛みに、身構える。けど。

「お前はそんなに床が好きなのか?」

「え?」

 予想していたのとは違う、腰に衝撃とも言えない圧力。暖かいとは言えないけど、冷たくも無い不思議な温度が服越しに伝わる。

「どうなんだ。小娘」

 さっきよりずっと近くで聴こえる、声。じわじわと私の顔が赤く染まっていくのがわかる。今目を開けたら、顔から火が出るかもしれない。ううん。それよりまず、熱出すかも。だって、だって……。

「おい、返事くらいしろ。このまま床に放り投げるぞ」

 樹宝さんに腰を抱えられている状態で口を開いたら、奇声しか出ません!

「ったく……。本当に鈍くさい奴だな」

 色々な意味で恥ずかしくてどうにかなりそうな私の耳に、そんな呆れ混じりの樹宝さんの声が滑り込む。

「放すぞ」

 ストンと床の上に降ろされる。もうこのまま床にめり込んで埋まりたい。

「茶は?」

 笑みを含んだ樹宝さんの声に、意地悪だと思うけどやっぱり、私は。

「淹れてきます」

 そこに居て、お茶を淹れるまでそこに居てくれるんだと思ったら、恥ずかしさより嬉しさが勝って、俯いたまま笑み崩れてしまっていた。




「お薬を売りに行く、ですか?」

 一晩空けて台所に朝食を作りに来てくれたビオルさんは、変わらず布の塊みたいな姿で笑いながら、誘いかけてきた。

「そうぅ。うふ。リトさんのぉ、作ったお薬ぃ十分品物にぃなるものだからねぇん。自分の服用分以外のぉ、作り置きから少し見繕ってぇ、売りに行くのが良いと思うのぉん」

「売りに……」

「リトさんや。『売る』事にぃ躊躇いがあるぅ?」

 ビオルさんがそう言って片方の袖口を口元に添える。そうすると本当に布の塊みたい。

「無償で配るって言ったらぁ、抵抗は無いのかなぁん?」

「……恐らく」

「くふ。良い子だねぇん。けどぉ、駄目だよぉん? それはやっちゃあいけないのぉん」

「何故ですか?」

「誰のためにもぉ、ならないことが多いからかなぁん」

 どっこいしょ、とビオルさんは台所用の背の無い丸いイスを引き寄せて腰掛ける。

「たとえばぁ、リトさんが無償でお薬を病の流行った村に配ってあげたとしてぇ、村人が全員助かったとするよぉ」

「良いことですよね」

「うん。良い事だねぇ。この上なく良い事だと思うよぉ?」

 でもねぇ、とビオルさんはどこか困ったような声で続ける。

「その次はどうするのぉ?」

「え?」

 次って何?

「一度ぉ、助けた村でぇもう一度ぉ、今度は違う病が流行ったとしてぇ、また無償で助けるぅ? 同じ病でも言える事だけどぉん」

「次も」

「助けるだろうねぇ。じゃあ、それはその村だけぇ?」

 さらりとビオルさんのフードから零れた緑青色の髪が揺れる。白く骨ばった指を組み合わせ、まるで祈るような……少しだけ悲しそうな声でビオルさんは言う。

「その村だけを無償で癒し治しぃ、何度でも助けているならぁ、いつかそれが当たり前になるよぉん。リトさんや、人はねぇ、『慣れ』てしまうものなんだよぉ」

「慣れる……」

「病にかかってもぉ、無償で治してくれるのが『当たり前』になってぇ、その感覚と考え方はぁ、病よりも速く広がっていくよぉ。病にかかってもぉ無償で治してくれる村にはぁ、人が沢山集まるだろうねぇ。そうしてぇ、もし逆にリトさんが倒れたらぁ?」

「あ」

「治してくれる人がぁ倒れたら今度は村ごと巻き込むことになるよん。皆ぁ、治してもらうのが当たり前でぇ、『病にかかっても治してもらえばいいだけ』ってぇ思うようになったそこではぁ、治してくれる人が倒れた時の事なんてぇ考えない。無くしてはじめてぇ、その存在に気づいてもぉ、遅い事だってあるんだよぉ」

 ズキンと心臓が痛んだ。それは、まるで私みたいで。

 お父様とお母様、可愛がってくれた村の人の優しさ。ビオルさんの言う事がわかる。もし、今も両親が生きていたら、私は変わらず日々を過ごしていたと思うから。

 それが、『当たり前の日常』だと疑いもしないで。

「良い事なんだよぅ。基本的にはねぇ。けれど、だからこそぉ一つの線を引く事が癒すものにも、癒されるものにも必要なのかもねん。何でも『当たり前』にしない為に」

 ビオルさんが立ち上がる。窯から漂うどこか甘みのある香ばしい匂い。

「まぁ、別にぼったくれってぇ言ってるわけじゃあないからぁん。ただ無償はなるべく避けたほうがいいって事だよぉん」

 窯の扉を開けると、ふわっと熱気と解放された焼き立てパンの香りが漂ってくる。

「それにぃ、実際問題。人間としてぇ生活しようと思ったらぁ、通貨とかその他色々とぉ必要だしぃ」

 確かに。服とかそういうのはこの間みたいな市に出かけて……あれ?

「ビオルさん……」

「んぅ? どうしたのぉん?」

「この服もそうですけど、他の食器とか敷物とか」

「うん」

「これって全部、ビオルさんが購ってくれたんじゃ……」

「あ……。えーとぉ、まぁ、そうだけどぉ……別にそれは気にしなくて良いよぉ?」

 そうだよね。ここには生地屋さんも仕立て屋さんもない。そもそもお店なんかないんだもん。なのにこんなに可愛いテーブルクロスとか着替えとかあるって事は、つまり用意した人、ビオルさんが買い揃えてくれたって事。

「あの、リトさんや? もしもしぃ? 私の声ぇ、聴こえてるぅ?」

「ビオルさん!」

「うん?」

「ちょっとずつ、ですけど、私、返しますね」

「いやぁ。だからねぇ? 気にしなくていいんだよぉ」

「駄目です」

「でもぉ」

「ビオルさんが、言ったんですよ?」

「え?」

「この幸せを、当たり前だと勘違いしてはいけないって。もらった好意を、当然だと慢心しちゃいけないって。私、とっても嬉しいんです」

 今日のお洋服は甘いクリーム色にミントグリーンで小鳥や植物のシルエットを袖や裾に描いた丸襟のワンピース。使い込まれて柔らかくなった飴色のブーツ。どれも新品でこそないけど、大事にされてきたのを感じる。同じように古着ではあるけれど大事にされてきた綺麗で可愛いお洋服をビオルさんは用意してくれた。不自由しないようにと、気を遣ってくれた。それはきっと、この人自身の優しさから。

「古着だよぉ? それにぃ、他の物だってぇ、そこまで喜ぶほど高価なものなんて一つもないんだしぃ」

「そんな事ありません。少なくとも、私にとっては。値段じゃなくて、気に掛けてもらえて、こんなに良くしてもらえて、とっても幸せです」

 誰かが気に掛けてくれるだけで、身体の奥がほの暖かくなる。

「だから私も、お返しがしたいって、思うんです」

「……。話すタイミングが悪かったかなぁん」

「え?」

「ううんぅ。何でもないよぉ。そうだねぇ、まぁ、私は樹宝さんの配下だからぁ、本当に気にする必要はないんだけどぉ」

 ビオルさんはちょっとだけ苦笑するようにそう言って、またいつものように笑みを浮かべた。

「その気持ちを受け取らないのもぉ、それはそれで失礼だよねぇん。くふ」

「じゃあ!」

「ただしぃ、お返しはぁ私の欲しいものにしてくれるぅ?」

「はい! 勿論です!」

「うふ。じゃあ、お願いしちゃおうかなぁん」

 ニィィッと三日月みたいな笑みを浮かべて、ビオルさんは言った。

「樹宝さんと二人で、お薬売りに行ってきてぇ?」




 落ち着いて。大丈夫。お誘いするだけだもの。できるはず。

 胸元で抱えたバスケットをぎゅっとする。お薬を少しとビオルさんお手製のコンフィチュールの瓶がさざめくような音を立てた。

 樹宝さんを誘って、西の麓へこのバスケットの中身を売りに行く事。それがビオルさんの欲しいものだと言われて。

 私の心臓は、うるさいくらい騒いでいます。

「樹宝さんと二人で……」

 ビオルさんに送り出されて、樹宝さんを誘いに森を抜けてあの大樹の元へ歩きながら、何度もお誘いの言葉を練習する。森を抜けて、小さな丘の上に立つ大樹の下、ドキドキの素であるその姿を見つけて鼓動が跳ねたけれど、同時に止まりそうにもなった。

 樹宝さんが綺麗な女の人と一緒に居る。

 うん。綺麗。栗色の柔らかいウェーブの掛かった足元まである長い髪に、薄紅の裾から上に行くほど白くなるゆったりとしたシンプルな袖なしワンピースに、桜色のショールが西域や東域で天女と呼ばれる人たちが纏っている羽衣のようで、樹宝さんの方を向く横顔は長い睫と白い肌が瑞々しい。本当に綺麗な人で。

 胸の中で煙みたいなもやもやが広がって、苦しい。喉に苦い何かが絡みつくような不快感。これは、何?

 女の人が何かを言って俯く。そんな様子も儚げで、美しい。樹宝さんも、少し困ったみたいな顔をして頭を掻いているけれど、色違いの双眸はどこか優しくて。

 どうしよう。声が掛けられない。今、声を掛けたらとんでもない事を言ってしまいそうな気がするから。

 でも、逃げ帰る前に樹宝さんが不意にこちらを、私を見た。

「何だ。用でもあるのか小娘」

「あ……」

 離れた場所なのに、呼びかけられた途端、喉に絡み付いていたものがスゥッと溶けて消えていく。まだ胸の内にもやもやは残っているけれど、息ができる。

「樹宝」

 女の人が樹宝さんに声を掛けて、ちらりと濃い緑の瞳で私を見た。少し低めの落ち着いた響きの声に応える様に、樹宝さんが女の人を見る。

「わかってる。心配するな」

「ならいいの」

 女の人は樹宝さんから離れてこっちに歩いてきた。静かに私の横を通り過ぎる、その瞬間に一言。

「あまり、樹宝に近づかないで」

「っ!」

 樹宝さんと話していた時は低くて優しい声だと思ったそれは、私に向けられた内容と相まって木枯らしのようだった。固まった私を残して、女の人はそのまま森の奥へと消えていく。

「小娘、何の用だ」

 樹宝さんがすぐ側まで歩いてくる。

「…………」

 黙った私を、樹宝さんが覗き込む。

「おい?」

 あ。駄目。

「あ。おい! 小娘!」

 くるっと視界が変わったのは、私自身が踵を返したから。

 だって、どうしていいのか……。樹宝さんの顔が見られない。

 私、きっと酷い顔をしてる。もやもやした煙が渦巻いて、何を言い出すか自分でもわからない。だからって逃げてもどうにかなるわけじゃないのに、逃げちゃ駄目なはずなのに。

「少し一人にしてください!」

「はぁっ? 何なんだよ!」

 意味わかんねぇっての! そう叫ぶ樹宝さんの声。自分でも驚くくらい足が速く動く。いつもならこんなに激しく動いたらたちまち切れる息も、今は息をしているのか疑わしいくらい微塵の苦しさも感じない。

 抱えたバスケットの中で瓶同士がかち合って抗議の声にも似た音を立てる。割れちゃったらどうしよう、なんて考えるのに止められない。どうにか足が止められるようになった時には、私はペタンとバスケットを抱えてうずくまる様にへたり込んでいた。

 途端に思い出したみたいに息が苦しくなって咳と動悸が競り上がってくる。喉はひりひりして、おかしな所に空気を吸い込んだみたいに激しくむせ込むと、じわりと視界が滲む。抱えたバスケットが咳き込みの度に跳ねる身体と一緒に揺れてさっきよりも盛大に瓶たちが悲鳴を上げた。

 私、馬鹿だ。嫌い。

 樹宝さんは追いかけてこない。自分で一人にしてくださいって言ったくせに、一人にされて悲しいって思ってる。

「ごめんなさい」

 誰にも聞こえない言葉を口に出したって意味無いのに。

「……戻ったら、樹宝さんに、言わなきゃ」

 その前に、多分すっごく酷い顔になってるから、どこかで顔を洗いたい。

「綺麗な人、だった」

 ぽつりと無意識に零れた言葉で、思わず思い出した女の人。儚げな容姿がまるで夢の様な美しさで、あんな綺麗な人が目の前にいたら誰だって見惚れるって思う。なのに私、自分だってそうだったのに、樹宝さんがあの人を見るの、嫌だって。

「これ、嫉妬だよね……?」

 知らなかった。嫉妬ってこんなに嫌なものだったんだ……。嫌なのに、止められない。

 そっちを見ないで。樹宝さん。

「言えるわけないよ。……言って良い言葉じゃないよ」

 なのに喉まで出掛かった。しかも、樹宝さんが私に向いてくれたら、今度は……。

「見せられないよ。見られたくない」

 出掛かった言葉も、樹宝さんは何も悪くないのに睨み付けそうになるそんな顔も、樹宝さんにだけは見られたくない。

「嫌い。最低だよ、私……」

 樹宝さんに当たりそうになった上に、今はあの女の人の事を嫌いそうになってる。

 ―― あまり、樹宝に近づかないで。

「……でも、どうしてお願い?」

 木枯らしのような冷たい声と言葉を思い返して、不意に引っかかる。気のせいかもしれない。けれど、あの時の瞳と声には悲しそうなものがあったように感じられて。

「多分、良い人なんでしょうね」

 だからその言い方になっただけなのかもしれない。でも、普通もっと、きつい言い方するんじゃないのかな? 『近づかないで』は、お願い。その前につけた『あまり』にしても、どうして付けたのかわからない。

「樹宝さんに近づくな、でも良かったはずなのに」

 近づくな、なら命令。ああ、何だろう。

「……私、むしろ樹宝さんに言われた事の方がそれっぽいです」

 出会い頭から「帰れ」って言われてますし。

「何だか……変なの」

 気が抜けちゃうような奇妙な感覚。同時に、喉元から引いていく嫌な塊。残るのは、自分の心だけ。

「お願い、聞けません」

「そう」

「ひゃっ?」

 いきなり降ってきた声に飛び上がる。視界に入ったのは、今まさに考えていたあの女の人。晴れた森で静かに見守るような濃い緑の瞳が私をどこか気遣うように見下ろしている。やっぱり、綺麗な人。

「驚かせた? ごめんなさい」

「お、驚きました……」

 心臓が飛び出しそうになるくらい。

 実際に飛び出したのは、ガチャン! と音を立ててついにバスケットから飛び出したコンフィチュールの小瓶だったけ、ど……。

「ああ!」

 驚いて飛び上がった拍子に転がり落ちた小瓶は、少し斜面になっていた森の地面をコロコロ転がっていく。

 私の上げた声に今度は女の人が驚いた顔になったけれど、それを確かめているだけの余裕は私にはなく。

「ま、待って!」

 そうは言っても小瓶が待つわけも無く。無情にも脱走する子ウサギのような逃げ足を披露してくれる。本当に足でもあるんじゃないのかしらって、この時は本当に思ったくらいの速さで。

「待ってー!」

 バスケットを置いて、小瓶を追うために駆け出す。さっきのあれはやっぱり火事場のなんとやらだったみたいで、すぐに息は詰まるし、小石や木の根のようなでこぼこがある斜面に足を取られて思うように前に進めない。

 そして私の目には絶望の結末が飛び込んできた。

「いっやああああああああああああああぁぁぁ!」

 斜面の終わりにあったのは、きらきら陽の光を弾く水面。笑うようにさざめくそこへ、小瓶はポチャンと音をさせて入水した。

 小さな泉の淵で肩を落として座り込む。綺麗な水面だけれど、意外に深いらしく底は見えない。

「折角ビオルさんが作ってくれたのに……」

 どうしよう。そう呟いた矢先、水面に私以外の顔が映る。それはあの女の人でもなくて。

「ビオルが?」

「ひゃう!」

 思わず奇声を上げて見上げた先に居たのは、背の高い濃紺の短い髪に白い肌、涼しげな切れ長の薄水色をした瞳の男性。西域の方では確かアオザイと呼ばれている裾から太腿部分までスリットの入った、足首まである群青色の長衣に、白いズボン、茶色い革のサンダル。迫力の美形なのは間違いなくて、でも、上から見下ろされると威圧されちゃうような気が。

「……。オレは何か怖がらせるような事をしただろうか」

「ご、ごめんなさい! だ、大丈夫です」

「そうか?」

 威圧感があるくらいの美形でも、ほっとしたように肩の力を抜く仕草が何だか優しくて、強張った緊張が解けていく。

「それで、ビオルが作ったものがどうした。樹宝の嫁」

「まだ決まってないわ。水の」

 振り向けば、私の置き去りにしたバスケットを抱えた女の人が歩いてくる。

「だが、ビオルが言っていた」

「本人たちの意思じゃないわ。ビオルが言っているだけ」

「そうなのか?」

 青い男の人は、最後の言葉だけは私を見て首をかしげた。

「私はなりたいです。樹宝さんのお嫁さん」

 考えるより早く、口から答えが零れだす。自分でも驚くくらい素直に。

 何で、樹宝さん以外の前ですぐに出るのに本人に言えないの?

「嫁の方はこう言っている。少なくとも、ビオルだけじゃない」

「……ともかく、まだよ。決まってない。樹宝は了承してない」

 う。女の人の言葉がざっくり突き刺さる。

「……そうか。それは別として、樹宝の嫁候補」

「は、はい」

「ビオルの作ったものがどうした」

「あ」

 いきなりの衝撃で一瞬飛んだけど、そう。この泉に沈んだ絶望をどうしよう。

「ビオルさんが作ってくれたコンフィチュールの小瓶が、落ちちゃって」

「……仕方ないな」

 物憂げに青い男の人がそう呟いた途端、小さな泡が水面にいくつも浮かぶ。何事かと見ていると、落として沈んだはずの小瓶がぷかりとその姿を見せた。

 小瓶を取り上げ、青い男の人は目を丸くする私の前にその小瓶を差し出してくれた。

「これで間違いないか」

「は、はい!」

「それ、大丈夫なの?」

「え?」

「一回、水に落ちたのでしょう。コルクで栓をしていても限界があるわ」

「あのビオルに抜かりがあると思うか?」

 コンフィチュールの蓋に被せられていた赤と白のチェック模様のクロスは水を弾いている。

「水がしみこまないように加工済み。恐らく中のコルク部分にも縁をシーリングワックスで固めるくらいやっているだろう」

 受け取ったイチゴのコンフィチュールの小瓶はきらきらとルビーみたいに光った。

「ありがとうございます」

 嬉しくて小瓶を抱きしめ、そう言ったら、青い男の人は珍しいものでも見たような顔になって、女の人は苦いものでも食べた顔になる。

「……樹宝の嫁候補」

「はい?」

「嫁になれると良いな」

 そんな言葉に、私は目を瞬いた。けど、その言葉が嬉しくて。

「はい!」

 思わず笑顔になって。

「嫁候補、名は?」

「あ。ミルリトン・マーシュ・マロウです。リトって呼んで下さい。コンフィチュール、ありがとうございます!」

「礼を言われるほど、大層な事ではないが、悪い気はしない。お前は見ていて気持ちが良い。(ひょう)(かん)と、呼べ」

「水の!」

「オレの事はオレが決めて、何か不都合があるか」

 氷冠さんと女の人の間で無言の牽制が交わされているようで、心なし空気が冷たくなったような気がする。

「リト。気にするな。そちらに非があるわけではない」

「……それは、同意します。それと、樹宝の所から逃げ出したのは、私の言葉が原因かと推察しました。それについて、不用意に傷つけてしまった事は、お詫びします」

「あ……」

 女の人はどこか消沈したように瞳を伏せそう言った。その様子だけで、やっぱりあの言葉に悪意はないんだってわかって、逆に私の胸が痛む。

 やっぱりこのひと、良い人だ。

「あの、私こそ。樹宝さんにもですけど、あなたにも、ごめんなさい」

「? 貴女が私に謝る事などないでしょう」

「私、あなたに嫉妬しました」

「…………嫉妬?」

 物凄く不可解な事を聞いたとでも言いたげな顔で女の人は呟き、氷冠さんは水色の瞳を丸くする。

「土の。樹宝に何をした」

 氷冠さんが腕組みをしてそう問えば、

「誤解を与えるような何かがあると思うの? 水の」

 心底心外そうな顔で女の人も眉根を寄せる。

「あるからリトがそんな面妖な感情を抱いたのだろう」

「覚えが無いわ」

 私の言葉がどうやら『ありえない』事だったみたいで、二人の間で論議が始まってしまった。ど、どうしよう。

「……。どの道、私が原因だった事に変わりないもの。誤解をさせてごめんなさい」

「い、いえ」

「でも、私が樹宝に対してそのような感情を抱くことは無いから、それは覚えておいて」

「…………あの」

「何かしら?」

「樹宝さん、素敵な人なのに、無い、んですか?」

 何故かお二人がこちらをじっと見てくるんです。物凄く変なものを見るみたいに。

「素敵」

「樹宝が? ちなみにどこが」

 何でそんなに確かめるのでしょう?

「だって、樹宝さんとっても優しいです」

「リト。ビオルは優しくしてくれないのか」

「え。とっても優しいですよ?」

「ならば何故、樹宝だ」

「水の、の言うとおり。優しい、というのが良いなら、ビオルでも良いのでは?」

 優しければ誰でも良かった?

 そうだとしたら、何で私は……。

「おい。小娘」

「え?」

 呼び声にはっとして意識を呼び戻すと、樹宝さんが色違いの双眸で私を訝しげに見つめていた。

「お前の中で建造物というのはぶつかっていくものなのか」

「あ」

 見れば後数歩で、漆喰で固められた壁とおでこを突き合わせる事になりそうだった。

「どうした。とうとう頭の中がおがくずにでも変わったか」

「か、変わってないです」

「それなら物の認識くらいしろ」

「は、はい……」

「……?」

 うう。何か頭がぐるぐるして樹宝さんの事、ちゃんと見られない。

 あの時、氷冠さん達の問いかけに返すことは出来なくて。優しければ誰でも良かったわけじゃない。そう思うのに、じゃあ何で樹宝さんなの? って自分で考えてもはっきり言えない。

「おい、小娘」

「…………」

 どうしてかな。それでも。

「おい!」

「へ? っひゃふ!」

 樹宝さんの声に我に返った瞬間、ぐいっと腰を引かれた。すぐ目の前を沢山の藁を積んだ荷車が通り過ぎる。

「お前は、俺の言った事を聞いていないのか?」

 前見ろつったよな? と樹宝さんは私の腰を後ろから抱えつつ低い声で唸る。

「ご、ごめんなさい」

「何があった」

「え?」

「さっき……氷冠と()(なみ)たちと話してから、いつも以上におかしいだろ」

「そ、そ、そうですか?」

「……あいつらに何か言われたのか」

 あれ? 何か樹宝さん、声が……。怖い。

「おい」

 怒ってる? 何で?

「ち、違います。氷冠さんも木涙さんも、すっごく親切でした!」

「…………」

 怖いです。無言の圧力! しかも、がっちり捕まえられていて逃げられな……。

「き、樹宝さん!」

「何だ」

「放して下さい」

「あ?」

「あの、ちゃんと前見ますし、気をつけますから!」

 いつまでもぬいぐるみよろしく抱っこされてたら、心臓がどうにかなっちゃう!

 樹宝さんに後ろから抱きかかえられているって自覚した途端、自分の顔が鏡なんて見なくても何色かわかるくらい熱くなってしまって。どくどくと耳につく鼓動に心臓が痛い。

 腰に回されている樹宝さんの腕は、いつも私を支えてくれる。

 熱を出した時も、抱きかかえてくれて。転んだりぶつかったりしそうな時も、いつも支えて助けてくれた。

「そんなに嫌かよ」

「え?」

 聞こえた言葉に聞き返す前に、樹宝さんの腕が解ける。

 振り返ると、樹宝さんは私に背を向けていた。

「樹宝さん」

「今夜は食べて来いってビオルさんが言ってた。さっさと何食うか決めろ」

「は、はい」

 慌ててその背を追う。お薬とコンフィチュールはいつもビオルさんが卸している人のところへ代金と引き換えに渡したから、後は帰るだけだったけれど、樹宝さんはそう言って歩き出す。

 この間の市みたいにごった返すほど人が居るわけではないけれど、夕暮れ色に染まる村は仕事から帰ってきた人や、夕食の支度に忙しいおばさんたち、手伝いを言いつけられた子供で慌しいくらい賑やか。

 素朴で柔らかな匂いがそこかしこから漂ってくる。まさしくご飯時。

「樹宝さんは、何が食べたいですか?」

「俺に聞くな。本来、俺たち精霊には人間の食事なんか必要ねぇんだ」

 いつもよりも素っ気無い声が樹宝さんから返ってくる。ちらっとその顔を見ると、やっぱりいつもより不機嫌そう。

「だから、お前が食いたいもんでいい。さっさと決めろ」

「は、はい……」

 そう言われて辺りを見回してみたけれど、思えば今まで、家での食事しか経験がない。お祭りでも熱を出して寝込んでいる事が多かったし、自分の家以外で食べる事自体が未経験だと、私はこの時になって思い至った。

 ど、どうしよう……。

 樹宝さんは何か不機嫌だし、何でもいいって。私が食べたいもので良いって。どうしよう……。

「おい?」

「ちょっと樹宝。女の子いじめてるって本当だったの?」

「げ。炎天(えんてん)

「うわぁ……すごく綺麗」

「あら。んふふ。わかってるじゃないこの子」

 夕焼け空の色と黄昏の金色、それとも踊る炎? 赤に金、少しの青と緑、それは炎を紡いだような髪。背が高くて、樹宝さんと同じくらいありそう。それから間違いなくとびっきりの『迫力』美人。

 くりっとした猫のような瞳は金色で、厚みと艶のある唇には花の紅。少し日に焼けた身体に纏うのは肩もお腹も、それどころか脚も腰に巻かれたパレオから惜しげもなくさらけ出されている露出度のもの。しょ、正直、胸と腰のパレオ部分しか布面積が無いです。でも、それが似合ってしまう凹凸があって。

「はぁい。あなたが樹宝のお嫁さん?」

「え。あ、あの」

「氷冠やビオルからお話聞いて、会いたくて来ちゃったの。ね、お姉さんとご飯しましょ?」

 ばちこん。ばっさばさの長い睫に彩られた金色の瞳で、そのお姉様は片目を瞑って見せてくれました。




 樹宝さんに炎天と呼ばれた迫力美人さんと一緒にご飯を食べる事になり、それは良いんですけど……。

「……」

 私の左席には樹宝さん。不機嫌そうです。

「ねぇ、どんなのが好き? お酒はいけるのかしら?」

「い、いえ。あまり強くなくて。お酒はちょっと、苦手、です」

「いちいち相手にすんな馬鹿」

 う。ごめんなさい……。

 樹宝さんの不機嫌な声に視線が下がる。

 その視界にたおやかな細い腕が伸びて、私の頭を豊満な胸元へ抱き寄せた。

「ちょっと樹宝。女の子になんてこと言うの。これだからお子様は」

「あ?」

 ばちばちと不可視の火花が盛大に散っています。

 どうやら、樹宝さんと炎天さんと呼ばれたこのお姉さんはあんまり仲が良くないみたいです。

「こんなトゲトゲお子様の隣じゃお酒もご飯も美味しくないわ。さ、行きましょ」

「ふえ?」

「おいこら、何勝手に持っていこうとしてる」

「うるさい。女の子に話しかけるなら、眉間のしわ取ってから出直しなさい」

 私の頭を抱きつつ、お姉さんは樹宝さんを一蹴して立ち上がり、少し離れた席へと移動しました。お姉さん、お強いです。

「さ。邪魔者はいなくなったし、改めて。アタシは炎天。ヨロシクね」

 お水の入ったコップを軽く掲げて、お姉さんこと炎天さんはそう言った。

「あ、ミルリトン・マーシュ・マロウです。よ、よろしくお願いします」

「んふふ。やーん、照れてる顔もやっぱり女の子は可愛いわぁ」

 つんつん、と炎天さんの指が軽く私の頬をつつく。綺麗な色に染めた爪で、やっぱりこの人は溢れんばかりの艶やかさ。

「リトちゃん、でいいのよね? 呼び方」

「は、はい。えんてん、さん」

「あら。あー。やっぱり、リトちゃんの地域では呼びにくそうね」

「大丈夫ですよ。樹宝さんも同じですし」

「そう? んー。でも、やっぱり咄嗟に呼べないのは不便だわ。アタシの事はそうね……、フレアって呼んで」

「フレアさん」

「そう! リトちゃん専用の呼び方よ。フレア。呼んでくれたら、いつだってあなたの側にいってあげる」

 ぱちん、とウィンクする炎天さんに、何だか自然に頬が緩んで、私はいつの間にか頷いていて。

「はい。ありがとうございます。フレアさん」

「ふふ。ねぇ? リトちゃんはあっまーい林檎のお菓子は好き?」

「あ、はい」

「じゃあ決まり。おじさーん! この焼き林檎のポテト添え、それとカラント酒のジョッキ一つお願い」

「お、お酒は私だめでっ」

「あはは。大丈夫。お酒はアタシのだから」

 運ばれてきた林檎は火を通したおかげで甘みを増し、果汁はバターの塩気に甘みをより引き立てて、中身はとろけそうな金色。

「わぁ!」

「ふふ。冷めないうちに召し上がれ」

「は、はい!」

 ジュワッと染み出す果汁は熱かったけど、やっぱり美味しい。添えられた馬鈴薯(ポテト)も果汁を吸い込んでいたけど、こちらはどちらかと言えば酸味の爽やかさと一緒になって口の中を甘いだけにせず調和を保つ役目をしてくれている。

「どう?」

「美味しいですっ」

「良かったわ。可愛い女の子が美味しそうに食べているの見ると、アタシのお酒も格別だし」

 そう言って炎天さんはジョッキに注がれた泡立つ赤いお酒をごくっと一気に飲み、気持ちよさそうにぷはっと息を吐いた。

「あー、美味しい!」

「ふふ。フレアさんお酒がお好きなんですね。本当に美味しそうに飲まれますし」

「んー? まぁ、そうね。でも、今はリトちゃんが居るからよ。あのバカ樹宝とじゃ楽しくないもの」

 そう言いながら、炎天さんがこっちを見てさっきよりも険しい顔になっている樹宝さんに舌を出して見せる。嗚呼、樹宝さんの顔が引きつってる。

 ハラハラしている私をよそに、炎天さんが内緒話をするように少し顔を近づけて。

「ね。リトちゃんはあれのどこがいいの? あれ、粗暴だし女の子の心の機微なんて断言するけど絶対わかんないわよ?」

「……ええと」

 優しい。それだけなら、きっと他にも沢山いる。何で樹宝さんじゃないと駄目なのか。氷冠さん達に問われたその答えを聞かれているような気がした。

「氷冠さん達にも、聞かれたんですけど」

 どうして樹宝さんなのか。初めて会った時にまず言われたのは「帰れ」で、歓迎なんかされなかった。向けられる視線は得体の知れない人間を見るそれで、親しみなんて欠片もなくて。

「初めて会った時、樹宝さん、私のこと、良く思ってなかったと思うんです」

 だけど、それは当たり前で、誰だっていきなり会ってすぐ『お嫁に来ました』なんて言われてもわけがわからない。互いに知らない。

「当たり前ですよね。だって、私、とっても失礼でした」

 知りもしないのに、軽々しく『好き』って言って。ううん。

「好きでもないのに、お嫁さんにして欲しいなんて」

 精霊王の花嫁。だからお嫁に来ました、なんて。樹宝さんの気持ちなんて一つも考えてなかった。そんな相手を好ましくなんて、思えるはずも無いのに。

「いきなり現れて、樹宝さんのお気に入りの場所まで取って」

 言葉の端々にも私への感情が滲んでいて、最初は本当に少し怖かった。

 投げ落とすって言われた時も、本気だってわかったし。

 でも、

「樹宝さん、それでも『私』を見てくれました」

 失礼で図々しい。そんな人間の小娘。なのに、一度だって樹宝さんは見捨てたりしないで傍にいてくれた。もしかしたら、それが樹宝さんじゃなくてビオルさんだったとしても、見捨てたりしなかったかもしれない。多分、しない。

 けれど、きっと、樹宝さんじゃなかったら、―― 私は恋をしなかった。

「何を言っても、いつも私を見て傍に居てくれて」

 自分から見ても酷い出来のお菓子を、不味いって言うのにいつも食べてくれて、いつも何気ない素振りで気遣ってくれる。触れて、知る度に、変わる。私はもっと樹宝さんに近づきたくて、変わりたいって思う。

 優しいって感じるだけじゃなく、そう思えるのは樹宝さんだから。

「少しずつ、樹宝さんは私を受け入れてくれるのも、その、己惚れかもしれないんですけど、感じるんです」

 最初の親しみの欠片もない視線は、もう感じない。樹宝さんの色違いの瞳は、怒ってもそこに違う何かがあるから。それは気遣う色だったり、不可解に戸惑う色だったり、それから……。

「樹宝さんは、優しいです。けど、それだけじゃなくて、いつも私を見て、私を少しずつでも受け入れようとしてくれます」

 それは『私』を見てくれていなければ、知ろうとしてくれなければ叶わない事。

「私、もっと樹宝さんの事が知りたいです」

 だから、私も樹宝さんのことをもっと知りたい。私も受け入れたい。互いの事を知りたいと思うこの心を世間一般で恋と呼ぶのかはわからないけれど。

「それで、今度は……ちゃんと言いたいんです」

 樹宝さんの事を知って、ちゃんと樹宝さんを見て、言いたい。

 ―― 好きです。お嫁さんにして下さい。

「樹宝さんに私の気持ちを」

 これは、樹宝さん以外の誰かじゃ駄目な気持ちだから。

「……そっか。うん。わかった。ふふ。やっぱり、リトちゃんて可愛い」

 炎天さんがそう言ってそっと額を私の額にくっつける。

 うう。自分で言っておいてなんですが、何だかくすぐったくて段々首から上が熱くなるみたいな。耳とかが赤くなっていくのが自分でもわかるくらい。

「そんなリトちゃんに、アタシから一つ教えてあげる。樹宝って、結構子供でやきもち焼きよ」

「え?」

 聞き返す前に私たちのテーブルに影が落ちた。

「よう。綺麗どころが揃ってるじゃねぇか。お嬢ちゃんたち、おじさんたちに酌してくんねぇか?」

「あら。樹宝の前におじ様達が釣れちゃった」

 赤ら顔のおじ様たちが三人、私たちに空のジョッキを掲げてみせる。

「そっちの嬢ちゃんは良い飲みっぷりだったじゃねぇか。 どうだい、一緒に飲み比べしねぇかい」

「あらぁ、悪くないわね。リトちゃん、どうする?」

「え。わ、私は」

「却下に決まってんだろうが」

 不機嫌ここに極まれり。声にありありとそれを滲ませた樹宝さんが私の身体を後ろから抱え上げた。

「樹宝さん!」

「そっちのは兎も角、これは却下だ。帰るぞ。小娘」

「は、はい。あの、でも、降ろしてくだ」

「黙れ。行くぞ」

 樹宝さんに抱えられ強制連行される私の視界の端に、ひらひらと笑顔で手を振る炎天さんと呆気に取られたようにこちらを見ているおじ様たちが映る。

 ざかざかといつもより荒い足音に苛立ちが滲んでいて、ぬいぐるみみたいに抱えられた状態が少し苦しい。

「樹宝さん」

 苦しいです。私がそう小さく呟くような声を上げたら、樹宝さんが足を止めた。そのまま、抱えられた時より慎重に地面に降ろしてくれて。

 黙った樹宝さんを、ちょっと怖々見上げてみる。

「……」

 う。やっぱり、怒ってます。

「樹宝さん、ごめんなさい」

「んで謝るんだよ。つーか別に俺は怒ってねぇだろ」

 いえ、だって怒ってますよ? 顔が。

「…………」

「……あの」

「お前は」

 樹宝さんが睨むように私を見ながら口を開く。

「精霊なら誰でも良いんじゃねぇだろうな」

「…………え?」

 樹宝さん、今、何か聞こえましたけど、何かおかしいです。

 目を瞬く私の前で、樹宝さんは憮然とした表情のまま両腕を組む。

「氷冠や木涙にも会って、名を訊いたんだろう」

 訊いたというか、教えてくれましたけど……。

「ビオルさんは最初の頃に訊いて、最後はあいつにまで」

「あの、樹宝さん? えっと、お名前って聞いちゃいけないんですか? あと、精霊って」

「…………お前、まさかあいつらが人間とか思ってねぇだろうな」

「……」

 そういえば、池からコンイフィチュール取ってくれた氷冠さんて、どうやって池に入らないで……。

「この阿呆が。氷冠も木涙も、それからさっきの炎天も。全員、精霊だ」

 確かに、皆さん稀に見る美男美女でしたけど、精霊さんて皆あんなに綺麗なんですか。

「しかも四大の長、全員じゃねぇか」

「しだい……?」

「お前な……。ビオルさんに薬学教えてもらってんだろうが。基礎だぞ」

 そういえば、この世界の元素について知ることも大切だからって、ビオルさんが少し教えてくれたような……。

 地火水風の四大、そこに光闇が加わり六つ。世界を構築する大きな要素だと。

 薬にもそれらに属する性質があって、たとえば消毒する事や解毒は火に属する材料を使ったりする事が多い、とか。眠りに関することなら、水や闇に属する材料を主にして作るとも。

「うふ。精霊っていうのはぁ、何も特別な存在じゃあないんだよぉ。忘れられ、いつか誰もがその姿を見られなくなる日が来たって。いつだってぇ、いつもすぐ側にあるもの。当たり前の日常の中にぃ、いるんだよぉ。ずっとねぇ」

 私たちの生活と一緒にあるのだと教えてもらったのを思い出す。

「精霊にとって、名は特別なんだよ」

 じとりとした目で、樹宝さんが私を見る。

「名には精霊のそのものが現れる。真名でないとしても、名を教えて呼ぶ資格を与えるってのは人間ほど気安くするもんじゃねぇ」

 据わった目のまま、何故かじりじりと樹宝さんが距離を詰める……というより、あの、今、私の背中に木の感触がありました。

 知らずのうちに後退っていたみたいで、気がついたら私は退路を木に塞がれて、目の前には樹宝さん。眉をしかめて、唐紅花と橙の瞳が私の事を覗き込む。

「樹宝、さん?」

 顔が近いです。体温が急上昇して、発熱しそう。

「お前は」

 不機嫌そう、だけど、そこに何故か混じる拗ねた様な声。

「『誰』を最優先するつもりだ?」

 魅入られる。光る双眸のその奥へ引き込まれて落ちて行きそうな、くらくらとした酩酊感。うるさいくらいの自分の鼓動が遠くなる。

「樹宝さん、です」

 自分でも呆れるくらい間抜けな声が、口から自然に零れ落ちた。

「…………」

「っ」

 嗚呼、嘘。どうしよう。

 零れた応えに、樹宝さんが微笑む。満足そうに。その眼差しがあんまりにも反則的なくらい優しさに溢れていて、そこに混じった安堵の色があんまりにも蠱惑的で、冗談じゃなく心臓が止まりそう。

「ふん。当たり前だな」

 得意げな表情で上機嫌に頷く樹宝さん。子供っぽいくらいの笑顔と台詞はいつもの表情とも違っていて、ちょっと傲慢で。だけど。

「はい……」

 どうしようもなく胸が苦しくて、またこの人に、恋をする。知る度に、私は樹宝さんに恋を重ねてく。

「だから、何かあればまず俺に言え。お前には俺の名を呼ぶことを許可してやっているんだからな」

 光栄だろう? そんな様子が何だか、可愛い。だから思わず私も笑顔になってしまって。

「はい。樹宝さん」

 そんな少しの『特別扱い』が、嬉しいんです。

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