一人きり
どうやって家に着いたのか、分からない。顔を上げると、玄関の前に立っていた。
「ただいま……」
鍵がかかっている。僕は合鍵を取り出すと、開けて中に入った。
急に振り出した雨で体が濡れた。そのまま廊下を歩く。そして、台所で立ち尽くした。
家には誰もいなかった。
父が会社を辞めた事を知ったら、玲子さんは家を出て行くのだろうか。稼ぎのない父に愛想をつかして、鷹也を連れて出て行ってしまうのだろうか。
そう思うと、苦しい気持ちが込み上げてきた。
「そんなのやだ……」
部屋に戻り、髪の毛を拭いて洋服を着替える。
それから手を洗って台所に入ると、冷蔵庫の中身を確かめた。
夕べ、鷹也が食べたいと言っていた焼肉の残りがあった。
サラダも用意しようと思い、冷蔵庫から買っておいたカニの切り身と小エビを用意した。
ミズナをざっくりと切って、玲子さんが好きなドレッシングを確かめた。
いつものように振舞えばいい。
何もなかったようにいい子でいれば、きっと鷹也と玲子さんは、すぐに出て行かない。
黙々と作業をした。父と二人きりだった日を思い出す。父のために作っていた料理も、今は自分も含めて四人分だ。
あっさりとしたものとお肉料理を用意すると、僕はテーブルに並べていった。四人分の湯のみ、茶碗にお皿を数枚用意して、箸置きにはお箸を並べておく。
自分の座布団に座って、三人を待った。
静かだった。
聞こえるのは、激しく振り出した雨の音くらいだった。
みんなを待ってから、一時間が過ぎた。
どうして誰も帰って来ないんだろう。
父と玲子さんは、今日は二人きりで過ごすはずではなかったのだろうか?
もしかしたら、どこかに出かけて今日は帰って来ないのかもしれない。
鷹也は……。
鷹也は、きっと真由葉さんの家だ。
僕は、お茶を注いだ。すっかり冷めて生ぬるくなっている。口に含むと蒸らし過ぎて渋くなっていた。
「いただきます」
手を合わせて箸を取った。ご飯を少し取って口に入れる。おかしいな、お米がしょっぱい。さっきお茶を飲んだ時も、何だか塩辛かった。
一人きりの食事には慣れているはずだったのに。
口を動かしながら、もうみんな帰って来ないんじゃないかと思った。
玲子さんは父の事が好きだから、父を連れて出て行くかもしれない。そうなったら、邪魔になるのは僕だけだ。
鷹也には真由葉さんがいるし、僕は、タレントになって自分で稼いでいくしか道はないのかもしれない。
冷たくなった牛肉と色の悪くなったピーマンには手をつけなかった。
くちゃくちゃとご飯だけ噛み砕いていると、がらっと玄関の戸を開ける音がして、僕ははっとした。
慌ててうつむく。
「翠っ。いるのか?」
鷹也の荒々しい声が響いた。
「この野郎。お前、どこに行ってたんだよっ。探したんだぞっ」
「翠くんいるの?」
玲子さんが駆け寄ってくる。
「心配かけちゃダメじゃないか」
追うように父の声もした。僕はご飯を手に持ったまま、じっとうつむいていた。
「聞こえてんのか? 顔を上げろよ」
伸びてきた鷹也の手を振り払った。
「あっ、こらっ」
僕は、何度目かの逃走を図った。
「待てっ」
必死で階段を駆け上がり、部屋に飛び込んだ。
同時に、鷹也も中に入ってくる。
「翠っ」
うしろから洋服を引っ張られる。
「お前、勝手な事してんじゃ……」
何か言おうとした鷹也は口をつぐんだ。
「何で泣いてんだよ」
「ちが……」
泣いてないと言いたかったが、涙が口に入ってうまくしゃべれなかった。鷹也は困ったように、頭をがりがりと掻いた。
「俺が何かしたか? そんなに遊園地に行きたかったなら、素直に言えば……」
「…おにい…ちゃん……」
「え……?」
「僕……おにいちゃんの事、好きだから…」
鷹也は目を見開いて、金魚みたいにパクパクとさせた。
「な、何言って…」
「だ、だから…僕とお父さんを捨てて、出て行ったりしないで……」
僕は鷹也の胸にしがみついた。
「お願い、僕、お兄ちゃんって呼ぶから。素直に言う事、聞くから……」
「翠っ」
突然、鷹也の怒ったような声がした。
「な、何…?」
僕の肩をつかむと真剣な顔で見つめた。
「何があった」
「な、何も…」
首を振ったが、嘘をつくなと言う鷹也の手が肩に食い込んだ。
「い、痛い……よ…」
「翠、今日、どこにいたんだ? 俺は心配して探していたんだぞ」
「今日…」
僕は叔父と社長の顔を思い出して、涙が溢れ出した。
「お、叔父さんと、あ、会ってた…」
「何…?」
鷹也が顔をしかめた。
「それでっ?」
「じ、事務所に連れて行かれて、タレントになれって…」
「サインしたのかっ」
「し、してない。怖くて逃げた…」
鷹也がほっとして手を離す。
「よかった…。それで、そいつらと何を話したんだ」
「お父さんが、僕のせいで会社を辞めたって聞いて……」
鷹也がはっとした顔をした。
「本当なの?」
「会社を辞めたのは本当だ。でも、お前のせいじゃない」
「でも……」
「翠は何も気にしなくていい」
鷹也は優しく言うと、涙を拭うように僕の頬を撫でた。
僕はほっとして鷹也の胸にもたれた。
背中を撫でてくれる手が気持ちよくて、ゆっくりと目を閉じた。




