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対面




 梅雨入りしてから、雨の日が続いていた。


 日曜日の朝、いつものように七時に起きて、朝刊を取りに玄関へ向かった。すると、ガラス越しに黒い物体が見えた。


「何……?」


 恐る恐る引き戸を開けようとしたが、なかなか開かない。

 すると、引き戸にもたれていた黒い物体、それは見たことのない男だった。

 思わず悲鳴を上げようとすると、男が僕に気付いた。


「あぁ……?」


 無精ひげの男は目をしょぼしょぼさせて、ぶるっと体を震わせた


「やべぇ、もう少しで風邪を引くところだったぜ」

「け、警察を呼ぶぞっ…」

「あああ?」


 男はゆっくりと立ち上がり僕を見下ろした。


 で、でかい…。


池内いけうちすいだろ」

「え……?」

「かわいい顔してるなぁ…」

「な…っ」


 男は大きな手で僕の頭をぐしゃぐしゃとかきまわした。


「かわいいかわいい」

「やめ…っ」

「上がるぞ」


 男は玄関に入ると、このまま上がり框を上がって、家の中へ入っていく

 僕の名前を知っていた事もショックだったが、それよも引き留めなくては。


「ま、待って…」


 追いかけて腕に触れると、ひんやりしていた。思わず手を放す。


 いつから外に?


 戸惑っている間にも、男は部屋の中へと進んで行く。


「ま、待てったら、勝手に人の家に入るなよっ」

「風呂場はどこだ?」

「は…?」

「ほら、汗臭いだろ」


 男は太い腕を鼻元へ近づけてきた。僕は顔を歪めた。


「というわけだから、風呂場に案内しろ」


 男はにたりと笑った。

 ようやく手に負えない事に気付いた。


「お、お父さーんっ。助けてえっ」


 いきなり悲鳴を上げたので、男はぎょっとして目を見開いた。


「おいっ」

「…むぐっ」

「お、お前、いきなり大声出すなっ」

「やだっ、汚い体で触るなっ」


 じたばたすると男はいっそう力を込めて僕を抱きしめた。


「ん? お前…いい匂いがするな」


 くんくんと首筋に鼻を近づける。ぞわーと背筋が震えた。


「翠? どうした?」


 父の和男かずおがパジャマ姿で現れた。


「お、お父さん…」


 涙ぐんだ顔を上げると、後ろから一週間前にやって来た森本もりもと玲子れいこさんが現れた。

 彼女が口を押さえた。


鷹也たかや……」

「鷹也くん、どうしたのその格好」

「おはようございます。池内さん。おふくろ、起こして悪ぃな」

「まさか……」


 呆然として見上げると、男がにやりと笑った。


「ま、そういう事だ」


 何がそういう事なのか分からない。


「お兄ちゃんて呼べよな、義弟おとうとよ」

「い、いやだっ」


 どんっと突き放すと、男が目を吊り上げた。


「な、何だとぉっ」

「助けて、お父さんっ」

「翠……」


 父は困った顔で肩を落とした。玲子さんは困惑している。


「とりあえず、お風呂に入ろう。案内するよ」

「すみません。池内さん」


 鷹也は頭をぼりぼり掻くと、父について行った。


「ごめんね、翠くん」


 玲子さんが申し訳なさそうに言った。僕は口を噛んで何も言わず、台所へ足を向けた。玲子さんはついて来なかった。


 台所へ戻った僕は大きく息をついて、お茶の用意をした。そして、炊いたばかりのご飯をよそい、居間にある母の仏壇にお供えをした。


「おはよう、お母さん」


 遺影を見つめてほっと息をつく。

 手を合わせると、だいぶ心が落ち着いた。


 朝刊を取りに行くのも忘れてしまったが、あいつの事を思い出すと、胸がざわざわする。


 また一人、知らない人間が家の中にいる。


 母が亡くなって数年経ち、父が再婚することになった。

 でも、僕の生活は何ひとつ変わらない。


 変えたくない。

 朝食の準備はほぼできていた。味噌汁と焼き魚とだし巻き卵。母が亡くなって、家事は僕がしてきた。今さら他人に任せられない。


 台所に戻ると玲子さんが所在なげに佇んでいた。


「翠くん、何か手伝う事あるかしら?」

「いいです…」


 小さく言って顔を背けると、玲子さんはため息をついて出て行ってしまった。彼女が来てからずっとこの調子だ。

 作った朝食をテーブルに並べていると、


「いい匂いがするなあ。お前が作ったのか?」

 

 と、背後から男の声がした。

 鷹也だ。


「寄らないでよ…」

「かわいくねえな」


 鷹也が、僕の頭を小突いた。


「いてっ」


 言い返そうとして僕は言葉を失った。さっきは浮浪者みたいだったのに、ひげを剃ってさっぱりとした鷹也は、浅黒い肌に精悍な顔つきをしていた。

 切れ長の目。唇は薄く清潔で鼻筋が通っている。きりりとした眉毛は整っていて、真面目な顔をしていると、嘘みたいにかっこいい。


「だ、誰……?」

「ああ? お前のお兄ちゃんだよ」


 僕はどきりとした。

 な、何だ? 今の……。


 鷹也は座布団に座った。


「翠」

「え?」

「ご飯、ついでくれ」

「何で僕がっ」

「夕べから何も食ってないんだ。腹が減って死にそうなんだよ」


 一日くらい抜いたって死なないよ。


 でも、言い返すこともできず、仕方なくご飯をよそいでいると、じーっと手元を見てきた。


「な、何…?」

「細い指してるな。お前、本当に男か?」

「ち、近寄るな」

「もう、臭くないぜ」

「ちが……」


 体を引いてしまうと、父と玲子さんが現れた。


「お父さん、こいつが…」

「た、鷹也ったら、もう食べてるの?」


 玲子さんが、はらはらした口調で言った。


「腹ペコだったんだよ」

「翠、鷹也くんにお味噌汁ついであげて」

「で、でも……」


 まだ、みんな手も合わせていないのに。


 不満だったが仕方なく味噌汁をついであげた。男は味わいもせずにごくごくと飲み干し、ご飯をぺろりと食べてしまった。


 四合しか炊いていないのに、足りるだろうか。

 不安になっていると、父がお茶を飲んで言った。


「翠、改めて自己紹介しよう。玲子さんの息子さんの鷹也くん。お前のお義兄さんだよ。ほら、翠も挨拶しなさい」

「……池内翠です」

「翠は何歳だっけ?」


 父がわざとらしく聞いてくる。


「十五…」

「中学っ!?」

「ち、違うよ。高校生だよっ」


 鷹也が素っ頓狂な声を張り上げた。

 僕は驚いて、お茶をこぼしそうになった。


「十も年下? 若いな…」

「鷹也くんは二十五歳だっけ」

「はい」


 鷹也はご飯をかっかとかき込み、お茶で飲み干した。

 昨日、突然やって来て、今から家族になったからよろしくね、なんて言われてもよろしくできない。


「ところで、鷹也くんは何で外にいたの?」

「アパートに帰ったら誰もいないし。そういや、池内さんのところに行くって言っていたのを思い出して。夜中、ここに来たんですけど入れなくて、いつの間にかうとうとしてたんですよ」

「よく風邪を引かなかったね」


 夜中からいたのか…。


「翠くん、朝から脅かせてごめんなさいね」


 声をかけられてハッとする。玲子さんが気遣うように見つめている。 

 ふっくらとした頬。一重瞼の小さな瞳。玲子さんと鷹也が親子だなんて信じられない。

 

 僕は机に手をついて立ち上がった。


「ご馳走様っ」


 食べ終えて食器を台所へと運ぶ。軽く洗って食器洗い乾燥機に放り込んだ。


「お父さん、片付けておいてよねっ」


 父にだけ声をかけてから、廊下へと飛び出した。


 部屋へ戻りながら、玲子さんを無視した自分に嫌気が差していた。

 三人は知り合いかもしれないけど、僕だけが仲間はずれみたいだった。

 でも、お母さんの事を思うと、仲良くできない。

 意地を張って玲子さんを無視するたびに、お腹のあたりがひんやりした。

 部屋に入って母の写真を手に取った。


「お母さん…」


 呟いた時、


「入るぞっ」


 ドアが叩かれたかと思いきや、いきなり開いて鷹也が入って来た。僕はあんぐりと口を開けた。


「な、なな……」

「ほら、これやるよ」


 ぐいと押し付けられた物を見て、僕は首筋まで真っ赤になった。女性のきわどい裸の写真にくらりとする。


「どうだ? うれしいだろ」

「こ、こんな……。だ、ダメ……」

「何言ってんだ?」


 鷹也が、僕のベッドに座った。


「あっ。す、座らないでよっ。汚いだろっ」

「ああ?」

「これもいらない。出てけよっ」


 部屋から追い出そうとしたが、鷹也はびくともしなかった。


「お前さあ、おふくろいじめんなよ」


 ぎくりとして、鷹也から手を離す。


「あからさまに無視しやがって。母ちゃんが恋しいのは分かるけどさ、いじめは駄目だろ。今度、無視しやがったらタダじゃすまねえぞ。聞いてんのか?」


 ぽこんとエロ本で頭を叩かれる。


「じゃあな」


 何も言い返せなかった。


 勝手に人の部屋に入ってきて、見たくもない女の人の裸を見せられて、玲子さんをいじめていた事をなじられて、全部、僕が悪いみたいな言い方をされて。


 でも、何も言い返せなかった。


 僕は唇を噛むと、鷹也が座ったベッドに駆け寄り、埃を払うみたいに叩いた。


「何だよ、えらそうに! どうして僕が怒られなくちゃいけないんだよ」


 鼻の奥がつんとしてきて、涙が溢れそうになった。

僕は奥歯を噛んでぐっとこらえた。


 泣かない。


 母が亡くなった時、泣かないって決めたんだ。

 あの時の悲しみに比べたらこれくらい大した事ない。


 僕は上を向いて、口をへの字に曲げた。そっぽを向いて他の事を考えれば泣きそうな気持ちはどこかへ吹っ飛ぶ。


 母が亡くなった十二歳の時、コツを覚えた。





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